第44話 やっちまった
いよいよ高校一年生も、ラストスパート。
最後の関門。
学年末、期末テスト期間の真っ只中だった。
放課後の図書室は、昼間よりも少し静かだ。
窓の外から西日が長く差し込み、机の上に並ぶノートと教科書の影を、やわらかく引き伸ばしていた。
「…… y = x² - 4x + 1 だから……まずここを平方完成して……」
俊輔の声は、いつもより少し低く、穏やかだった。
陽向は、ノートを見ている——はずだった。
けれど視線は、いつの間にか隣に座る俊輔の横顔へ、吸い寄せられている。
伏せた睫毛。
シャーペンを持つ長い指。
説明するたび、ほんの少しだけ動く唇。
光がその輪郭を縁取るたびに、現実感が薄れる。
(……ビジュよー……)
思考が、ふわりと浮いた。
「……4の半分は2だよね?……それを二乗して……」
「……………。」
数字が、音として耳を通り過ぎていく。
でも、意味にならない。
「……………。」
俊輔は説明を続けながらも、何度かチラ、チラ、と陽向の視線を気にして、横目で様子を窺っていた。
「……え、……えっと…… x² - 4x + 4 - 4 + 1……」
「…………。」
視線が合うたび、陽向は慌ててノートに戻るけれど、数秒後にはまた同じ場所に引き戻されてしまう。
「……………だから…… (x - 2)^2 - 3-………」
「……………。」
そしてついに。
俊輔は、シャーペンを持つ手を止めた。
「星野さん……僕の顔じゃなくて、グラフを見てくれるかな?」
穏やかだけれど、わずかに呆れを含んだ声。
「……えっ!あ……すいませんっ!」
陽向はハッと我に返り、勢いよくノートに視線を落とす。
顔が、熱い。
「星野さんって……すぐ集中力が無くなっちゃうよね」
困ったように笑いながら言う俊輔の声は、柔らかい。
「すみません……先輩の横顔があまりにも美し過ぎちゃって……」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど…僕の顔を見てても二次関数は解けないからさ」
陽向は、言い訳みたいに小さく声を落とす。
「それはそうなんですけど…こんなに近くに居たら、つい意識がそっちに…」
俊輔は、少し間を置いてから小さく息をついた。
「それってつまり、集中出来ないのは僕のせいって事になっちゃうんだけど、それで合ってる?」
声色が、ほんの少しだけ変わる。
ほんの少しの棘が混じった。
「そんなことありませんっ!!」
即座に、強く否定する。
でも俊輔は、少しだけ真顔になる。
「でも、それ言われちゃうとそう聞こえちゃうよ?」
図書室の空気が、わずかに冷える。
その言葉に、陽向の胸がきゅっと縮む。
違う。
集中力が続かないのは、自分のせいだ。
昔からそうだ。
ちょっとした刺激で意識がすぐに逸れてしまう。
頑張っても、努力しても、完全には治らない癖。
(まただ……)
胸の奥に、昔の感覚が滲む。
教室で。
先生の声を聞き逃して。
「ちゃんと聞いてる?」と責められた記憶。
「………そんなつもりで……言ったんじゃない……です………」
語尾が、自然と弱くなる。
こんな自分が、嫌いだ。
一生懸命教えてくれているのに。
先輩に失礼だ。
自分が悪い。
陽向の肩が、すっと落ちる。
その変化に、俊輔の胸がハッと疼いた。
「あ……ごめんっ!言い方きつかったかな?怒ってるわけじゃなくて……」
「…………。」
陽向は肩を落としたまま、何も言えない。
俊輔は、慌てて言葉を足す。
「ただ……図書室にテスト勉強しに行ってるって、お母さんに伝えてるわけだし……」
