第15話「直訴」
一日一話、朝七時公開です。
九月。放牧で春競馬の疲れを癒した俺は、美浦に帰厩した。
大門先生が、秋の番組表を広げて、俺の次のレースを探している。俺は馬房の柵から首を伸ばして、その紙をのぞき込んだ。
そして、その文字を見つけた。
九月、阪神。神戸新聞杯。
(きた……!)
菊花賞のトライアル。そして――俺のダーリンの、秋の初戦だっちゃ。
競馬オタクの記憶が、勝手に計算を始める。三歳のオープン。牝馬にも出走資格がある。そして今年の神戸新聞杯は、英雄を恐れた陣営が次々と回避して、十三頭しか集まらない。フルゲートにはほど遠い。
つまり、登録さえすれば、一勝馬の俺でも出られる。
(事業計画、一。英雄と、もう一度走る。……ここで叶う!)
だが、大門先生の指は、五百万下の欄をなぞっている。
(そっちじゃない!)
◇
(落ち着け。暴れるのは最後の手段だ。まずは、穏便に伝える方法を考えろ)
思い出したのは、前世で観た映画『ソックス・センス』だった。眠っている奥さんに語りかける、あの場面。
(眠っている相手になら、想いが届くかもしれない)
その夜。夜回りの田中さんが、俺の馬房の前の折りたたみ椅子で、いつものようにうたた寝を始めた。
(チャンスだ)
俺は柵から首を伸ばし、田中さんの耳元にそっと口を寄せた。
(神戸新聞杯……神戸新聞杯……)
「ヒヒン……ヒヒン……」
ささやくたびに、鼻息がかかる。唇が、耳たぶに触れる。
(神戸新聞杯……出走したい……神戸新聞杯……)
「ヒヒン……ブルル……ヒヒン……」
気づけば、田中さんの耳から首筋にかけて、俺のよだれでべっとりと濡れていた。
田中さんが、ぱちりと目を開けた。
「……うわっ!? なにこれ、べちょべちょ! くさっ! モモ、くさっ!」
(失敬な。俺のよだれだぞ。ありがたく思え)
翌朝。田中さんは、同僚にこう話していた。
「昨日、変な夢見ちゃってさあ。ずーっとモモにヒヒンヒヒン言われてんの。起きたら耳がよだれまみれで……」
(夢には届いた。内容が届かなかっただけだ)
大門先生の指は、相変わらず五百万下の欄をなぞっていた。
(……もう、最終手段しかない)
◇
俺は、暴れた。
馬房の壁を蹴り、首を振り、前脚で地面を掻き、あらゆる手段で自己主張した。
「モモ!? どうしたの!?」
田中さんが飛んできて、なだめるように俺の首筋を撫でた。
「よしよし、落ち着いて、モモ。どうどう」
たてがみの付け根を、指先がくしゃくしゃとかき回す。
(あっ……そこ……いい……)
一瞬、全身の力が抜けた。そこは反則だ。馬になってから知ったが、たてがみの付け根は、雑居ビルの三階にある、ちょっと怪しい専門店で、耳かきされたときくらい、ゾクゾクする。
(――いや、待て! 今はそれどころじゃない!)
大門先生が番組表を持ったまま、目を丸くしている。
その瞬間を、俺は見逃さなかった。
首を伸ばし、番組表の「神戸新聞杯」の行を、前歯で噛んだ。
ビリッ。
破れた紙が、大門先生の手の中でひらひらと揺れた。穴が開いているのは、ちょうど神戸新聞杯のところだけだ。
大門先生は、穴をじっと見つめた。
それから、事務所の壁を振り返った。そこには去年から貼られたままの、一枚のグラフがある。
『モモジリビジン 新聞破り的中率 100%』
「……田中くん。この子、勝つ馬の匂いがわかるんだったよね」
「……そういう話でしたね」
「その子が、自分でこのレースを選んだ。……ということは、もしかして、このレースなら勝てるってことなのかな」
「まさか。一勝馬ですよ、先生」
「だよねえ。……でも、データは百パーセントなんだよ。一度、牛岡さんに相談してみようか」
(ちがうんです、先生。勝ち負けの話じゃないんです。このレースだけは、出る必要があるんです。ダーリンに、会うために)
(会える。もうすぐ会える。九月二十五日、阪神、芝二千メートル。パドックですぐ近くに。ああ、どうしよう。何を話そう。最初の一言は何がいい? いや、その前に、たてがみをちゃんと整えておかないと。ポマードあるかな……)
(……ふへ。ふへへ……)
「モモ、またよだれ出てるよ」
田中さんが、タオルで俺の口元をぬぐった。
◇
その夜、大門先生が牧場に電話をかけた。受話器の向こうから、弥三郎さんの声が漏れてくる。
「……モモが、暴れてまで行きたがっとるんですかの」
「ええ。無謀なのは承知の上です。ただ、頭数が少ないんで、経験としては悪くないと思います」
しばらくの沈黙。そして、弥三郎さんの、鼻をすする音。
「この子が、こんなに行きたがっとるんじゃ。行かせてやってください」
一勝馬の牝馬の、菊花賞トライアルへの挑戦が、決まった。
翌日、競馬新聞の片隅に、小さな記事が載った。「無謀な挑戦」「小さな牧場の夢」。人間たちは、この挑戦を美談にした。
本人の目的は、全く違っていたが。
(事業計画、二。英雄の告白に、応える)
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