第45話 俺は、ここにいる。
陽向は全力で、廊下を走る。
窓から差し込む夕方の光が、床を白く照らしている。
なのに視界はぼやけて、まっすぐ走れているのかさえわからない。
唇に、まだ残っている。
熱。
柔らかさ。
息が混ざったあの距離。
反射的に、拳の甲をぎゅっと押し当てる。
強く。
擦るように。
消えない。
消えない。
消えない。
……なになになになに…………
……え……………どゆこと…………?
頭の中が、空白のまま騒がしい。
言葉にならない疑問が、ぐるぐると渦を巻いている。
時間が遅れて、現実がじわじわ追いついてくる。
あれは。
夢じゃない。
事故でもない。
妄想でもない。
なんで?
どうして?
だって——
(……僕は、誰の事も好きにはならない。)
あの時の、静かな声。
朝比奈副会長に言ったあの言葉。
理性的で、揺るぎがなかった。
理解できない。
意味が、わからない。
好きにならないって言ったのに。
彼女は作らないって言ったのに。
なのに——
ファーストキスだった。
大切にしたかった。
ちゃんと両想いになって。
ちゃんと気持ちが重なってから。
それを。
あんなふうに。
突然。
……誰も好きにならないのに……したって事?
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
憧れていた先輩像。
理性的で。
誠実で。
高貴で。
信じられる存在。
それが、ガラガラと崩れ落ちる。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だよ。
走りながら、視界が滲む。
涙が止まらない。
風が頬を切る。
それでも涙はこぼれ続ける。
先輩が、わからない。
どういう意味?
あれは何?
私、どうすればいいの。
怖い。
恋って、怖い。
距離が縮まることも。
触れられることも。
感情が動くことも。
全部が、怖い。
そのまま駅へ駆け込み、電車に飛び乗る。
車内の蛍光灯が白く眩しい。
周りの人のざわめきが、遠く聞こえる。
自分だけが、現実から切り離されたみたいだった。
家に着くなり、自転車を乱暴に止めて、玄関へ駆け込む。
「はぁ…っはぁ…っはぁ……っ」
呼吸がうまく整わない。
胸が焼けるみたいに熱い。
靴を脱ぐのも雑で、片方が横に倒れたまま。
そのまま階段を駆け上がる。
バタンッ
部屋のドアを閉める。
電気はつけない。
薄暗い部屋。
焦る指でリモコンを掴む。
テレビをつける。
好きなアニメ映画を再生する。
イントロの音楽が流れ出す。
何度も見た、安心できる物語。
ボリュームを上げる。
もっと。
もっと。
頭の中の声を消したい。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸が荒いまま、棚に手を伸ばす。
漫画を引き抜く。
バサバサッ
勢い余って、何冊も床に落ちる。
表紙がばらばらに広がる。
拾わない。
そのまま一巻を掴み、床にしゃがみ込む。
ページをめくる。
知っているセリフ。
知っている展開。
知っている結末。
そこには、裏切られない世界がある。
自分の殻の中に、必死で潜り込む。
現実を遮断するみたいに。
外界を閉め出すみたいに。
画面の光が、暗い部屋をちらつかせる。
漫画のページが震える。
涙がぽた、と落ちて、インクの上に染みを作る。
……私は…どうしたらいいの。
問いは、誰にも届かない。
テレビの音だけが、大きく鳴り続けていた。
陽向は、小さく丸まる。
自分を守るみたいに。
誰にも触れられない場所へ、逃げ込むように。
もう二度と、図書室へは行けない──。
────────。
「あ、黒川くん。」
アルバイト中、朔也は店長に声を掛けられた。
「はい」
「昨日、星野さん夕勤だったんだけど来なかったんだよね。連絡もなくて。」
「え?そうなんすか?」
「またシフト間違えちゃったかな?ほら、彼女おっちょこちょいだから…」
