第42話 試しに実験してみよう。
十二月末の日没は、容赦なく早い。
六時半。
空はとうに闇へ沈みきり、底の見えない藍色が街を覆っていた。
住宅街の窓にはぽつぽつと灯りがともり、星野家の玄関灯が淡い橙色の輪を足元に落としている。
そろそろ、陽向の母が仕事から帰宅する時間。
リビングの温もりが、ゆっくりと現実へ引き戻される。
「“綾真ぁ〜またあちょんでね♡”」
玄関先でレオを抱いて、陽向はレオの手をフリフリさせながらアフレコしつつ、綾真を見送る。
「また遊ぶよおぉ〜♡」
陽向のその無邪気さに、綾真の胸の奥が蕩ける。
甘く返しながら、陽向の腕の中のレオへ頬を寄せた。
ほんの一瞬、指先が陽向の指に触れる。
柔らかい体温。
洗剤と犬の匂いが混ざった、冬の家の匂い。
(…さっさと帰れ…!)
その光景に、朔也に鈍い熱が広がる。
言葉に出せない代わりに、奥歯がきしむ。
「気をつけて帰ってね。またいつでも来てね!」
陽向の言葉に、綾真は一瞬だけ視線を横に滑らせる。
そこにいる朔也と目が合う。
そして、わざとらしく穏やかな笑顔を作った。
「うん。“絶対”、また来る。」
「……っ!」
敢えて“絶対”を、少しだけ強く。
その一語が、静かな玄関に重く落ちる。
朔也は、苦虫を噛み潰したような顔で綾真を睨み返した。
その視線を無視して、綾真は陽向に優しい声を落とした。
「あとでLINEするね。」
「うん、待ってる!」
まるでカップルのような響きに、綾真は胸がくすぐったい。
玄関の灯りに照らされながら、綾真は後ろ髪を引かれるように扉へ手をかける。
ガチャ。
冷たい夜の空気が、一気に流れ込んだ。
「綾真ありがとー!バイバーイ!」
陽向は玄関の外へ一歩出て、レオを抱いたまま大きく手を振る。
街灯のオレンジ色が、彼女の横顔をやわらかく染めていた。
その姿を、何度も振り返りながら手を振り返して、綾真はゆっくりと駅のほうへ歩き出す。
(2度と来んなーーーーーっ!!!!!)
玄関の内側で、朔也は心の中で叫んでいた。
「さっ、ママが帰ってきちゃうから片そっ!」
陽向は何食わぬ顔で、床に転がったボールを拾い、レオのおもちゃをかごに戻し、クッションをぽんぽんと叩いて整える。
さっきまで三人分の体温でぬるんでいたリビングが、急に現実へ引き戻されていく。
外はもう真っ暗で、カーテン越しに映るのは、室内の灯りに反射した自分たちの姿だけ。
ガラスの向こうの夜は深く、冷たい。
なに考えてんだよ!
距離詰め過ぎだろ!
思わせぶりなんだよ!
俺がいなかったら、なにされてたと思ってんだ!
危機感なさすぎだろ!
警戒心を持て!
