第7話「土まみれの初恋」
第一章は初日に一挙公開
第二章からは、一日一話、朝七時公開です。
二〇〇五年一月、京都競馬場。
若駒ステークス。七頭立て。
俺はパドックを歩きながら、一頭の馬だけを見ていた。
小さい。
想像していたより、ずっと小さい。馬体は細く、筋肉も目立たない。周回する姿にも、威圧感はまるでない。一見しただけでは、どこにでもいる、小柄な鹿毛だ。
だが、俺は知っている。
この馬が、このあと競馬界に旋風を巻き起こすのを。
ディープインサート。
(本物だ……本物が、歩いてる……)
二十一年分の愛が、喉の奥で渋滞していた。
サインが欲しい。写真が撮りたい。せめて握手を。いや馬に手はない。俺にもない。
(落ち着け馬場進。勝ちはとっくに諦めた。今日の目的は、ただ一つだ)
◇
この一週間、俺はある作戦を練っていた。
若駒ステークスの史実はこうだ。ディープインサートは最後方から進め、四コーナーでも前とはかなりの差がある。そこから全頭をごぼう抜きして、五馬身差で勝つ。
つまり英雄は、ずっと一番後ろにいる。
そこで俺は考えた。
英雄がずっと一番後ろにいるなら、そのすぐ前を走ればいい。そうすれば、伝説の走りを、一番近くで感じられる。
新馬戦から引退レースまで、全部をテレビの前で見てきた俺にとって、これ以上の特等席はない。しかも、ただのファンでは絶対に座れない席だ。
二千メートル。約二分間。英雄を、独り占めできる。
(なんなら、ずっと見ていたい。四コーナーなんて来なくていい。永遠に向こう正面でいい)
……冷静に考えると、ただの厄介ファンだった。
(いいんだ。厄介で結構。こちとら二十一年ものの古参だ)
◇
ゲートが開いた。
喜城が、今日も得意げに前へ行かせようとする。「習った」らしい。新潟の一件で、俺が前へ行きたがる馬だと。
無視して、下がった。
「えっ、今度はそっち!?」
下がる。下がる。七頭立ての六番手。俺のすぐ後ろには、一頭だけ。
小さな鹿毛が、穏やかについてきている。
(いた……後ろに……英雄が……)
(特等席、逆に見られている気がする……しゅごい……)
振り返りたい。だが、前を向いて走らないと危ない。耳だけを後ろに向けて、英雄の足音を聴く。
(聴こえる……英雄の蹄の音が……俺の真後ろで……!)
興奮して、脚に力が入る。
パラッ。
芝の土くれが、小さく後ろへ飛んだ。
パラッ。パラパラッ。
(ああ、なんて軽やかな足音なんだ……!)
俺は気づいていなかった。興奮するたびに蹴り上げた土が、すべて真後ろの英雄の顔に飛んでいることに。
ちらりと、後ろを見た。
英雄は、土をかぶりながら、まったく同じリズムでついてきていた。
むしろ、ちょっと楽しそうだった。
(……ん? なんで英雄の顔、あんなに茶色いんだ?)
鼻先にも、まつげにも、細かい土くれがびっしり。
俺の後ろ脚が、パラッと土を跳ね上げた。それがきれいな放物線を描いて、英雄の額に命中した。
(――俺だああああ!)
(ご、ごめん! ほんとごめん! わざとじゃないんです!)
謝りたい。だが、ここで脚を緩めたら特等席を失う。いや、そもそもレース中だ。走るしかない。
(しまった。この特等席、嫌われちゃったかもしれない!)
三コーナー。
その瞬間だった。
後ろの気配が、ふっと消えた。
いや、消えたのではない。横に、来た。
小さな鹿毛が、外から俺に並んでいた。
そして、並んだと思った次の瞬間には、もう前にいた。
その走りを、俺は一生忘れない。
脚が、地面についていないように見えた。一完歩ごとに、体が空中で伸びて、空中で縮んで、また空中で伸びる。芝の上を走っているのではなく、たしかに、飛んでいた。
画面では、何百回も見た。
だが、真横から見るのは、初めてだった。
(ああ……)
実況の声が、頭の中で消えた。俺はただ、口を開けて、その背中を見送った。
英雄は、五頭をごぼう抜きにして、五馬身、突き抜けた。
俺は、七頭中七着だった。
◇
レースの後。
検量室前へ引き上げる途中で、俺はうなだれていた。
勝てなかったことが、ではない。勝てるはずがないのは知っていた。
ただ、あの走りのすぐ前で、特等席だと浮かれていた自分が、少しだけ恥ずかしかった。
その時。
こつん、と、横から鼻先が当たった。
顔を上げる。
そこに、小さな鹿毛がいた。
顔が、土まみれだった。
俺の蹴った土だ。鼻の頭にも、まつげにも、前髪にも、小さな土くれがたくさんくっついている。
(……怒られる)
俺は身構えた。
英雄は、じっと俺を見ていた。そして、穏やかな、水のように澄んだ声で、言った。
「きみ、面白いね」
……。
「ずっと、土、飛ばしてたでしょ。あれ、なんの遊び?」
……。
「また、一緒に走ろうね」
それだけ言うと、英雄は土まみれの顔のまま、厩務員に引かれて、ウイナーズサークルへ歩いていった。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
――トゥンク。
胸が、高鳴った。
新潟でダンスを踊った時の、ドクドクとは違う。甘くてほろ苦いスイーツのような音だった。
そして、馬の心臓は大きい。だから、トゥンクも大きい。
トゥンク。トゥンク。トゥンク。
胸の奥が、熱い。顔が、熱い。耳の先まで、熱い。
(これは、もしかして――)
俺、ときめいている。
二十一年、ファンとして愛してきた馬に。
「……好き」
俺は、京都の冬空に向かって、叫んだ。
「俺は! 男をやめるぞーーーーッ!! WRYYYY」
「ヒヒーーーン!!」
田中さんが、あわてて駆け寄ってきた。
「モモ!? 大丈夫!? ……え、まさかフケ!? 一月なのに!?」
こうして、俺の馬生の目標は決まった。
英雄と、もう一度走る。
そしていつか――その子どもを。
土まみれの初恋は、俺にとって、二度目の転生よりも衝撃的だった。
第1章、これにて完結です。次回から、一勝馬のこじらせ婚活が本格スタート!
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