第14話「牛岡牧場の借金」
本日は、諸事業により二話同時公開です。
六月。師匠の特訓は、予告どおり容赦がなかった。
「今日は併せ馬よ。わたくしを抜いてみなさい」
坂路を並んで駆け上がる。すぐに半馬身、置いていかれる。
(無理だ。スランプ中でも、桜の女王は桜の女王だ)
「今、諦めたでしょう」
前を走る師匠が、振り向きもせずに言った。
「計算して、無理だとわかったら、すぐ脚が緩む。それがあなたの悪い癖よ。レースではね、最後の百メートルを、計算じゃなくて意地で走るの」
意地。人間だったころ、一度も使わなかった言葉だ。
俺は歯を食いしばって、師匠の尻を追いかけた。縮まらない。それでも、広がりもしなかった。
「……そう、それよ」
坂路の上で、師匠は初めて少しだけ笑った。
◇
七月。俺は放牧で、新冠の牛岡牧場に帰ってきた。
「モモー! おかえりー!」
馬運車を降りるなり、千夏ちゃんが飛びついてきた。その後ろで、弥三郎さんがタオルで目じりを拭っている。
「よう帰ったのう、希望の星よ」
(ただいま。一年ぶりの一勝馬です)
懐かしい馬房。懐かしい藁の匂い。壁には、去年と同じ農協のカレンダー。ただし、二〇〇五年版になっている。
その夜のことだった。
母屋の窓から、弥三郎さんの声が漏れてきた。電話をしているらしい。
「……はい。はい。……年内、ですか。……わかっとります。なんとか、しますけえ」
受話器を置く音。長い、長いため息。
耳をそばだてる。馬の耳は、よく聞こえる。
「……じいちゃん、また銀行?」
「千夏は心配せんでええ。年内にまとまった金を入れんと、ちょっとまずいだけじゃ」
「まずいって、どうなるの」
弥三郎さんは、しばらく黙っていた。
「……牧場を、手放すことになるかもしれん」
◇
翌朝。放牧地で草を食みながら、俺は頭の中の事業計画書を開いていた。
「四、資金」の欄に、赤字で書き足す。
――期限、今年の年末。達成できなければ、牧場そのものがなくなる。
(弥三郎さんは、生産者であり、馬主でもあるオーナーブリーダーだ。牧場がなくなれば、俺の馬主もいなくなる。そうなったら、俺がどうなるのかわからない。今の成績の一勝馬なら、よくあるのは地方競馬への移籍だ。地方に行けば、中央の大舞台を走る英雄とは、ほぼ二度と同じゲートに入れない。英雄の子どころじゃない)
計画書のどの項目よりも、この赤字が一番重かった。
「おねえさん」
足元で、小さな声がした。
見下ろすと、この春に生まれたばかりの仔馬が、大きな目で俺を見上げていた。牧場の牡の当歳馬、ドリームイチモツ。
「おねえさん、きれいだね。ぼくが大きくなったら、およめさんになって」
(……仔馬も惚れさせちまったか)
俺は、前世で観た昭和の映画の女優を思い出しながら、ゆっくりと流し目をくれた。
「……坊や。あたしに惚れると、火傷するわよ」
藁を一本くわえて、ふう、と息を吐く。タバコの代わりだ。
「あんたはまだ若い。いい男になりな。……そうね、あと三年経ったら、また口説きに来なさい」
「……うん……」
ドリームイチモツは、よくわからないという顔で、しょんぼりと母馬のもとへ帰っていった。
「あれ、イチモツ、しょんぼりしてる。モモのこと好きなのかな? ねえじいちゃん、大きくなったら、モモのお婿さんにしちゃおうか」
「アホ。モモの相手は、もっとええ種牡馬じゃ」
(じいちゃん……! わかってるじゃないか!)
「うちの予算で付けられる中でな」
(……予算ないじゃん)
昨夜の電話が、頭の中によみがえった。
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