今までは、このタイミングで当たり前に言えていた言葉が、急に何故か喉の手前で突っかかってしまう。
そして、言ったところでどうせ、“はいはい、親父フェーズね”で処理されて、さらにウザがられるだけだと痛いほど読めてしまう。
さらにウザがれ、より煙たがられた挙句、それを言っても……きっとこいつは変わらない。
もうわかる。
意味がない。
だから言うだけ嫌われて、自分が損するだけだ。
「…はぁ〜……」
ため息が、やけに重く落ちた。
朔也はテーブルの食器をキッチンへ下げる。
以前なら、それでも良かった。
こいつにウザがられようが、煙たがられようが、お構いなしで痛くも痒くも無かった。
…意識した途端。
………こんなにも、しんどい。
スポンジを握る手に、無駄に力が入る。
蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく流れ出した。
お湯になるのをじっと待つ。
一刻も早く、こいつの中の“家族枠”を打破しなければ。
男子友達に対する距離の近さ。
無自覚に男を惑わす、この無邪気さ。
天然すぎる鈍感。
致命的な無頓着。
こんな危なっかしいのから少しでも目を離したら……
一瞬で、鷹井綾真の毒牙に食われる。
想像したくもない光景が、勝手に浮かびかけて——
「…だめだーーーーー!!!」
朔也はカップを洗いながら思わず叫んだ。
「なにが!」
でか過ぎる朔也の独り言に、陽向の声が飛んだ。
「へ!?えーーー…‥スポンジの……泡立ちが悪くて……?」
自分でも何を言っているのかわからない言い訳を、必死に口から出す。
「そんなの適当でいいよ!油じゃあるまいし、チャチャって洗って置いとけば」
軽い。
軽すぎる。
俺の必死さを、日用品レベルにするな。
「はい…すいません……」
自然と声が小さくなる朔也。
どうしたら、ひなに自分を“男”として認識させられるんだろう。
どうしたら、“男”へ対する警戒心を植え付けられるんだろう。
家族枠。
安全圏。
その位置は、あまりにも近いのに、あまりにも遠い。
朔也は、蛇口を止めた。
静まり返ったキッチンに、自分の呼吸だけが残る。
もっと警戒を強めなければ。
網を、強固にしなければ。
笑っていられる距離で、守れると思うな。
多少、強行手段に出てまでも──
絶対に、ひなを、守る。
そして同時に。
こいつの中の“家族枠”を、ぶち壊す。
────────。
年始。
街はまだ正月の余韻に浸っている。
昼間に降った小さな雪は溶けきらず、夜の道路は白く鈍く光っていた。
日付の境界線を跨ごうとしている、深夜の時間帯。
テレビの光だけが瞬く、陽向の部屋。
カーテンは閉まりきっていて、外の世界は完全に遮断されている。
暖房の熱で、空気は少し乾いている。
ブランケットが足元に絡まり、ベッドの上にはクッションとゲームのパッケージが散乱していた。
部屋は、妙に熱い。
「朔也…お願い……やめて…」
「無理だ…ひな……やめられない。」
「でも……っそれだけは……」
「無駄な抵抗すんな。」
「だめだよ…っもう…これ以上は……」
「…ここまで来て……途中で止められるわけねぇだろ……」
「朔也…まって…だめ…!」
「……諦めろ……ひな。」
ポチッ
「あ"あぁぁぁーーーーーーっっっ!!!!!」
ドビューーーーン!!!
轟音と共に、画面いっぱいにハリケーンが巻き起こる。
ゲーム上で地道に築き上げた、家、マンション、ビル、商業施設。
積み上げた資産が、一瞬で、粉々に吹き飛んだ。
紙吹雪みたいに舞う瓦礫。
「あーっはっはっは!お前一瞬で貧乏になったなー!」
朔也が腹を抱えて笑う。
「鬼畜!鬼!!野蛮人っっっ!!」
陽向は涙目のまま枕を掴み、全力で投げつけた。
「あーもうすぐでゴールだったのにぃ〜やってらんないよ〜」
コントローラーをポイっと放り、陽向はベッドにぱたんと倒れ込む。
「おい、負け確だからって放棄すんなよ。最後までやれ。」
