↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/15

第15話「直訴」

一日一話、朝七時公開です。

九月。放牧で春競馬の疲れを癒した俺は、美浦に帰厩した。

大門先生が、秋の番組表を広げて、俺の次のレースを探している。俺は馬房の柵から首を伸ばして、その紙をのぞき込んだ。

そして、その文字を見つけた。

九月、阪神。神戸新聞杯。

(きた……!)

菊花賞のトライアル。そして――俺のダーリンの、秋の初戦だっちゃ。

競馬オタクの記憶が、勝手に計算を始める。三歳のオープン。牝馬にも出走資格がある。そして今年の神戸新聞杯は、英雄を恐れた陣営が次々と回避して、十三頭しか集まらない。フルゲートにはほど遠い。

つまり、登録さえすれば、一勝馬の俺でも出られる。

(事業計画、一。英雄と、もう一度走る。……ここで叶う!)

だが、大門先生の指は、五百万下の欄をなぞっている。

(そっちじゃない!)

◇

(落ち着け。暴れるのは最後の手段だ。まずは、穏便に伝える方法を考えろ)

思い出したのは、前世で観た映画『ソックス・センス』だった。眠っている奥さんに語りかける、あの場面。

(眠っている相手になら、想いが届くかもしれない)

その夜。夜回りの田中さんが、俺の馬房の前の折りたたみ椅子で、いつものようにうたた寝を始めた。

(チャンスだ)

俺は柵から首を伸ばし、田中さんの耳元にそっと口を寄せた。

(神戸新聞杯……神戸新聞杯……)

「ヒヒン……ヒヒン……」

ささやくたびに、鼻息がかかる。唇が、耳たぶに触れる。

(神戸新聞杯……出走したい……神戸新聞杯……)

「ヒヒン……ブルル……ヒヒン……」

気づけば、田中さんの耳から首筋にかけて、俺のよだれでべっとりと濡れていた。

田中さんが、ぱちりと目を開けた。

「……うわっ!? なにこれ、べちょべちょ! くさっ! モモ、くさっ!」

(失敬な。俺のよだれだぞ。ありがたく思え)

翌朝。田中さんは、同僚にこう話していた。

「昨日、変な夢見ちゃってさあ。ずーっとモモにヒヒンヒヒン言われてんの。起きたら耳がよだれまみれで……」

(夢には届いた。内容が届かなかっただけだ)

大門先生の指は、相変わらず五百万下の欄をなぞっていた。

(……もう、最終手段しかない)

◇

俺は、暴れた。

馬房の壁を蹴り、首を振り、前脚で地面を掻き、あらゆる手段で自己主張した。

「モモ!? どうしたの!?」

田中さんが飛んできて、なだめるように俺の首筋を撫でた。

「よしよし、落ち着いて、モモ。どうどう」

たてがみの付け根を、指先がくしゃくしゃとかき回す。

(あっ……そこ……いい……)

一瞬、全身の力が抜けた。そこは反則だ。馬になってから知ったが、たてがみの付け根は、雑居ビルの三階にある、ちょっと怪しい専門店で、耳かきされたときくらい、ゾクゾクする。

(――いや、待て! 今はそれどころじゃない!)

大門先生が番組表を持ったまま、目を丸くしている。

その瞬間を、俺は見逃さなかった。

首を伸ばし、番組表の「神戸新聞杯」の行を、前歯で噛(か)んだ。

ビリッ。

破れた紙が、大門先生の手の中でひらひらと揺れた。穴が開いているのは、ちょうど神戸新聞杯のところだけだ。

大門先生は、穴をじっと見つめた。

それから、事務所の壁を振り返った。そこには去年から貼られたままの、一枚のグラフがある。

『モモジリビジン 新聞破り的中率 100%』

「……田中くん。この子、勝つ馬の匂いがわかるんだったよね」

「……そういう話でしたね」

「その子が、自分でこのレースを選んだ。……ということは、もしかして、このレースなら勝てるってことなのかな」

「まさか。一勝馬ですよ、先生」

「だよねえ。……でも、データは百パーセントなんだよ。一度、牛岡さんに相談してみようか」

(ちがうんです、先生。勝ち負けの話じゃないんです。このレースだけは、出る必要があるんです。ダーリンに、会うために)

(会える。もうすぐ会える。九月二十五日、阪神、芝二千メートル。パドックですぐ近くに。ああ、どうしよう。何を話そう。最初の一言は何がいい? いや、その前に、たてがみをちゃんと整えておかないと。ポマードあるかな……)

(……ふへ。ふへへ……)

「モモ、またよだれ出てるよ」

田中さんが、タオルで俺の口元をぬぐった。

◇

その夜、大門先生が牧場に電話をかけた。受話器の向こうから、弥三郎さんの声が漏れてくる。

「……モモが、暴れてまで行きたがっとるんですかの」

「ええ。無謀なのは承知の上です。ただ、頭数が少ないんで、経験としては悪くないと思います」

しばらくの沈黙。そして、弥三郎さんの、鼻をすする音。

「この子が、こんなに行きたがっとるんじゃ。行かせてやってください」

一勝馬の牝馬の、菊花賞トライアルへの挑戦が、決まった。

翌日、競馬新聞の片隅に、小さな記事が載った。「無謀な挑戦」「小さな牧場の夢」。人間たちは、この挑戦を美談にした。

本人の目的は、全く違っていたが。

(事業計画、二。英雄の告白に、応える)

お読みいただきありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークや★での評価をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。