第38話 恋愛禁止の王子様
季節は、静かに流れていった。
秋の光は少しずつ角度を変え、朝夕の空気に冷たさが混じり始める。
校舎の廊下を抜ける風も、夏の名残を手放していた。
陽向は俊輔と二人三脚で二学期中間テストを乗り越えて、陽向は高校入学後、初めて数学の赤点を回避した。
授業は相変わらず寝てばかりの陽向だったが、俊輔が図書室で教え、陽向の理解の速度に、きちんと歩幅を合わせてくれた。
二人の距離は、日に日に縮まっていく。
言葉を交わさなくても、隣にいるだけで落ち着く時間。
互いの存在がいつの間にか、かけがえのないものへと、静かに膨らんでいった。
そして、冬休みも近づいてきた期末テスト。
テスト期間も佳境に入った頃、ディンバードーナツは相変わらず賑わっていた。
「“さて”…は“そんで”てきな感じでぇ〜…“例のごとく”は、“前みたいに”てきな?んでー…なるむ…あり…?ん?なむあり…ける?なんじゃ“なむありける”って!!」
咲の混乱した独り言に、陽向は即座に顔を上げる。
「“さて”は“そして”。“例のごとく”は“以前とおなじように”。“なむありける”は“なになにしていた”だよ、咲。」
「咲は日本語弱いんだから現代語訳は諦めて、取り敢えず文章丸暗記しとけよ」
「ははっ。丸暗記しとけゃ穴埋め問題は硬いもんな。」
朔也の茶化しに、蒼太も肩を揺らして笑う。
テスト期間は部活も無く、この日は4人で一緒にテスト勉強に取り組んでいた。
「咲、暗記は得意だよ!先生がテストに出るって言ってたところら辺、結構覚えたもん!」
そして咲は、パタン!とワークを閉じた。
「おとこ、うはなりをうちするついでに、たかやすのおんなのもとに、かよいけり…」
天井を見ながら咲は必死で記憶を研ぎ澄ます。
「しかれども…ん?しかれどもぉ〜…あっ!そのおんなのもと、おやおおく、きょうだいおおくて……えー…しばしばいかずなりにけり?」
「咲、“心にまかせずなりにければ”が抜けてるよ。」
「え?陽向もしかして、丸暗記してるの?」
咲の問いかけに、陽向は答えの代わりに続きを紡ぐ。
「さて、もとの妻のもとに帰り来て、例のごとくなむありける。……“風吹けば 沖つ白浪 たつた山、夜半にや君が ひとり越ゆらむ。”」
声は迷いなく、スラスラと言葉が流れるように。
「これを聞きて、男、我が心いとあさましきことを思ひ知りて、その後は、いとまもあらじと思ひて、さらにほかへ行かずなりにけり。」
「「「おーーー!!!」」」
パチパチと、三人は歓声と共に拍手した。
「咲、“伊勢物語”はめっちゃくちゃエモいんだよ!!意味もわからず文章の丸暗記するだけなんて勿体ないよ〜〜〜〜」
陽向は興奮気味にテーブルを叩いた。
「これって確か、幼なじみ同士でくっついた夫婦の男が浮気して、でもなんか結果最終的には妻に戻るみてーな話しじゃなかった?」
蒼太の言葉に、咲が顔をしかめる。
「うわ!浮気男最低だな!」
「本当、朔也みたい」
「はっ!?」
朔也が思わず声を上げる。
「俺は浮気なんてしねーよ!」
「したじゃん。それでこの前彼女に振られたじゃん。」
「……っ…そ…れは………」
陽向の言葉に、朔也は声を詰まらせる。
「えー!最低ー!」
「ちげぇよ!!」
咲まで加勢する中、蒼太が、少しだけ悪戯っぽく言った。
「でもさ、この男が朔也なら、将来朔也の妻になる女は陽向じゃね?だってこの2人、幼なじみなんだろ?」
陽向は即答する。
「は?幼なじみとくっつくとかフィクションだから」
その一言が、朔也の胸に重たい鉛のように落ちた。
「こいつがこの“伊勢物語”みたいに、こんなに健気で奥ゆかしい女なわけないだろ!!」
「はぁ!?私はあんたと違って一途ですから!!」
再びいつもの応戦が始まる。
「だいたいお前、告白の返事はどーなってんだよ!なぁなぁにしたまんまにしやがって」
「えっ?…あ、あぁー…それはー…はははー」
「笑って誤魔化すんじゃねぇ!!」
朔也はビシッと人差し指を陽向に向けた。
「いいか。そんなんで一途だの本気だの喚いて、笑わせんじゃねぇよ。まともに自分の恋愛に向き合おうともしない奴が、偉そうに男女の事や伊勢物語を語んじゃねぇ!!」
「…は…はい…………」
「「…………。」」
咲も蒼太も何も言えなくなっていた。
「期末テスト終わった後、最初の役員会議終了後に返事を回収して来い。わかったな。」
(そしてさっさと藤崎先輩に振られてきやがれー!!)