「無理無理。完全心折れたわ。お前と二度と“桃太郎”やらんわ。」
「ガキかよっ!」
陽向はいじけて大きく息を吐き、ブランケットを顔まで引き上げる。
しばらく、ゲーム音だけが鳴る。
「つーかさ。」
そして、話題をすり変える。
「なんであんたは冬休み、毎日毎日ここに居るわけっ!?」
「へ!?」
陽向の鋭いツッコミに、朔也の声が裏返った。
「そんなの、ひなと桃太郎にハマってるからだろ!」
軽い口調。
本音は、いつなんどき、綾真の誘いが陽向に飛んでくるか気が気じゃない。
朔也なりの、不器用な強行手段。
それは遊びじゃない。
監視でもない。
もはや張り込み。
「まぁそーだけど…」
陽向はごろんと寝返りを打ち、朔也の方を見る。
そして、何気なく。
「これじゃ、まるで朔也と同棲してる気分だわ」
時間が、一瞬止まる。
朔也の心臓が、跳ね上がった。
耳の奥で、自分の鼓動が鳴る。
——だが。
「学校も一緒でバ先も一緒で、家まで一緒だなんてうんざりだわ」
一瞬で心臓は冷え、スン、と落ちる。
「バ先はお前が頼んできたから、俺が店長に言ってやったんだろうが!!」
「あっそーだった!あははー!」
陽向はケラケラ笑う。
その笑顔は、何も含んでいなかった。
そして、ふあ…と欠伸をひとつ。
「あーねむ。明日朝からバイトだから風呂入んなきゃ。だる。」
ベッドの上でごろんと転がる陽向。
ブランケットが太ももに絡まり、シーツが少しだけ皺を作る。
「さっさと入ってこいよ。」
「いやー…そんな簡単なもんじゃないんだよ…風呂っつーのは気合いがいるんだよ……あー…しんどー……」
仰向けのまま、天井をぼんやり見つめる。
まぶたが、ゆっくり、重力に負けていく。
「おい寝るな。起きろ。」
「30分したら起きるから…30分後に起こして…」
声はもう、半分夢の中。
「ふざけんな!俺は帰るぞ!」
陽向の瞼は既に閉じている。
「朔也に帰られたらこのまま寝落ちしちゃう。あと30分居て。」
その言い方が、あまりにも自然で。
「俺だって眠いんだよ!」
その瞬間──
「ん。」
陽向は仰向けのまま、ベッドの端へずる、と身体をずらした。
「30分したら一緒に動こう。朔也スマホでタイマーかけて」
「はっ!!!???」
朔也の心臓が跳ねた。
「はい。一旦仮眠。」
完全に目を閉じた。
数秒後、すでに規則正しい呼吸。
(…俺に……横で一緒に仮眠しろと!?)
酷い。
あまりにも、酷い。
完全的な“家族枠”。
「…はぁ〜………」
朔也は、なんとも虚しい気持ちになりつつも、スマホで30分タイマーをセットして、ベッドの空いたスペースに身体を沈めた。
マットレスが、わずかに沈む。
その揺れが、陽向の身体にも伝わる。
微動だにしない。
早くも爆睡。
完全に、信頼。
完全に、無警戒。
藤崎先輩や、鷹井綾真相手にも、こんなふうに何も感じずベッドに誘うだろうか。
……いや。
流石に、それはない。
俺だからだ。
俺は完全に、こいつの中で“安全圏”だからだ。
陽向のベッドで横になると、彼女の匂いに包まれる。
隣で寝息を立てているその温もりに、どうしようもなく胸が締め付けられる。
陽向の呼吸が、一定のリズムで胸を上下させる。
その音に合わせて、自分の鼓動が、じわじわ速くなる。
(お前だって、どうせ星野で毎日想像してんだろ。)
先日、綾真に言われた言葉をふと思い出す。
正直、こいつに手を出す事なんて考えた事もない。
今だって、触れられる距離にいるのに。
手を伸ばせば、触れられるのに。
全く、そんな気は起きない。
いや。
起きないんじゃない。
起こさない。
綾真の言う通り、好きな子と一緒に寝ていたら、そんな想像するのが“男子だったら”当たり前なのかもしれない。
男として意識して欲しいとか思っておきながら……
俺も大概だ。
でも、陽向と違って、自分は意識していないわけじゃない。
(怖いの!恋して…彼氏彼女になっても……あんな事出来ない!私にはハードルが高すぎるんだよっ!!)