「すいません…帰ったら言っときます。」
バイト終わりの街は静まり返り、夜風は思ったより冷たかった。
朔也は夜、バイトを終えるとすぐに陽向へ電話を掛けた。
出ない………。
「ったくどーしようもねぇな…」
朔也はそう呟きながら、自転車に跨がった。
自宅に到着すると、自転車を停めて、その足でそのまま星野家のインターホンを押した。
ピンポーン
間もなく玄関の扉は開かれた。
ガチャ
「朔、遅くにどうした?」
陽向の母、早苗の明るい声。
いつも通り。
何も変わらない。
「さなちゃん、ひなもう寝た?」
「あー自分の部屋にいるけど…寝てるかわかんない」
そんな会話をしながら玄関へ足を踏み入れると、朔也の来訪に嬉しそうなレオが尻尾を振りながらまとわりついた。
「よしよし、レオーおすわりだぞーおすわり!」
そして早苗が、レオに語りかけるように言葉を落とす。
「ひな…ここ3日くらい部屋から出てこなくて…ひなが全然遊んでくれないから寂しいんだよねーレオ!」
「……っ!」
朔也の胸が、騒ついた。
「食欲も無いとか言っちゃって…なんか変なもんでも食べたのかねあの子。」
「……レオ、俺が後で遊んでやるからな…!」
朔也は、レオを撫でながらそう言い残し、階段を駆け上った。
バンッッ
「ひな…っ!!」
カーテンは閉じ切られている。
暗い部屋。
散乱する趣味のもの。
テレビの青白い光だけが不自然に浮いていた。
アニメの音声が、空虚に流れている。
画面をボーっと見つめたまま、動かない………陽向。
扉を開けた朔也の方を、見向きもしない。
「おい…ひな…っ!!」
この光景は、以前にも見た事がある。
これは……こいつが壊れた時の状態だ。
朔也は陽向の肩を掴み、無理やり身体の向きを変えた。
必死に声を張り上げ、現実へと引き戻す。
「何があった…!!ひな、何かあっただろお前!!」
まさか………
鷹井綾真の毒牙が………
よぎった瞬間、グワッと焦りが込み上げた。
「…鷹井綾真か…!?あいつがお前に──」
陽向は勢いよく首を左右に振る。
「じゃあ…なんだよ!電車か道幅で…誰かに何かされたか!?」
「…何もないよっ!!!」
叫び声。
それは怒りじゃない。
壊れかけた音。
朔也になんて………死んでも言えない。
「何もないわけねーだろ!!」
「うるさいうるさいうるさいうるさい」
陽向は耳を塞ぐ。
世界を遮断するみたいに。
何もかもを拒むように震えていた。
「今すぐ出てって!!私のことは放っておいてよ!!もうやめて!!消えて!!」
必死に押し返す手が、震えている。
陽向は目すら合わさない。
「今すぐ消えてよ!!はやく出てけ!!出てけ出てけ出てけ!!」
その言葉が、朔也の胸を刺す。
「………っ」
朔也はたじろいだ。
こんな状態で、これ以上無理矢理追求するのは……無理だ。
「早くいなくなれ…消えろ…!….消えろ…」
その瞬間────────。
────────。
ふわ…
朔也は、震える陽向の身体を、静かにそっと抱きしめた。
「俺は、いるよ。」
「………っ!」
陽向の身体が、ピタリと止まる。
陽向を抱きしめる腕に、力が籠る。
「俺がいる。怖くても…不安でも……お前の側に……絶対俺が、必ずいる。」
胸の奥から出た声。
逃げない。
消えない。
放さない。
「……………。」
朔也の体温に、包まれる。
暖かい温もり。
────────。
陽向の瞳から、一筋の涙が頬へと伝う。
その瞬間──
陽向の心の結界は、崩れた。
「…ふ……ふぇ……ぅ……ふぇーーーん………」
陽向は、朔也の背中に腕を回して抱きしめ返した。
ぎゅっと。
縋るように、しがみつくように。
推しとリアコを、行ったり来たり。
それでも初めての、本当の、本物の恋だった。
これから先の人生も、先輩がいてくれたらいいなって思ってた。
例え、好きになって貰えなくても。
例え、彼女になれなくても。
先輩が、高校を卒業してからも。
