第43話 未来の行き先と過去の生き先
そして迎えた三学期。
窓の外には、まだ冬の名残を引きずる空気が漂っていた。
吐く息は白く、朝の風は指先を刺す。
“もうすぐ進級”という響きが、やけに現実味を帯び始める頃だった。
「はぁ〜…文理選択かぁ…」
ディンバードーナツ店内で、咲の溜め息がこぼれ落ちた。
それはただの進路ではない。
この先のクラス。
時間割。
一緒にいられる人。
将来の輪郭。
まだはっきり見えないくせに、どこか決定的な分岐点のようで胸の奥がざわつく。
「咲は日本語もままならい上に、数学も致命的だからな!」
「殴るよっ!!」
朔也の茶化しに、咲の声が飛んだ。
「得意不得意もそうだけど、一番大切なのは、将来自分がどっちの道に進みたいか、なんじゃねぇの?」
蒼太の的を得た言葉は穏やかで、真っ直ぐだった。
高校一年、一月。
この時期は、高校二年の進学へ向けて、理系クラス、文系クラスへの選択をする時期だった。
「陽向は当然文系だもんね?私陽向とクラス離れるの嫌だから文系にしよっかなぁ〜」
「おいでおいでっ!一緒に文系いこっ!」
陽向は無邪気に笑った。
そこに迷いはない。
「そんな理由で将来の選択していいのかよっ!」
呑気な二人に、朔也の呆れた声。
「とは言え俺も、まだどっちにするか決めきれてねぇんだよなぁ」
蒼太は、珍しく視線を泳がせた。
理系に行けば、現実的で堅実な道。
文系に行けば、幅広く選べる未来。
けれど、本当に選びたいものは、まだぼやけたままだ。
そして蒼太は問いを投げる。
「朔也は?」
「理系。」
即答だった。
迷いも、間もない。
「はっ?そうなの?なんで?」
蒼太は意外そうに目を丸くする。
てっきり、陽向にくっついて自然と流れると思っていた。
「俺は外資系のITに行きたいんだよ。情報系、工学系、データサイエンス。理系一択なわけ。」
朔也はストローを軽く噛み、淡々と言った。
声は静かだが、そこには迷いのない芯があった。
「へぇー……朔也って意外と将来の事しっかり考えてんだな……」
「意外とってなんだよ!俺はクラスでも成績優秀だぞ!」
蒼太の率直な感想に、朔也は少し照れながらも強めに言い返す。
同じ学校にいるのに。
同じ場所にいるのに。
進むレールが少しずつずれていく予感。
進路選択は、将来だけじゃない。
関係も、距離も。
少しずつ変えていく。
三学期の夕暮れは、どこか静かだった。
オレンジ色の光の中で、四人の影がテーブルに重なり、ゆっくりと長く伸びていく。
まだ誰も気づいていない。
この“文理選択”が、それぞれの未来だけじゃなく、それぞれの関係性にも、静かな波を立て始めていることに。
────────。
そして、休み時間の教室内。
三学期の教室は、どこか落ち着かない。
暖房の風が天井近くをゆるく回り、窓際のカーテンがわずかに揺れている。
黒板には、次の時間の予習範囲と、
その横に小さく書かれた文字。
——【三者面談】
それだけで、空気が少し重い。
「今日の三者面、だる。」
綾真は机に突っ伏したまま、ぼそっと吐き出した。
「綾真、三者面今日なんだ?文理どっちにすんの?」
陽向の声は、いつも通り軽い。
綾真は顔を上げないまま、横目だけで彼女を見る。
明るい。
そして眩しい。
まるで、何も背負っていないみたいに。
「正直迷ってるから…今日親と担任との話し合い次第って感じ。」
言葉は平静。
でも、その“次第”の部分に、ほんの少し弱さが混じる。
親は理系を推している。
理系のほうが将来安定する。
堅実だ。
潰しがきく。
そういう言葉は、どれも正論だ。
でも、自分が本当にそこに向いているかと聞かれると——
胸の奥が、もやっとする。
「将来何に進みたいとかあんの?」
「んー…ざっくり体育会系の大学とか行けたらいいなー程度。」
「進路希望調査票はどっちで出したの?」
「一応理系。」
