閑話:ナッチェは修行する
これはまだ訪れていない未来の話。
読者だけが知る、少しばかり先の物語。
ナッチェが修行の場として選んだのは、アーシアン連合国の北の果て、ザグレブホーン。
歌劇役者のような独特の口調で話す貴族の邸宅。
シャアリィ曰く、世界中のデザートで最も美味しかったという評価。
それもそのはず、それを作っているのは、
アーシアン王都三ツ星レストラン、『暁桜』の元総料理長、パガッティーニ・コサック。
シャアリィとアイシャの紹介状は、ナッチェの使った最後のコネ。
戦友に頼まれれば是非もなし、と、当主イザベラ・リリィ・シュベルドは、ナッチェの滞在を受け入れた。
イザベラがナッチェに要求したのは、日常のお茶の相手と有事の情報収集。
どちらも十全にこなし、街でも愛される人気者になった。
「イザベラ、黒猫元気かね?」
と、何時も前置きなくあらわれる少しばかり目つきの悪い聖職者にも慣れ、やたらと親し気に接してくる茶髪の漁師の青年は新鮮な魚をくれる。
ナッチェにとって残念なのは、憩いのカフェテラスがないこと。
スイーツ職人の修行をする身でも、たまには気楽にお茶がしたいのだ。
「ナッチェ、計量が甘い」
「砂糖一粒も無駄にしない気合が必要です」
師匠のコサックの腕前は流石としか言いようがなく、厳しくも温かい。
ザグレブホーンの街は寒さに弱いナッチェにとっては少しばかり冬が長過ぎる。
それでも平穏で、居心地がいい。
街の中央に近い場所にある公園には、迷宮踏破のモニュメント。
アイシャ・セロニアス
シャアリィ・スノウ
イザベラ・リリィ・シュベルド
ロザリー・イグシエンヌ
踏破者四名の名から少し離れた場所に、協力者アンソニー・レジータ。
踏破者は皆、ドラゴン・スレイヤー。
「まぁ、私には縁のない世界なのです」
そう言って、商業ギルドに向かい、小包の手配を依頼する。
小包はよっつ。
その宛先は、
英雄たちの住まう家。
ファイヤー亭。
踏破記念治癒院。
西方大教会。
中身はやっと師匠に認めてもらえた焼き菓子、フィナンシェ。
厳重に梱包したそれに記された差出人の名前は、不屈の黒猫。
ナッチェが考えたちょっとした悪戯だ。
まだレリットランスに帰る気はないけれど、何時かは必ず帰りたい。
そう、帰るのだ。
忙しく過ぎる毎日の中でも、色褪せることのない幸福な時間。
忘れたくても忘れられない痛みの繰り返しと刃の感触。
パティシエールになって、美味しいスイーツで笑顔にしたいひとたちがレリットランスに住んでいる。
姉のような幸福の古代魔法は使えなくとも、自分には自分の力で手にいれた笑顔の術式が宿るはず。
偉大な英雄に憧れ、その輝きの裏にある影を知り、黒猫は少女を卒業する。
次に目指すのは自分のお店を持つことだ。
夢には計画が必要であり、計画を進めるにはエネルギーがたくさん要る。
黒猫の冒険はずっとずっと続く。
小さな悪戯が和解の切っ掛けになったなら、ちゃんと謝ろう。
ちゃんとお礼を言おう。
今日も黒いしっぽはゆらゆらと揺れている。