あの時の、涙目の顔。
朱里の件のあと、震えながら吐き出した言葉。
ひなにとって、それは異世界ホラーだ。
それをわかってて、そんな事する気は一ミリも起きない。
それでも。
ずっとこのままでいいとは思ってない。
今は無理でも。
いつかは。
そうなりたい。
朔也は天井を見つめながら、思考がぐるぐる回る。
ピピピピピピピピ──
あっという間に、30分タイマーは枕元で鳴った。
「ひな、30分経った。起きろよ」
朔也は陽向をゆすり起こす。
「…んー…はや………」
言葉を発したものの、陽向の目は開かない。
「ほら、動くぞ。寝るのどんどん遅くなんだろ」
肘を付いて頭を支え、陽向に身体を向けながら必死で陽向の肩をゆする朔也。
のそ…っと陽向は仰向けの身体を横に向けて、プルプルと腕に力を込めて起き上がろうとする。
が。
バタッ
その腕は力尽きた。
「………あー……しんどー………」
身体は横向きの体勢のまま、ボーっと寝ぼけたまま一点を見ている。
横になったまま、身体を向き合わせている二人。
陽向の眠そうな、無防備な顔が近い。
まつ毛。
頬。
唇。
近い。
朔也の心拍数が徐々に上がっていく。
年頃の男子が横にいる。
こんなに近い距離で向かい合っている。
警戒心は微塵もない。
ボケっとしながら、きっと頭の中では風呂と格闘している。
そんな眠そうな顔して。
俺がどれだけ意識してるかも知らないで。
俺なんか頭の片隅にもないような表情で。
なぁ、ひな。
どうしたら……俺を男として見てくれる……?
俺が勇気を出せば、こいつの意識を変えられるのかな。
どこまで踏み出せば、一瞬でも緊張するのかな。
(…ちょっと試しに…実験……してみっか…)
朔也はゴクリと固唾を飲んだ。
拒否られたら、“眠気覚ましの冗談”として処理しよう。
でも………
もし…………
拒否らなかったら……?
俺は──
ドクン。
指が、震える。
俺は、ヘタレずに………どこまで行ける……?
ドクン。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
朔也は、ボーッと一点を見つめたままの、陽向の髪へそっと手を伸ばした。
「……?」
柔らかい髪を優しく撫でると、陽向の瞳がこちらを向いた。
目が、合う──
世界が、静止する。
心臓の音が、耳に鳴り響く。
朔也は、陽向を見つめたまま。
ゆっくりと。
顔を寄せて。
息が、混ざる距離。
その距離は。
近づいていく──
——その瞬間。
「ちょっと!風呂キャンチェックしないでよ!」
パチッ!と目を見開いた陽向の声が弾けた。
「…は……?風呂……?」
朔也は、何を言われたのか一瞬理解が追いつかない。
「髪の毛油っぽいなーって触って、頭嗅ごうとしたでしょ!!私昨日風呂キャンしてるから頭くさいよっ!!」
押し退けられる。
距離が、強制的に戻る。
「…っざけんなよ!!風呂くらい入れよ女のくせに汚ねーな!」
焦りを怒りに変換。
「人に会う時は入ってるもん。今日別に外に出てないし!」
「俺に会ってんじゃねーかよ!」
そして、衝撃のひと言。
「は?何で人に会うわけでも無いのに、朔也に会うからって風呂に入んなきゃいけないわけ?めんどくさ。」
「…………………。」
静かに。
世界が、崩れた。
俺は…“男子”以前に……“人”ですらないんかい。
完全に。
空気。
安全圏。
人圏外。
朔也の心臓が、静かに沈んでいく。
完全にオワコンだ。
あまりにも……終わってる。
※実験結果:【被験者(陽向)にとって、術者(朔也)は空気と同等であり、特別な衛生管理は不要である。】