視線を逸らし、言い淀む。
「それで成績が変わらなかったら……図書室で何してんだってなるでしょ……だったら家でやれって言われちゃうし……」
頬が、うっすら赤くなる。
「……それで……また星野さんが……図書室に来られなくなったら……」
言葉が詰まる。
喉が、わずかに震える。
「……寂しい……し……」
その小さな告白は、図書室の静寂に溶けた。
「………!」
陽向は、顔を上げる。
胸の奥に、じわりと熱が広がる。
(寂しい……って……)
自分が来られなくなるのが、嫌だって。
「……それで……つい感情的に……なっちゃった……」
照れ隠しのように、視線を落とす俊輔。
陽向の胸はズキュンッと撃ち抜かれた。
「なにそれっ!!メロいッ!!尊っ!!!」
「メロいでも尊くてもいいから、集中してくれる?」
空気を一気に明るくするように、声を弾ませる陽向に、照れ隠しみたいにピシャリと耳を赤くしたまま返した。
「はいっ!今からガチで全集中します!大好きな先輩を怒らせたくないんで!」
「だから怒ってないってば……」
「えー?ちょっと怒ってたよ?」
「怒ってないよ!」
「怒ってる先輩も……めっちゃ好き♡」
「…それ……照れるからやめて?」
「え!?照れるの!?かかか、かっこよ……」
俊輔は、思わず顔を逸らした。
「いや、かわいっ!!!!」
「だからやめて!」
「大好き、大好き、大好き、大好きっ♡」
「〜〜〜〜〜っっっ」
陽向の推し活攻撃に、俊輔は胸がぎゅっと掴まれ、赤面しながら眉間にシワが寄る。
さっきまで冷えていた空気が、すっかり温度を取り戻す。
「もうっ!勉強教えてあげないよ!」
「それは無理。ごめんなさい。真面目にやります。先輩の顔は見ません。」
「僕、お面でも被ろうか?」
「キャハハハ!爆笑ー!」
陽向は手を叩いて笑う。
その笑い声が、図書室の高い天井へやわらかく跳ね返る。
「おもろいなぁ〜それはそれで集中できないよーっ!」
「あはははっ!」
弱さを見せたり。
ちょっと怒ったり。
照れたり。
冗談を言ったり。
冷静沈着で、完璧で、隙のない生徒会副会長。
けれど、陽向の隣にいる時だけ。
俊輔は、肩の力を抜いた只の男子高校生になっていた。
────────。
そして遂に、高校生活最初の一年間は、終わりを迎えた。
三月の空気はまだ冷たいのに、どこか柔らかい。
校舎の窓から差し込む光は冬よりも白く、影は薄く伸びる。
学年末テストは、俊輔の丁寧すぎるほどの指導の甲斐もあり、全教科で赤点を回避。
答案用紙を返された瞬間、胸の奥にじんわりと広がった達成感。
“出来ない自分”だと思い込んでいた場所に、少しだけ穴が空いた。
二年生への進級は、難なく決まった。
朝比奈凛佳は、俊輔への想いを抱えたまま、静かに卒業していった。
春の門出の中に、叶わなかった恋の影を落として。
そして迎えた春休み。
まだ制服の袖口が少し寒い頃。
陽向と俊輔は、当たり前のように連絡を取り合い、当たり前のように図書室で会っていた。
窓の外では、校庭の桜がほんのりと色づき始めている。
「星野さん、副会長やらない?」
「はっ!!??」
話題は、次年度の生徒会について話していた。
「僕は生徒会長だから、星野さんは僕の後任として、2年生副会長やってよ。」
「無理無理無理無理。出来るわけないよっ!」
陽向は両手をぶんぶん振り、全力で全身で、全否定する。
俊輔はわかりやすく、シュン…と肩を落とした。
「生徒会長は…副会長と一番一緒に仕事するから……星野さんにやって欲しかったな……」
ズドギューーーン!!
