第6話「一勝馬の実力」
第一章は初日に一挙公開
第二章からは、一日一話、朝七時公開です。
初勝利から一か月。俺は調子に乗っていた。
「新馬戦を十一番人気で勝った天才牝馬」。馬房の中では、そう呼ばれていた。俺が自分でそう呼んでいただけだが。
大門先生が、壁のグラフをにらみながら言った。
「新潟二歳ステークスに登録しよう。重賞だけど、新馬戦の勝ち方なら可能性はある」
(ある! あるよ先生! こちらには未来の知識がある!)
――そう思っていた。
◇
九月、新潟二歳ステークス。九着。
『さあ新潟の長い直線! 各馬一斉に追い出しにかかる! 外に持ち出したのはモモジリビジン! 馬場のいいところを選んだ! さあ伸びるか、伸びるか! ……伸びない! 伸びません! 馬場は伸びているが、脚が伸びない! モモジリビジン、ここで一杯か!』
勝ったのは、のちに二歳王者になる牡馬だった。知っていた。もちろん知っていた。知っていたからといって、その馬より速く走れるわけではなかった。
十二月、葉牡丹賞。十五着。
『さあ十七頭が一斉にスタート!』
(中山の内回りは前を取った者が勝つ! これは前世の統計でも明らか!)
『モモジリビジン、前を取りに行く! しかし、出足が遅いぞ、前は渋滞している!』
(……取れない! 前を取る脚がない! わかってても、届かない!)
前をとるつもりで走って、中団待機。統計は、統計を知っている全員を救うわけではない。
脚が足りないなら、鍛えるしかない。
葉牡丹賞からの三週間、俺は人が変わったように――いや、馬が変わったように調教に打ち込んだ。坂路を何本も駆け上がり、併せ馬では古株の背中に必死で食らいついた。息が上がっても、脚が笑っても、もう一本。前世の俺が見たら「無理すんな」と止めるくらいに。
大門先生が、ストップウォッチを見ながら目を丸くした。
「最近、モモの時計が詰まってきたね」
(そうだろう先生。これで次は、違う結果になるはずだ)
十二月、ホープフルステークス。七着。
『今度は一転、モモジリビジンは後方待機! 前が潰れるのを待つ構え! さあ前は潰れるか! ……潰れない! 前が全然潰れない!』
(潰れているのは、俺の心だけだ)
◇
年の瀬。美浦の風は冷たい。
俺は馬房の隅で、藁にくるまりながら天井を眺めていた。
三連敗。九着、十五着、七着。
(……そもそも、俺は何をあんなに、頑張っていたんだ?)
冷静になって考えてみる。モモジリビジンは、史実ではデビュー戦の一勝だけで終わる馬だ。その一勝は、もう挙げた。弥三郎さんの「希望の星」も、一度はちゃんと光った。
目標は、達成済みなのだ。
(なのに重賞だ、統計だ、坂路だって……。元経理課主任が、何を本気になってたんだか)
未来の知識があれば勝てると思っていた。鍛えれば変われると思っていた。だが、一勝馬は一勝馬だった。それだけの話だ。
(もういいだろう。あとは怪我なく走って、飼い葉を食って、のんびり暮らそう。それが俺の、分相応ってやつだ。結論! 経理にレースは無理!)
「あんた、急に老け込んだ顔してるねえ」
隣から、オトメノイチジクさんの声がした。
「……悟ったんです。俺は、一勝馬なんだって」
「なんだい、そりゃ」
「あんたの脚は、たいした脚じゃない。うちもそうさ。だけどね、たいした脚じゃない馬が勝つ日も、たまにはあるんだ。その日を待つのも、競馬だよ」
古株の言葉が、妙に胸に沁みた。二十一年、馬券を買い続けた俺が一番よく知っているはずのことだった。
◇
年が明けた。二〇〇五年。
大門先生が、年明けの番組表を広げながら言った。
「次は京都に遠征しよう。若駒ステークス。芝二千。頭数が少なそうだから、ちょうどいい」
若駒ステークス。
その言葉を聞いた瞬間、俺の全身の毛が逆立った。
二〇〇五年、一月。京都。芝二千メートル。
それは――かの英雄の、二戦目だ。
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