第37話 恋の試練と中間試験
その後も数日、綾真はなかなか立ち直れなかった。
授業中、黒板に書かれる数式はただの記号に見えて、教師の声は遠くで鳴る雑音みたいに頭の上を通り過ぎていく。
友達が隣で笑っていても、話題が耳に届く前に、全部どこかへ溶けて消えた。
本来の計画であれば。
今頃星野と付き合って。
毎日手を繋いで登下校して。
放課後デートしたりして。
週末は……家で…………
そこで思考が勝手に止まる。
「はあぁぁぁ〜〜〜〜〜〜」
教室の隅で、思わずこぼれ落ちた綾真のため息は、やけに大きく響いた。
…….ネタってなんだよ!!!!
まさか、あんなに距離詰めしてきておいて。
全く恋愛対象とされていなかったことなんてあるか!?
あれで、恋愛感情が、ゼロ?
——そんなわけあるかい。
本当に無自覚で。
完全に天然で。
意識の欠片すらも無い状態で。
あれを、やっていたとするのであれば。
ガチで心底恐ろしい。
「天然ナチュラルオーガニックたらしにも程があんだろ。」
机に突っ伏したまま、低く毒づく。
(あいつ、思わせぶりなんだよっ!!)
それでも………大好きだ。
好きで好きで、どうしようもなくて。
腹が立っても、ムカついても。
大好きで、たまらないんだ。
この気持ちをどうしたらいいんだ。
「…ちくしょ〜〜〜〜〜〜〜〜」
「綾真、さっきから溜め息と独り言がでかいよ。」
その声に、突然現実へ引き戻された。
「…一ノ瀬……か…」
顔を上げると、そこにいたのは一ノ瀬咲だった。
「陽向じゃなくてごめんねっ陽向は通級行ったからいないよ〜」
「別に…星野だと思ってねぇよ…」
強がりは、我ながら下手だった。
「綾真なんか暗くない?今週暗いよ。でかいため息ついちゃってさ」
「俺だって色々あるんだよ」
「陽向に振られた?」
「振られてねぇよ!!」
反射的に声が大きくなる。
「じゃーなによ」
「…………。」
一瞬、黙る。
一ノ瀬咲は、星野とニコイチの親友だ。
何か、この状況を打破する策をくれるかもしれない。
綾真は藁をも掴む気持ちで口を開いた。
「一ノ瀬…….あのさ……」
綾真は、週末に告白した事を咲に打ち明けた。
そして月曜日に、陽向と交わしたやり取りも全て話した。
「あっはっはっはー!やばー!ばかおもろいんだけど!!」
「笑うなー!!」
咲は綾真の話しに、手を叩きながら大爆笑していた。
「いやぁーさっすが陽向だわ!陽向クオリティえげつないわー」
「はぁ〜……」
綾真は再び溜め息をつき、机に突っ伏した。
「…一ノ瀬……星野攻略って…どうしたらいい?」
声が、少しだけ弱くなった。
咲は少し考える素振りをしてから、慎重に言った。
「…んー………ぶっちゃけ言っていい?」
「ん?」
咲の言葉に綾真は顔を上げた。
「陽向、好きピいるよ」
「はぁっ!?」
一気に身体を起こす。
こんなに凹んでるのに……
このタイミングで……
こんな追い討ち掛けられる事あんのかよ……
「誰誰!?誰だよっ!」
「えー私から聞いたって言わない?むしろ聞かなかった体で、知らないフリしてくれるー?」
「…まさか……黒川朔也…?」
一瞬で、背中に冷たいものが走る。
「んなわけ!2年の藤崎先輩だよっ!」
「え?藤崎先輩って…生徒会副会長?」
「うん」
一瞬、力が抜けた。
「あれは女子みんな好きだろー」
「まーそれなー」
「黒川朔也じゃないなら…まぁ…まだ良かった…」
心のどこかで、露骨に安堵している自分がいた。
「朔也のガード固いからね。あれ突破すんのなかなかむずいと思うよ」
「一ノ瀬は、俺と黒川だったらどっちにつく?」
「えーうーん………朔也かなっ!」
ガクッと綾真の首が曲がった。
「そりゃそーか…そりゃいつメンだもんな」
「でも私の一番の推しカプは藤崎先輩と陽向だよ♡」
「はいはい。まぁそこは無いから心配しねーよ」
「……私は…そうでも無いと思うけどなぁ」
咲はポソッと呟くように言葉を落とした。
「え?」
「藤崎先輩、まんざらでも無いと思うよ」
「…は……?いや…まさか……絶対恋愛しない学校一のアイドルで有名じゃん」
「そこを潜り抜けてしまうのが…陽向クオリティだよ♡」
笑おうとしたけど、口元が引きつった。
「はは…いやぁ…ないだろー…」
咲は、ぱっと表情が明るくなった。
「ま、でも陽向が朔也を好きになる事は100億パー無さそうだから、その点まだ朔也に比べたらワンチャン綾真の方が可能性あんじゃない?知らんけど」
「まじっ!?え、ガチ!?」
その言葉に、綾真の胸の奥で何かが一気に持ち上がる。
「うんっ!陽向の人生初彼氏は、なんだかんだ言ってなにげ綾真になんのかなってニコイチの私としてはぶっちゃけ思ってるよ!」
一瞬、言葉を失う。
次の瞬間。
パンッ!グッ!
綾真は手を叩いてから両手でガッツポーズをし、天井を仰いだ。
「……っしゃぁぁぁ……!!」
まだ、終わってない。
まだ、詰んでない。
「頑張ってね!応援してるよー!」
その一言が、胸の奥に、静かに灯った。
綾真は、ゆっくり息を吐く。
——まだ戦える。
この恋は、まだ終わってねぇ!!