(…な……なんだ…それーーーーっっっ!!……)
俊輔の寂しそうな上目遣いに撃ち抜かれるも、ここは理性を保った陽向。
「だ、だだ、だって……2年生の副会長って言ったら………」
そう。
それは俊輔と同様ポジション。
「次期、生徒会長じゃないですか!!!」
「うん。やれるでしょ。星野さんなら」
笑顔でサラッと、当たり前のように。
「それだけは無理です。先輩が居るから次年度は生徒会を続行しましたが、先輩が卒業したあとまで生徒会を続けるつもりはありませんから!!」
ハッキリ強く。
キッパリと。
「…星野さんて……僕が居るから生徒会になったの…?」
「はい。」
「ぶっっっ!!!!」
俊輔は吹き出したあと、笑った。
「そうだったとしても、普通そんなにハッキリ言わないよ〜!」
陽向は、胸の奥にあるものをそのまま言葉にする。
「でも…っ!立候補した動機は不純でしたが、選挙期間中に、本当に、先輩とか抜きにしても、ちゃんとやりたいって…自分を変えたいって…そういう意識は芽生えたんです。」
その瞬間ふと、俊輔の脳裏に蘇る。
生徒会総選挙。
全校生徒の前で、震えながらも壇上に立ち、誰よりも力強い言葉で演説していた陽向の姿。
(《──私は生徒会役員として、そんな心の声を拾える存在になりたいです。辛くても、寂しくても、泣きたくても、一人ぼっちで抱え込まなくていい。ここに居ていいんだと。そう思える場所を作りたい。》)
思い出すと、胸がじんわりと暖かくなる。
「生徒会に入って、自分に自信が持てるようになりました。ずっと大嫌いだった自分の事が…初めて好きになれました。」
窓から差し込む春の光が、陽向の笑顔を照らして、柔らかく包み込む。
「だから…一年前のこの場所で、先輩に出会えた事。生徒会に入るきっかけをくれた事、本当に感謝しています。」
真っ直ぐに見つめてくるその瞳に、俊輔は思わず吸い込まれてしまう。
「だから私、先輩に近づきたいって思って生徒会に入った事、恥ずかしいと思ってません。」
(《──近づきたいんです。》)
俊輔の耳に、演説中に壇上で自分をまっすぐ見つめて、そう言った陽向の声が木霊した。
今、思い返してみれば…………
あの瞬間から…………僕は──。
「私の人生で、初めてリアコが出来たから。」
「……リアコ…?」
「リアルの、恋って…事ですよ!」
陽向のキラキラな笑顔が眩しく弾けた。
ドクン──
俊輔の心臓が跳ねる。
彼女の笑顔から、目が離せない。
何かが、競り上がる。
……恋………?
胸が、熱い。
理性が追いつかない。
息が、浅くなる。
その瞬間────────。
「……っ」
────────。
思考は真っ白のまま、無意識に陽向の唇に重ねていた。
世界が止まる。
音がなくなる。
「…………っっっ!!!」
我に返った俊輔は、バッと慌てて陽向の唇から離れた。
「あ…ご…ごめん…っ!!!!」
声が震えている。
副会長でも、生徒会長でも、理性的な優等生でもない。
ただの男子高校生の顔。
「…………………………。」
完全フリーズする陽向。
瞬きも、呼吸も、止まったみたいに。
頭の中は静かだった。
いつもの小人戦争も起きない。
軍隊長の号令も聞こえない。
ただ………無だった。
……今………なにが…………起きた……?
思考が働かない。
現実がわからない。
何も考えられない。
ガシッ。
意識は遠くに行ったまま、身体が勝手に動く。
陽向はスクールバッグを掴み、図書室から逃げるように走り去った。
「………あ……」
椅子の脚が床を擦る、鈍い音。
ガタ……
俊輔は、そのまま力が抜けたように椅子へ崩れ落ちた。
図書室は、さっきまでの温度を失っている。
西日が机の端を橙色に染め、長く伸びた影が床に絡みつく。
頭は半分放心状態。
自分の行動が、自分で信じられない。
ドクン
ドクン
ドクン
心臓が脈を打つ。
熱い焦燥が競り上がる。
「…どうしよう……」
掠れた声が、静まり返った空間に落ちる。
唇に、まだ感触が残っている。
柔らかさ。
一瞬の温度。
触れてしまった、あの現実。
「…やっちゃったよ……どうしよう……どうしよう……」
両肘を机に預け、両手で頭を抱える。
髪を掴む指に、無意識に力が入る。
(リアルの恋、って事ですよっ!)
……本当の……恋………?
ドクン
ドクン
ドクン
夕陽が、窓枠を越えて彼の頬を照らす。
橙色の光が、やけに熱い。
陽向へ向けたその想いに。
胸を焦がす──
(……僕は………)
頬杖をつき、窓の外へ視線を投げる。
夕暮れの校庭。
まだ人のいない春休みの静けさ。
並木の桜は、もう蕾ではなかった。
硬く閉じていた小さかった蕾は、季節の移ろぎに耐えきる事は出来ないように大きく膨らんで。
淡い桃色の花びらが、枝先にいくつも開いている。
(彼女のことが………)
満開ではない。
でも確実に、咲いている。
封じ込めたはずの感情が、もう、閉じ込めきれない。
「……………好きだな。」
恋愛しないと決めていた。
誰の事も、好きになってはいけないと。
それでも惹かれてしまった。
この想いを……どう封じ込めたらいい……?
外では、淡い花びらがまた一枚、風に乗る。
咲いてしまったものは、もうなかったことにはできない。
季節は後戻りが出来ないように。
春は、静かに、容赦なく進んでいく。




