第1話「馬券の払い戻しが、まだなんです」
第一章は初日に一挙公開
第二章からは、一日一話、朝七時公開です。
人生最後の日の朝、俺は日高の牧場で、柵越しに仔馬を眺めていた。
「かわいいですねえ」
ツアーガイドのお姉さんが言う。
「あの子の父親は三冠馬の孫で、母系には名牝の血が――いや失礼、何でもないです」
(またやってしまった。ガイドより先に血統を解説してしまった)
馬場進、四十五歳。独身。中堅精密機器メーカーの経理課。
趣味は競馬。特技も競馬。休日の過ごし方も競馬。
二十歳の春。大学の先輩に連れられて、初めて競馬場へ行った。それから四年後、社会人二年目の秋。テレビの中で一頭の馬が無敗の三冠を決めるのを見て、俺の人生は決まった。
その馬の名は、ディープインサート。
以来二十一年、重賞レースはすべて買っている。財布の中には、先週の重賞の当たり馬券が一枚。まだ払い戻していない。
(帰ったら換金して、今夜は焼肉だ)
「先輩、先週当ててますよね?なら、今夜の焼肉、先輩のおごりっすよね」
隣でにやにやしているのは、経理課の後輩、若林拓海。二十九歳。俺の十六個下だ。
新人歓迎会で「趣味は競馬です」と口を滑らせたのが運の尽きで、以来七年、毎週末俺の競馬に付き合わされている。今回の牧場見学ツアーも、俺が有休を合わせて無理やり連れてきた。
こいつは筋金入りの穴党だ。毎週、俺の完璧な分析を最後まで聞いたうえで、まったく逆の馬券を買う。そして、たまに当てる。
(腹が立つ。だが、焼肉はおごってやる。先輩だからな)
そう思った、その時だった。
牧場の前の道から、トラックが暴走してきた。ガードレールをなぎ倒し、一直線に柵へ――いや、柵の前の俺へ。
(さあ外から一頭、猛然と突っ込んで来ているぞ! これは予想外!大型トラックだぁー!、大外一気! 止まらない! 止まらない! 止まら――)
「先輩っ、危な――」
すぐ後ろで、若林の声がした。
衝撃。
空。
最後に浮かんだのは、走馬灯ではなく財布の中身だった。
「まだ……払い戻して……ない……」
◇
目が覚めると、藁の匂いがした。
(病院……じゃないな)
天井が低い。木の梁。薄暗い。鼻先に、干し草。
(干し草?)
起き上がろうとした。腕に力が入らない。というか、腕がない。かわりに、やけに長い脚が四本、藁の上に投げ出されている。
(脚が……四本……)
(落ち着け。数え間違いだ。一、二、三、四。四本だ……)
(数え間違いじゃない!)
慌てて立ち上がる。ガタン、と体が壁にぶつかる。でかい。視点が高い。首が長い。視界が、やたらと横に広い。
足元に水桶があったのでのぞき込むと、水面に映っていたのは、栗毛の馬だった。
つやつやした毛並み。大きな黒い瞳。長いまつげ。
(……美人だな)
(いや、そうじゃない)
「ブルルッ」
叫ぼうとしたら、鼻が鳴った。
馬房の扉の向こうから、足音がする。
「おーい、起きたかい」
顔を出したのは、日焼けした小柄な爺さんだった。七十くらい。首にタオル。その後ろから、ジャージ姿の若い女の子がひょいと顔を出す。
「じいちゃん、モモ立ってる! 熱、下がったんだね」
「おう。三日も寝込んで心配したぞ、モモジリ」
(モモジリ……?)
その名前に、競馬オタクの脳が勝手に検索を始める。
――牝。栗毛
(モモジリビジンか!)
二〇〇二年生まれ。牝。栗毛。
ディープインサートの二戦目、若駒ステークスに出ていた牝馬だ。七頭立ての七着。英雄の勝ちかたを何度も動画で見返した俺は、画面の端っこで置いていかれるあの栗毛を、たぶん世界で一番多く見ている人間だ。
生涯成績も覚えている。デビュー戦で一勝。以上。
(一勝馬じゃねえか!)
壁に掛かったカレンダーが目に入った。農協の名前入りの、安いやつ。
二〇〇四年、六月。
(二〇〇四年……?)
二十二年前。
(ってことは、モモジリビジンは……まだデビュー前……)
心臓が跳ねた。馬の心臓は大きい。跳ね方も大きい。
「よしよし。元気になったら、いよいよ入厩だなあ」
爺さんの手が首を撫でる。皺だらけだが、あったかい手だった。
「お前は、うちの牧場の希望の星だ」
(すみません。希望の星、一勝で燃え尽きます)
俺は精いっぱいの気持ちを込めて、言った。
「俺は人間です!四十五歳男。経理をやってます」
「ヒヒン」
「おお、ご機嫌だなあ」
「かわいいー!」
(通じてない!)
こうして俺の、馬としての第二の人生が始まった。
払い戻していない馬券は、二〇二六年に置いてきた。
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