第33話 子犬がウチにやってきた
朔也が陽向への気持ちを自覚しまってからも、結局その週もいつもと変わらぬ日常が過ぎていく。
朝は同じ時間に家を出て、同じ電車に揺られて、同じように喧嘩して、同じように並んで登校する。
陽向も何も変わらない。
俊輔への告白もまるで何事もなかったかのように、静かに、綺麗に、日常の中へ溶けていった。
図書室では、相変わらず同じ席に座り、一緒に本を開き、他愛もない雑談をして、勉強をして、同じ空気を吸っている。
誰も何も言わない。
誰も関係を壊さない。
けれど、それは“何も起きていない”のではなく。
誰もが、壊さないように必死で息を潜めているだけだった。
表面だけが、いつも通りの顔をしている。
────────。
文化祭が終わった直後、学校は一気に次の熱へ移行した。
十月上旬に控えた体育祭。
近年は初夏に体育祭を行う学校も増えているが、聖陵国際高校ではあえて文化祭や体育祭などの主要行事を二学期に集めている。
海外からの編入生を受け入れる枠があり、海外では夏に学年が切り替わることが多く、夏の終わりにやって来る彼らも同じように行事に参加できるように配慮するためだ。
応援団メンバー決め。
クラス対抗リレーの走順決め。
選抜競技の人選。
LHRも体育の授業も、すべて体育祭一色。
文化祭の余韻は、押し流されるように別のざわめきへと塗り替えられていく。
そんな、ある日の休み時間。
「えー!ちょー可愛いー!!」
教室の一角から、甲高い歓声が上がった。
「ちっちゃー!ぬいぐるみじゃん!」
「メロすぎるー!無理ー!」
女子たちが、ひとつのスマホを囲んで騒いでいる。
その中心にいるのは、陽向。
綾真は、無意識のうちにペンを止めていた。
耳が勝手に会話を拾う。
どうやら、星野陽向の家に子犬が来たらしい。
動画を見ながら、女子たちは次々に悲鳴を上げている。
(…へー…犬か…)
綾真は、心の中で小さく呟いた。
実は綾真は犬が好きだった。
しかも子犬。
あの、ほんの一瞬しか存在しない尊さ。
すぐに大きくなってしまうからこそ、“今”にしか価値がない時間。
──これは、チャンスだ。
文化祭で思うように絡めなかった分、ここで一気に星野との距離を詰めてやる。
そう決めた瞬間、体はもう動いていた。
「なになにー?星野、犬飼ったの!?」
繚真は、女子の輪に遠慮なく割って入った。
「うんっ!」
陽向はぱっと顔を上げ、嬉しそうに頷く。
「親戚の犬が子ども産んで、一匹世話してくれないかって!それで、うちで飼うことになったんだよー!」
そう言って、スマホを繚真の方へ向ける。
「繚真も見てよー!」
画面いっぱいに映る、小さな毛玉。
よちよち歩いて、転んで、また立ち上がる。
耳はまだ柔らかく垂れていて、目だけがやけに大きい。
……本当に、可愛い。
思考より先に、表情が緩んだ。
「やべー……くっそ可愛い〜……」
完全に本音だった。
夢中で動画を見ていた、そのとき。
「繚真って、犬好きなんだ?」
不意に落ちた、その一言。
「すぐ大きくなっちゃうからさ。よかったら近いうち見に来てよ!」
一瞬、呼吸が止まった。
……は?
今なんて言った?
見に来てよ?
それってまさか…………
家?
ってこと………?
心臓が、ドクンと跳ねる。
い、い、い、
家に誘われたーーーーーー!!!???
「行きます。行きます。今日行きます。」
考える前に、口が勝手に動いていた。
「は?今日?笑」
陽向は目を丸くして、クスッと笑う。
軽く投げた話しを予想外にしっかり拾われた理由を、陽向はこう捉える。
「繚真って、そんなに犬好きだったんだね!」
拒否じゃない。
冗談まじりの驚き。
「うち、親仕事でいないから一応ママにLINEして聞いとくね!」
……親、いない。
綾真の脳内で、鼻血がブーーーッ!と吹き出した。
親いない。
二人きり。
家。
胸の奥が、勝手に加速する。
それで誘うって……
無防備すぎるだろ。
いや、これは無防備なんじゃない。
俺だから許してる距離感だ。
そう都合よく、綾真の思考は結論を出した。
これはもう……こいつは………そうだ。
俺のこと、絶対好き確!!
その瞬間。
(あ、先輩にも今日図書室行かないってLINEしとこ♪)
陽向の頭では恋の矢が別の誰かへ向けられている事など、綾真は到底気づいていなかった。
そして、その日のHR終了後。
「綾真ー!帰ろー!」
歩み寄る陽向の声が、迷いなく綾真の席に届いた。
その一言で、世界が一段、明るくなる。
(…はぁ〜……“綾真、帰ろう”)
なんて破壊的ワード。
たったそれだけの言葉なのに、まるで特別な合言葉みたいに胸に落ちてくる。
名前を呼ばれて、帰る相手として選ばれて、並んで校門を出る前提で言われるその響き。
笑顔までセットで向けられたものだから、綾真の胸の奥は、どうしようもなく満たされていく。
これ、ほぼカップルだろ。
そんな考えが一瞬よぎって、自分でも呆れるくらい、口元が緩んだ。
「なに、綾真今日星野と帰んの?」
即座に、綾真の友達が茶々を入れる。
「うん!これからウチに犬見にくるんだ!」
陽向が何の躊躇もなく答えた、その瞬間。
「はっっっ!!??」
ガシッ。
ズザーーーーーッッッ
綾真は、友達に首へ腕を回され、そのまま教室の隅へと強制連行された。
「お前…ついに今日で童貞卒業か?」
ボンッ!!