この先、大人になっても。
また、一緒に買い物をしたり。
また、一緒にランチを食べたり。
また、一緒に本屋さんへ行ったり。
そんなふうになれたらいいなと。
その笑顔に、ずっと触れていたかった。
そんな未来を、描いてた。
「あぁぁぁーーーー………」
朔也の胸に顔を埋めて、子供みたいに大声で泣く陽向。
朔也は何も言わずに、ただ抱きしめ、何度も陽向の頭や背中を撫でていた。
ゆっくり。
何度も。
ここにいると、身体で伝えるみたいに。
その涙を受け止める場所として、ただ、そこに居続けた。
そして、朝───。
(………ひなと……一緒に朝を迎えてしまった……)
薄いカーテンの隙間から、朝の光が細く差し込む。
夜の濃さはもう消えているのに、部屋にはまだ昨晩の余熱が残っていた。
結局、昨晩。
ベッドの上で、二人抱きしめ合ったまま——
陽向は泣き疲れて、そのまま朔也の腕の中で眠りに落ちた。
嗚咽が小さくなり、呼吸が整い、震えていた肩がゆっくりと静まっていくのを、朔也はずっと感じていた。
そっと身体を横に寝かせる。
乱れた前髪を指先で整え、布団を肩まで掛ける。
なんとなく、離れられなかった。
暗い部屋。
静まり返った空気。
テレビの消えた画面に、二人の影だけがぼんやり映る。
このまま一人に置き去りにして帰る、という選択肢が、どうしても胸に引っかかった。
(……置いて帰れねぇだろ……これで……)
葛藤の末、朔也は小さく息を吐き、ベッドの端に身体を沈める。
距離は少し空けて。
触れないように、でも離れすぎないように。
天井を見つめながら、眠れない時間を過ごす。
やがていつの間にか、意識は薄れていた。
そして早朝。
まだ世界が完全に目覚めきっていない時間。
カーテン越しの光が、淡く部屋を染める。
朔也は目を開けた。
隣から、規則正しい呼吸音。
昨晩の記憶が一気に戻る。
泣き声。
震え。
抱きしめた温もり。
(……帰るか…………)
ゆっくりと身を起こす。
マットレスがわずかに沈み、静かな軋みが鳴る。
ベッドから降りようとした、その瞬間——
「帰るの?」
背中に、声。
全身が一瞬で跳ねた。
振り返ると、陽向は仰向けのまま、天井を見つめている。
「起きてたの?」
「いや、今起きた」
声は淡々としている。
年頃の男女が、二人同じベッドで一緒に一晩を過ごした翌朝。
そんな実感も、重さも、照れも、気まずさも、まるで存在しない声色だった。
目の奥だけは、ほんの少しだけ赤い。
泣いた跡が、まだ消えていない。
「お前、飯くらい食えよ。」
「…うん……」
返事は力無く、小さい。
まだ少しだけ、夜の続きみたいな響き。
沈黙が落ちる。
外では、鳥の声が遠く鳴いた。
朔也はわざと、いつもの調子で言う。
「風呂キャン何日目?」
「昨日入ってるよ!」
少しだけ声に生気が戻る。
「嘘つくなよ。外出ない日は入らねーんだろ」
「その前2日入らなかったから、流石に昨日入った。」
「汚ねぇな!風呂くらい毎日入れよ!」
「えーめんどくさい」
その“めんどくさい”に、ほんのわずかな温度が戻る。
いつもの陽向。
完全ではないけれど、壊れてもいない。
現実へと、少しずつ戻ってきている。
朔也は天井を見上げたまま、少しだけ間を置く。
言葉を選ぶみたいに。
何事もなかった朝のフリをして、何事もなかった日常を、強引に引き寄せる。
「今日一緒に、ゲーセンでも行くか。」
前を向いたまま、背中で言葉を投げた。
部屋の空気が、わずかに動く。
数秒の沈黙。
布団の中で、陽向の指がぎゅっとシーツを掴む。
「……うんっ!」
今度は、ちゃんとした声だった。
小さいけれど、確かに前を向いた声。
朝の光が、二人の間に落ちる。
昨夜の涙は消えない。
問題も何も解決していない。
それでも。
“俺はいる”と言ってくれた腕の温もりは、まだ身体の奥に残っている。
春の朝は、静かに始まる。
何もなかったように。
でも確実に、少しだけ変わったままで。




