第12話「自分が美人だったと知る日」
一日一話、朝七時公開です。
四月。英雄は皐月賞を勝った。
俺は田中さんのテレビから漏れる実況を、耳を最大限に向けて聴いた。叫びそうになったが、こらえた。また大騒ぎになったら困る。
(あと二つ。ダービー、菊花賞。英雄はどんどん上に行く)
俺の方は、フラワーカップの疲れが抜けず、四月は牧場でひと休みすることになった。牡馬のいるレースで色気を試すのは、五月までお預けだ。
◇
五月。東京競馬場。
三歳五百万下、芝二千メートル。七頭立て。
パドックに出た瞬間、空気が変わった。
周回する牡馬たちが、一斉にこちらを見たのだ。
(……え?)
一頭が、首を伸ばしてこちらの匂いを嗅ごうとして、厩務員に引き戻された。別の一頭は、俺の前を通り過ぎるたびに、わざと歩く速度を落とした。三頭目は、なぜか鼻を鳴らしながら、尻尾をぴんと立てている。
(なんだ……? 効果が出てる……?)
「やあ。きみ、名前は?」
隣を歩く栗毛の牡馬が、話しかけてきた。
「モ、モモジリビジンです」
「いい名前だね。レースが終わったら、一緒に放牧地を走らないかい?」
(これは……まさか……)
ナンパだった。
◇
俺は、パドックを周回しながら、冷静に状況を分析した。
今日は流し目をしていない。尻も振っていない。特訓の成果は何一つ使っていない。ただ、普通に歩いているだけだ。
なのに、牡馬たちはざわついている。
水桶に映った自分の顔を思い出す。つやつやした栗毛。大きな黒い瞳。長いまつげ。そして、師匠が「大したもの」と言った、尻。
(もしかして、俺は――)
馬の世界では、美人なのか。
四十五年間、一度もモテたことのない俺が、二〇〇五年の東京競馬場で、初めてモテていた。
(ちょっと嬉しいかも……いや、俺には決まった相手が!)
◇
「ねぇ、いい放牧地あるんだよ、どう?」
栗毛の牡馬が、もう一度聞いてきた。
(こいつ、放牧地の話しかしねーな。もっとおしゃれな茶店とかさー)
俺は、前世で何百回も使った断り文句を口にした。
「すみません。その日はちょっと、先約がありまして」
「じゃあ、次の週は?」
「次の週も、ちょっと立て込んでおりまして。また改めて、こちらからご連絡させていただきます」
「……そう」
牡馬は、しょんぼりと離れていった。
(……その背中は、前世で飲み会の誘いを断られた課長と、まったく同じだった)
レースは六着だった。牡馬たちがこちらをちらちら見ていたせいか、全体的にペースがおかしかった。俺もつられて、おかしかった。
その夜、師匠に報告すると、彼女は静かに笑った。
「ようやく気づいたのね。あなたは、きれいなのよ。あとは、それをどう使うか」
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