────────。
体育祭が終わると、二学期は息つく間もなく、中間テスト期間へと突入した。
校舎の空気は、どこか現実的で、少しだけ冷たい。
教室に貼られた「テスト範囲表」、廊下に増えた参考書を抱えた生徒たちの姿。
楽しかった行事の余韻は、容赦なく“数字”と“期限”に上書きされていく。
放課後の図書室は、いつもより静かで、特別だった。
柔らかな午後の光が、窓際の席を淡く照らしている。
木の机に落ちる影はゆっくりと傾き、紙をめくる音と、椅子がわずかに軋む音だけが、時間の流れを知らせていた。
俊輔と陽向は、いつもの窓際に横に並んで座っている。
「x² − 5x + 6 = 0、これを解くにはまず因数分解するよ。だから……」
俊輔の声は穏やかで、丁寧だった。
「…………。」
陽向は、ノートを見ている。
けれど、ペン先は止まったまま。
手に汗を握ったまま思考は停止している。
「………−2 と−3 ね。そしたら──」
「ちょっと待ってください。」
陽向が俊輔の声を止めた。
「−2 と−3 って、今どっから出てきたんですか?」
「え?因数分解したんだよ」
「因数分解ってなんですか」
「はっ!?」
俊輔の声が思わず裏返った。
「…え……そこから…?」
「はい。」
俊輔の動揺に対し、陽向は当たり前のようにあっさりと答える。
「星野さん…よくここの高校入れたね……」
俊輔の呟きに、陽向は小さく肩をすくめる。
「私、数学は過去問の徹底攻略に全振りして、その中でも出来るやつは確実に習得して、出来ないやつは捨て単元としてバッサリ切り捨てたんですよね。時間なかったんで!」
「なるほど…ズルイけど…試験をパスする為だけの目的としては、かなり合理的だね」
「それに、私ここの入試の時、国語と英語なにげ満点だった自信ありますよ!」
「え!?それは凄い!」
「私、こう見えて一学期の期末、言語文化ノー勉で学年1位だったんですよ!」
「えぇ!?ノー勉で学年1位っ!?」
「はいっ!しかも現国も論表もなにげクラス1位でしたから!まー流石に論表はノー勉じゃないですけど」
「いや、クラス1位凄いよ!ここは国際高校だから、全体的に生徒の英語科目のレベルが高いんだ。その英語強豪校でクラス1位なんて普通取れないよ」
「いぇいっ!」
陽向は笑顔でVサインを作る。
「流石…一年生で生徒会役員やってるだけあるね…」
(それに対して…この数学レベルは一体…?)
出来ることと、出来ないこと。
得意と、壊滅的に苦手なもの。
その振れ幅が、あまりにも極端だ。
彼女は、様々な点であまりにもチグハグだ。
「まぁ、前回国語系科目の期末の単元が、たまたま私の得意分野だったってだけなんですけどね。論評も小説も得意だし」
そう言って、陽向はパッと顔を上げる。
その笑顔は、曇りがなく、まっすぐで。
「なによりの勝因は、みんなが落としがちな古文がちょー大好きっ!」
「え、古文好きなんだ?」
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」
陽向が口にした一節に、俊輔は記憶を辿る。
「…徒然草……?」
「はい。授業でやったんです。」
陽向は、少し身を乗り出した。
「現代語にすると、花は満開のときだけがいいの?月は欠けていない満月だけが美しいの?って事ですよね」
声が、自然と熱を帯びていく。
「兼好は続けてこういう価値観を語るんです。散りかけの花がいい。雲に隠れた月がいい。完璧じゃないもののほうが心に残る。それってつまり、目立たなくてもいい、欠けていてもいい、完成していなくても、価値はある…もう“それでいいんだよ”の塊ですよね!!」
陽向のいつものマシンガントークのスイッチはフル稼働。
「自信がなくても、前に出なくても、完璧じゃなくても、ちゃんと“美しい”。」
俊輔は圧倒された。
ただの普段の授業で一度触れただけの一節。
それを、ここまで深読みして解釈して落とし込む。
意識していない。
努力していない。
それをまるで、彼女は呼吸のようにしている。
「そのままでも、もう十分だよ。そんな優しい言葉が、“花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。”の一節なんです。」
俊輔は、言葉を挟めずに聞き入っていた。
「私は古文の、そんな暗号化された言葉のその奥にある意味をわかった時の、エモッッッ!!!てなる瞬間がめっちゃ好きなんですよー!!」
俊輔の胸に、先ほどの陽向の言葉がポトン….と静かに胸に落ちる。
(…完璧じゃなくても…ちゃんと“美しい”か……)
それは、完璧な優等生として、副会長として、失敗しない存在としてあり続けてきた俊輔の心に、小さな波紋をそっと広げていく。
そしてそれは、自分自身に対してと同時に、陽向へ対しても。
(……数学が出来なくても…この子は、こんなに素晴らしいな…)
心の底が熱くなる。
理由のはっきりしない胸の高鳴りに、俊輔は戸惑う。
どうしてこんなに……心を掴まれてしまうんだろう。
なにかをを越えてしまいそうな、堪らない感覚を必死に押し戻す。
意識を振り払うように、俊輔は呼吸を整えた。
「よし。それじゃあまずは、因数分解からやろうか。」
声に出すことで、自分を現実に引き戻す。
「はいっ!よろしくお願いします!」
陽向は、元気よく頷いた。
図書室の窓の外で、夕方の光が少しだけ色を変える。
その変化に気づかないまま、二人の時間は、静かに続いていった。