音がしそうな勢いで、綾真の顔が一気に赤くなる。
「ばっ…童貞じゃねぇよ!!」
「嘘つくなよー」
「嘘じゃねぇよ!!」
「ちゃんと告ってからにしろよ、順序がおかしくなっちゃうからな」
「やめろお前!!」
声を潜めた攻防戦。
焦りと羞恥と、ほんの少しの期待がぐちゃぐちゃに絡まる。
友達の言葉に、心臓だけが勝手に浮かれていく。
その頃、同じ教室内にて。
「あ、咲ー!今日ディンバー行かなーい」
「え?先輩?」
「ううん。綾真がウチに犬見にくるから!」
「あ、そーなんだ!」
「朔也と蒼太に言っといてー!」
「あー…うん!わかった!」
咲は笑顔で返事をしながら、内心少し困っていた。
(蒼太はいいけど…朔也には言えないかなぁ…汗)
やがて、陽向と綾真は並んで駅へ向かう。
夕方前の空気はまだ明るくて、制服の影がアスファルトに長く伸びている。
「星野、確かディンバー好きだよな」
「うん!」
「お母さんも甘いの食べる?」
「なんで?」
「買ってく。」
「えーいいよそんなの!居ないし!」
「ご自宅にお邪魔させていただくのに手ぶらってわけにいかないだろ!仕事から帰ってきたら食べんだろ!」
真剣な顔で、当然のように言う。
「綾真って…意外と礼儀正しいんだね……」
少しだけ見直したように、でもどこか可笑しそうに笑う陽向。
その横顔を見て、綾真はまた胸の奥がくすぐったくなる。
そして二人は、駅前のディンバードーナツへ。
その背中を、数メートル後ろから蒼太が目撃した。
(あれ、陽向…?)
隣にいるのは、見慣れない男子。
距離が近い。
並び方が、やけに自然だ。
胸の奥に、ざわっとした違和感が走る。
反射的に、蒼太は横を見る。
朔也は、スマホをいじりながら歩いている。
幸いにも、まだ二人の背中には気づいていない。
……まずい!
「……あーっっっ!!」
蒼太は突然大きな声を上げた。
「なんだよ!いきなり!」
朔也が怪訝そうに振り返る。
「あー…えっと、忘れもんした!」
「あそ。先ディンバー行ってるわ」
「いや!駄目だよお前!付き合えよ!」
蒼太は、半ば強引に朔也の腕を掴む。
「はぁ?」
「いいじゃねぇかよ!一緒に戻ってくれよ〜寂しいだろ!」
苦し紛れの言い訳。
でも、必死さは本物だった。
「んだよしゃーねぇなー」
朔也は、渋々方向を変えた。
ディンバードーナツ店内。
甘い匂いと柔らかい照明に包まれていた。
「好きなの買えよ」
「えーどうしよっかなぁ♪」
ショーウィンドウ越しに、どれにする、あれ可愛い、これもいい、そんな他愛もないやり取り。
穏やかで、暖かくて、なんとも幸せな時間。
綾真の胸にじんわりと熱が広がった。
レジで会計を済ませて店を出る。
「なんか悪いなー、この前フラッペ奢ってもらったばっかなのに」
「それは…俺がカジノで負けたからだろ」
「カジノ楽しかったなーまたやりたいなぁ〜」
「お前…絶対将来ギャンブル狂で人生詰むだろ」
文化祭で、二人で遊んだカジノ。
笑いながら、あの時間が自然と思い出される。
ポーカー。
ブラックジャック。
ルーレット。
普段はのほほんとしているくせにに、ゲームが始まった途端に表情が変わる。
その表情はイタズラで、小悪魔めいていて……
綾真は思い出して、頬を赤らめた。
………沼る。
もっと色んな顔が見たい。
いつもの弾けるような笑顔。
授業中の無防備な寝顔。
生徒会で人前に立つ時の真面目な表情。
まだまだきっと。
見た事のない知らない顔も、全部見たい。
そうして二人は電車に乗り込み、陽向の自宅へと一緒に帰った。
一方、ディンバードーナツ。
「おつー!」
先に座っていた咲が、店に入ってきた蒼太と朔也へ手を振った。
(あれ?陽向は…いないな)
蒼太は店内を一周ぐるっと見渡した。
ドリンクバーから飲み物を注ぎ、蒼太と朔也は咲のテーブルへとつく。
「あ、そうそう。今日陽向来ないって!」
「あ?なんで?」
朔也の反応は、やけに早かった。
「んーなんか、友達が家に犬見に来るんだって!」
(男子という事は伏せておこう……)
「え?陽向犬飼ったの?」
蒼太は、咲の言葉に返しつつ先ほどの光景を頭に浮かべた。
(おいおい…男子かよ……)
「親戚の犬に子供産まれて引き取ったんだよ」
朔也がすぐに答えた。
「へぇー」
「めっちゃ可愛い。クソ小さくて、目が真ん丸なんだよ」
((…こいつは……知らない方がいいな…))
咲と蒼太の頭には同じ言葉が浮かんでいた。
「つーかあいつ、まさか6時からの走り込み忘れてねーだろうな」
「まだダイエット付き合ってんの?」
「あいつは間食ばっかして、普段全然動かねーからたまに鍛えてやんないとすぐ太んの!」
「さすがに6時には帰ってんじゃね?…犬見に来るだけならな……」
蒼太の言葉の真意を梅雨知らず、朔也は何も知らずにディンバードーナツでいつもの時間を過ごしていた。