「えっ?理系レベル高くない?綾真、運動神経いいけど体育以外はゆーても評定オール3くらいっしょ?」
陽向は悪気ゼロで言った。
ただの雑談。
でもその一言は、綾真の胸の奥に小さく刺さる。
オール3。
ど平均。
わかってる。
自分がトップ層じゃないことも、理系クラスの空気がどれだけピリつくかも、なんとなく想像はついている。
「……まぁな。」
笑って流す。
強がりのプロだ。
本当は、理系に行きたいわけじゃない。
理系に行ける俺でいたいだけだ。
なんとなく、強そうじゃん、理系って。
なんとなく、かっこいいじゃん。
それに——
大人にそれを求められている。
頭のどこかで、そんな考えもよぎる。
「文系の方がのびのび出来るくない?体育系だったら文系でもいいじゃん」
陽向は、にこっと笑って言った。
その笑顔は、太陽みたいに無防備で。
誘いは軽いのに、破壊力は重い。
(…星野は……国語系科目学年トップだから当然文系か…)
綾真の心臓が、キュンと鳴る。
(星野と……毎日のびのび……)
理系の将来像も、親の期待も、担任のアドバイスも一瞬で、どうでもよくなりそうになる。
文系行ったら……また同じクラスになれたりして…
ワンチャン隣の席とかもあり得るよな…
これまで通り、休み時間も絡めて…
放課後も一緒に残ったりして…
距離縮まって…
綾真の妄想は、一瞬で広がる。
未来の景色が、鮮明に浮かぶ。
それは数字や安定より、ずっと甘くてリアルだった。
(いや、でも。)
そんな不純な動機で、自分の重要な将来の選択を決めてはいけない。
綾真は自分を正し、煩悩を振り払う。
しかし──
「綾真も私と一緒に文系行こうよ!」
「は…はい♡」
ほぼ反射。
気づけば即答してしまっていた。
教室のざわめきの中で、自分だけが、別の音を聞いているみたいだった。
陽向は、クスッと笑う。
教室の窓の外、校庭の端に並ぶ桜の木が見えた。
まだ枝は細く、冬の風に揺られて裸のまま。
けれど、よく見れば——
先端に、ほんのわずかに小さく硬い蕾がついている。
灰色の空の下で、目立たない小さな変化。
誰も気づかないほどの、ほんの少しの“始まり”。
一月の風が、ガラス越しに枝を揺らす。
その揺れに合わせて、陽向の髪もふわりと動いた。
まだ咲いていない未来。
けれど、確実に実り始めている選択。
綾真は、窓の外の蕾をぼんやりと見つめながら思う。
どっちを選んでも…春は来るんだよな……。
誰の隣で、その春を迎えるかは——
今、ここで決めるのかもしれない。
隣で笑う陽向の横顔が、まだ固い蕾よりも、ずっと眩しく見えた。
────────。
「え?先輩、理系クラスなんですか!?」
陽向の声が、図書室の静かな空気を軽く震わせた。
窓の外は薄曇り。
冬が終わりを告げる優しい光が、机の上に淡く落ちている。
ページをめくる音だけが、二人の間を満たしていた。
俊輔はゆっくりと顔を上げる。
「うん。文系だと思ってた?」
その声は穏やかで、どこか余裕がある。
「読書好きな文学少年だと思ってたから、てっきり文系だと勝手に思ってました」
陽向は少し身を乗り出す。
頬にかかった髪が、さらりと揺れた。
俊輔は小さく笑う。
「本読むのは好きだけど、文系科目より理系科目の方が得意だよ」
「えぇっ!?」
さらりと告げられた事実。
陽向は本気の驚きだった。
「だから結構本を読んでても、星野さんみたいに感情で読むというよりは——」
俊輔は手元の文庫本を軽く持ち上げる。
「この文章、構造が綺麗だな、とか。この視点操作うまいな、とか。文体設計が緻密だな、とか…… 無意識に捉えながら読んでるところあるよ。」
指先でページをなぞる。
その言い方は、誇示でも自慢でもなく。
ただ、自分の呼吸みたいに自然だった。
「ななな、なんと……!?そ、そんな……理系文学少年だなんて……そんなの……」
(パーフェクトヒューマン過ぎないかっ!!)