その声は怒りよりも、焦りと不器用な気持ちを孕んでいた。
────────。
そして、期末テストが終わった翌週の放課後。
最初の生徒会役員会議も終わり、校舎全体にふっと気の抜けた空気が流れていた。
夕方の光はすでに低く、昇降口のガラス越しに差し込む橙色が、床に長い影を落としていた。
「で。回収できた?」
その影の中に、昇降口で腕を組んで立つ朔也の姿。
——待っていた、というより。
逃がす気がなかった。
「いやー…それが……」
「なんだよっ!」
語尾を濁した瞬間のアウトな間に、間髪入れずに飛んでくる声に、肩がびくっと跳ねる。
「顧問の先生が、副会長2人連携事項あるから残ってって言うから!藤崎先輩捕まんなかったよ…」
言い訳だって自覚はある。
でも、事実でもあった。
「連携事項なんて秒で終わんだろっ!!なんで生徒会室の前で出待ちしねーんだよ!!」
朔也の声が、昇降口に響く。
「無理だよ朝比奈副会長もいるのに出待ちなんて…っ出てきたところで…2人一緒だよ…」
「だったらなんだよ。話しあるんで藤崎先輩貸してくださいって言やいいだけの話しだろーが!」
脳裏に浮かんでしまう。
生徒会室の扉が開いて、並んで出てくる二人。
完璧な距離感。
完璧な空気。
——そこに割って入る勇気なんて、ない。
「…んな…無茶な……」
ガシッ
朔也は陽向の手首を掴んだ。
「グダグタ言いやがって!お前は生徒会室の前に強制連行だ!」
「えぇっ!!??」
朔也の声は怒っているのに、どこか焦っている。
こうして朔也に、強制的に生徒会室前へと連れて行かれる陽向であった。
逃げ場は、もうない。
生徒会室の前へと続く廊下が、やけに長く、やけに静かに感じられた。
ズンズンと迷いのない足取りで進む朔也の背中。
その腕に引かれるまま、陽向は半歩遅れてついていく。
「だいたい告白の返事って…なんて聞けばいいのっ!」
「そんなもんお前、“この前の返事聞かせて下さい”でも“私と付き合って下さい”でもなんでもいいだろ!」
朔也は振り返らずに吐き捨てる。
「そうすりゃ“ごめんなさい”とか“君の事はそんなふうに思えない”とか適当に返ってくんだろ!」
「なんで断られる前提なんだよっ!!」
そんな言い合いをしているうちに、生徒会室の前がすぐそこまで迫ってきていた。
自然と二人とも言葉を失う。
空気が変わる。
廊下の先が、一線を越えた場所みたいに感じられた。
(まだいるかな…)
と心の中で呟き、朔也が扉のガラス窓からそっと中を覗こうとしたその瞬間。
「私の気持ち…わかってるでしょ?」
扉の向こうから、はっきりとした声が響いた。
——朝比奈凛佳。
その一言が耳に届いた瞬間、陽向と朔也は同時に息を呑んだ。
二人は反射的に、サッと身を屈める。
ガラス窓から死角になる体勢で、扉の前で思わず固まった。
「……ずっと想ってくれてるって事は…わかってる。」
続いて聞こえた俊輔の声は、静かだった。
感情を削ぎ落とした、理性の声。
「もうすぐ2学期も終わる。3学期が終わったら…私卒業しちゃうんだよ?」
「….うん…それもわかってる…」
陽向と朔也はお互い顔を見合わせたまま石像のように動けなくなり、こめかみ付近にタラーッと冷や汗が滲んだ。
──これ……完全に、聞いちゃいけないやつ。
「わかってるなら、どうしてハッキリしてくれないの!?こんなにずっと一緒にいるのに!」
「…………。」
朝比奈凛佳の声が、感情を抑えきれずに揺れた。
俊輔は何も言わない。
「もう…私と付き合ってよ…お願い俊輔……」
その声は、今にも崩れそうだった。
「…散々…優しくするだけ優しくして…諦めさせてくれないくせに……何も応えてくれないなんて…ずるいよ…」
陽向の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
これは告白じゃない。
懇願だ。
そして…
先輩の優しさは、自分だけに向けられているものではない。
扉一枚隔てただけの距離で、空気が張り詰めているのがわかる。
そして、俊輔がようやく口を開いた。
「…朝比奈さんが、去年僕に初めて気持ちを伝えてくれた時に……」
その声は、覚悟を含んでいた。
「…前にも言った通り……僕は彼女を作らない……」
「「……っ!」」
陽向と朔也は思わず同時に目を見開く。
「………その時は…でしょ…?」
朝比奈凛花の縋るような声が揺れる。
俊輔は何かを断ち切るように、強い声で言った。
「……僕は、誰の事も好きにはならない。」
「「…………………………。」」
廊下の空気が凍りついた。
(オーーマイガーーーーー!!!!!!)
朔也が、声を出さずに全身で叫ぶ。
顔芸とジェスチャーで感情が大爆発している。
(しーーーーーーーーーーっっっっ!!!!)
それに対し、陽向は慌てて人差し指を口元に立てる。
必死に、必死に、音を殺す。
ジェスチャーだけでそれを表す。
「「………………。」」
生徒会室の扉の前に居続ける、その耐えがたい気まずさと罪悪感に、二人はついに限界を迎えた。
目配せひとつ。
そして——
ソローリ。
ソローリ。
足音を殺し、呼吸すら抑えて、二人は静かに、静かに、その場から退却する。
(なんだ…なんなんだ…藤崎俊輔は……)
廊下を離れるにつれ、朔也の胸の奥でドクドクと鳴っていた心臓の音だけが、やけに大きくなっていった。
(なんだその…高校生男子とは思えねぇ…高貴すぎる確固たる信念は…!)
陽向を“推し活”という安全圏から引きずり出して、俊輔に振られる事によって現実を知り、失恋すれば自分の隣に落ちてくると確信していた朔也だった。
(…こ、これじゃあ……)
そして、朔也は理解してしまった。
(ひなの、永遠の“推しの神様”認定じゃねーかーーーーーーー!!!!!)
“一生届かないからこそ、永遠に好きでいられる”というオタクの心理。
それはもはや最悪のシナリオ。
振られて傷つくなら慰めようがあるものの、恋愛を超越した高貴な存在になってしまえば、陽向の心の中で俊輔は“不可侵の聖域”として永遠に君臨し続けるだろう。
それを悟った朔也は、絶望の淵に立たされた。




