第2話「ワタシハニンゲン」
第一章は初日に一挙公開
第二章からは、一日一話、朝七時公開です。
転生して三日がたった。
その間にわかったことがある。
ひとつ。ここは新冠の牛岡牧場。牧場主の牛岡弥三郎、七十二歳。孫の千夏、十九歳。馬は全部で七頭。借金はたぶんたくさん。
ふたつ。俺の言葉は、何を言っても「ヒヒン」にしかならない。
みっつ。飼い葉が、意外とうまい。
(三つ目はどうでもいい)
問題は二つ目だ。話せないなら、書けばいい。
人間だったころ、俺は毎日、帳簿と伝票に数字を書いていた。経理をなめるな。字は得意だ。
そして今日。千夏が馬房の前で飼育日誌を書いたあと、鉛筆を忘れていった。
(好機。圧倒的好機)
俺は柵のすき間から首を伸ばし、唇で鉛筆をそっとつまんだ。
馬の唇は器用だ。人間の指ほどではないが、お箸一膳分くらいはいける。
書く言葉は決めてある。「ワタシハニンゲン」。カタカナで七文字。漢字は無理だ。ひらがなは曲線が多くて難しい。カタカナは直線が多い。有利だ。
(完璧な作戦だ。さすが経理。さすが俺)
馬房の前の地面に、鉛筆の先をつける。
「ワ」の一画目。縦棒。
……硬い。地面が硬い。鉛筆の芯が、うっすら土をひっかく。線というより、ミミズが通った跡だ。
(落ち着け。真っすぐだ。新潟の直線を思い出せ)
首に力を入れる。四百キロの馬体の、全体重を、一本の鉛筆に。
ポキッ。
鉛筆が、真っ二つに折れた。
(故障発生ーッ! 競走中止ーッ!)
その瞬間、背後から悲鳴が上がった。
「あーっ! モモ! それ食べちゃダメ!」
千夏が、ものすごい勢いで走ってくる。
(違うんだ千夏ちゃん。これは食事じゃない。自己紹介だ)
「ヒヒン!」
「ほら、ペッしなさい、ペッ」
折れた鉛筆が、もぎ取られた。
代わりに人参が、ねじ込まれた。
……人参うまっ。
(四十五年の人間人生はなんだったのか、人参があれば生きていける)
「もー、お腹すいてたの?」
千夏が笑いながら俺の鼻面を撫でる。地面に残った一本の線は、彼女の長靴できれいに踏み消された。
◇
一時間後。俺は放牧地にいた。
鉛筆は失った。だが、俺にはまだ武器がある。
蹄だ。
馬の蹄は硬い。地面を削って字を書けばいい。もしかしたらナスカの絵とやらも、馬になった人間が…いや、今はどうでもいい。
右の前脚を上げ、地面に下ろし、手前に引く。
ガリッ。
もう一度。
ガリッ。ガリッ。ガリガリガリッ。
(よし、ワの一画目ができた。次は――)
「じいちゃん! モモが前掻きしてる!」
「なにぃ!?」
弥三郎さんが、七十二歳とは思えない速さで飛んできた。
前掻き。馬が前脚で地面を掻くこと。それは――腹痛のサイン。
三十分後、軽トラで獣医がやってきた。聴診器を腹に当てられ、尻に体温計を差され、俺は馬としての尊厳を、いや人間としての尊厳も、まとめて失った。
「異常はないですねえ。念のため整腸剤、出しときましょう」
苦い。
そして放牧地には、俺の書いた「ワ」の一画目だけが、妙に深く残っていた。
◇
その夜。千夏が小さな懐中電灯を持って、馬房をのぞきにきた。
「モモ、大丈夫?」
俺は最後の手段に出た。うなずきだ。はいなら縦、いいえなら横。世界共通の言語だ。
千夏は俺の目をじっと見て、そっと聞いた。
「……もしかしてモモ、何か伝えたいの?」
(きた! きたきたきた! この子、わかってる!)
俺は力いっぱい、縦にうなずいた。
「……人参、もう一本ほしいんだ?」
……。
俺は、縦にうなずいた。
……人参うまっ。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや★での評価をいただけると励みになります。