思考が一瞬で暴走する。
「いやヒューマンじゃない。ゴッド。パーフェクトゴッド。ゴッドオブザパーフェクト。えぐい。尊い。しんどい。死ぬ。」
「出てる出てる。だだ漏れてる。」
思わず小声で漏れる本音に、俊輔は照れ臭そうに突っ込んだ。
静かな図書室に、小さな笑いが落ちる。
そして、少しだけ真面目な声に戻った。
「だから、星野さんから聞ける本の感想は、僕の視点とは全然違うから…いつも新鮮で、すごく面白いんだよね。」
視線が、柔らかくなる。
その一言は静かだったのに、陽向の胸の奥にあたたかいものが灯る。
「先輩は、小さい頃から本が好きだったんですか?」
俊輔の視線が、ふっと遠くへ流れる。
窓の外でもなく、目の前の文字でもなく、もっと昔のどこかへ。
俊輔のまつ毛が、わずかに影を落とした。
「………いや……正直言うと、小さい時はそうでもなかったかな」
「何か、きっかけとかあったんですか?」
図書室の時計が、コチ、コチ、と鳴る。
俊輔は少しだけ視線を窓の外に向けた。
「………そうだね……」
本を閉じる音が、静かに響いた。
「……実は……僕にとって、図書室が逃げ場だったんだ。」
空気が、すっと変わった。
「……え…………」
陽向の胸が、ぎゅっと掴まれる。
俊輔は視線を落としたまま、ゆっくり言葉を選ぶ。
「休み時間や放課後……いつも人に囲まれることに……疲れちゃった時があって。」
人気者。
副会長。
キラキラしてて。
眩しくて。
誰に対しても、いつでも笑顔で。
完璧で、隙がなくて、頼られる存在。
でもその裏で。
「こんな事言ったら性格悪いって思われるかもしれないけど……一人になりたい時に、誰もいない図書室を見つけて。」
その言葉は、とても静かで。
けれど、どこか切実だった。
「ずっと息が苦しかった。でも……図書室にいる時は、呼吸が楽になれる気がしたんだ。」
陽向の視界が、滲む。
ずっと虐められていた過去。
いつも一人ぼっちで。
友達と呼べる存在なんて、どこにも居なかった。
教室のざわめき。
刺さる視線。
居場所のない空気。
その全てから逃げ込んだ唯一の居場所。
私もあの頃……
ずっと……図書室でだけ……息が出来たんだ。
「それで、本を読むようになった。」
照れ臭さそうに笑う俊輔の穏やかな笑顔。
陽向の胸が、きゅぅっと締めつけられる。
その瞬間、堪えきれず、陽向の中で何かが弾ける。
「………私も同じです!!!!」
声が少し震えた。
俊輔の瞳が、まっすぐこちらを向いた。
「…星野さん……も…?」
陽向は、ぎゅっと唇を噛んでから、言葉を絞り出す。
「先輩は、性格悪くないです。」
その声は、震えていなかった。
強く、はっきりと。
「私、友達いなかったんです。いつもずっと、透明人間だったんです!教室にいると息が苦しくて……一人に…っ…なりたくて……」
机の下で、指先が震える。
「…ずっと……ずっと図書室だけが、私の唯一の居場所でした。」
言葉にした瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。
誰にも言わなかった弱さ。
見せなかった本音。
窓の外で、風が枝を揺らす。
ページが、ふわりとめくれた。
図書室の静寂が、二人を包む。
俊輔はゆっくりと、微笑む。
「………僕達は……逃げ込んだ場所が、同じだったんだね。」
その一言は、運命みたいに静かだった。
逃げた場所。
けれど、そこで出会った言葉たち。
そこで守られた心。
図書室の窓から差し込む光が、二人の間に落ちる。
それは、逃げ場の光ではなく。
いつの間にか——
誰かと繋がる場所に変わっていた。




