第13話「英雄の値段」
本日は、諸事情により二話同時公開です。
五月の最終日曜日。日本ダービー。
俺は馬房で、田中さんのテレビの実況に耳を澄ませていた。
『さあ直線! 外からディープインサート! ディープインサートだ! 並ばない! 並ばない! 突き抜けた! これは強い!』
英雄は、ダービーを勝った。後続を大きく突き放して。
叫ばなかった。こらえた。馬房の藁に顔をうずめて、声を殺して泣いた。
(二冠だ……英雄が、二冠を獲った……)
前世で、テレビの前で泣いた日と同じだった。違うのは、今の俺が、その英雄と一度だけ同じレースを走ったことがある、ということだけだ。
◇
翌朝。坂路のふもとで、師匠が待っていた。
「昨日は、ずいぶん静かだったわね。あなたのことだから、厩舎の壁でも蹴っているかと思ったわ」
「こらえました。また大騒ぎになって、テレビを撤去されたら困るので」
師匠は、少しだけ真面目な顔になった。
「あなた、あのディープって子に惚れているのでしょう」
「……バレてましたか」
「見ていればわかるわ。実況に耳を向けているときの顔、ほかの牡馬を見るときの顔と全然違うもの。乙女の顔よ」
(俺、そんな顔してたのか……)
「あなた、あの子の子を産むつもりなんでしょう。顔に書いてあるわ」
「……照れますね」
「呆れた。あなた、種付けがどういうものか、わかってるの? わたくしたちに、相手を選ぶ権利なんてないのよ」
その一言で、俺の中の何かのスイッチが入った。
「わかってます。まず、彼は来年の暮れに引退して、翌年の春から種牡馬になります」
「……来年の暮れ?」
「で、種付けの相手は、馬じゃなくて牧場の人間が決めます。人気の種牡馬には全国から申し込みが殺到するので、枠に入れるのは血統のいい牝馬か、実績のある牝馬だけ。種付け料は、初年度で千二百万円。うちの牧場の財政状況では、到底――」
「――それに、毎年春になると、全国から名牝たちがやってくるんですよ。良血の、毛づやのいい、すました顔の名牝たちが。それで、彼は、一日に何頭も――何頭も――!」
頭の中で、勝手に映像が流れ始めた。種付け場に、次々と引かれてくる見知らぬ牝馬たち。尻尾を揺らし、俺の英雄に流し目を送り、すり寄って――
(やめろ。俺の英雄に、近づくな!)
鼻息が荒くなる。前脚が、勝手に地面を掻く。耳が、ぎゅっと後ろに絞られる。
「許せない……全員、許せない……! 桜花賞馬だろうが、オークス馬だろうが、俺より先に並ぶやつは全員――」
「ちょっと」
「なので、俺の場合は実績で押すしかない。重賞二つ、できればG1。賞金で種付け料をまかないつつ、牧場の人間に『この子にはディープしかない』と思わせる。ちなみに当日の段取りとしては、まず当て馬という役回りの牡馬がいますが、俺の場合は最初から万全の体勢で――」
「やめなさい」
師匠の耳が、ぺたりと後ろに倒れていた。
「……あなた、なんでそんなことまで知ってるの」
(YouTubeで見ました)
とは、言えない。
「……夢で、見ました」
「便利な夢ね」
◇
師匠はしばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐いた。
「わかったわ。頭の中身だけなら、あなた、わたくしよりずっと物知りよ。認めてあげる」
「ありがとうございます」
「でもね」
師匠は、俺の目をまっすぐに見た。
「重賞を勝つのは、頭じゃないわ。そこだけは、わたくしの方が詳しいの」
桜の女王の目だった。一年前、本当にG1を勝った馬の目だ。
「本気で鍛えてあげる。ただし、泣き言は聞かないわよ」
(……師匠)
今度こそ、本当の意味で、ダンスインザベッドさんは俺の師匠になった。
◇
その夜。馬房の天井を見上げながら、俺は考えていた。
一勝馬が、重賞を二つ、またはG1を勝つ。
前世の俺だったら、そんな予想はしないだろう。
(無理ゲーだ)
でも。
「また、一緒に走ろうね」
あの声は、今も耳に残っている。
「よし」
俺は、暗い馬房の中で、小さくいなないた。
「目指すは、重賞だ」
「ヒヒン」
隣の馬房から、オトメノイチジクさんの寝ぼけた声がした。
「……うるさいよ。はやく寝な」
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