ナッチェは少し疲れた
ジョッキ一杯の酒で、ナッチェは足を縺れさせる。
両手には沢山の冒険の為の装備が入った紙袋。
その重さは自分の決断の重さ。
シャアリィとアイシャの家は、こういう場面も想定されているのか、階段にはスロープ、そして段差は緩い。
酔ったナッチェの足でも、何とか応接室まで辿り着いた。
「ひゃあ、すっごいー」
ベッドの代わりになると聞いていたソファの大きさに驚き、壁面のスイッチ一つで灯りが点る魔法のような生活魔具にも目を輝かせる。
冷えた水と多彩な菓子。
先程の喧騒がまるで嘘のような空間。
「ごめんね、帰ってきたばっかりで果物はないんだ」
シャアリィが冷蔵庫の中身を確認して扉を閉める。
「水やチョコレートは、ここに入ってるから好きに食べて?」
「私達の部屋は三階だから、暫くここがナッチェの居場所ね」
午後から始まった濃密な一日、あと数時間で日付が変わる。
不意にナッチェは泣きたくなった。
「ご主人も、女将さんも、怒ってますよね・・・」
「がっかりしてますよね・・・」
口から零れた弱音に、アイシャが答える。
「そうだね、怒ってるし、がっかりしてるだろうね」
「じゃあ、ここで帰るかい?」
「自分が間違ってたって謝るかい?」
ナッチェは首を横に振る。
「失言でした」
「私は私で選択したのです」
「たった十軒先の距離でも、私は踏み出したのです」
可愛らしい顔に不似合いな眉間の皺は、悔恨と希望の証。
「ならば良し、明日から迷宮に潜るよ」
「しっかり寝て、最初の冒険を生き残らなくちゃね」
「灯りはこのスイッチ」
「消すのがいやなら点けっぱなしでもいいよ」
「おやすみナッチェ」
シャアリィとアイシャはゆっくりと応接の扉を閉め、半回廊の先の階段を登る。
その気配が遠くなって、ナッチェは静寂の中で独り。
購入したハンティングナイフの包みを開けて、その刃先を灯りに翳す。
「私はナッチェ・シュバルツ」
「新米冒険者、ドラゴン・スレイヤーの威を借るただの黒猫」
「あなたは私の初めての同志・・・大切にするよ」
自分の武具に語り掛け、その刃で未練を断ち切る。
白金の刃は曇りなく、その切れ味はきっと自分を守ってくれるとナッチェは信じる。
豪奢な家具を傷つけないように、その刃は鞘に戻され、ナッチェはそれを抱き締める。
(ご主人、女将さん、お姉ちゃん、エドワードさん)
(私は英雄殿から学んで、強くなるのです)
(それは旅をするための準備で、夢を叶えるための方法なのです)
(いつか、最高のすいーつを皆に食べてもらう日まで、私は頑張るのです)
走り始めた夢。
いよいよ明日はその本番の始まり。
レリットランス旧迷宮一階層。
昏くどんよりとした鍾乳石だらけの入り口がナッチェの冒険の最初のステージ。
・・・
日付が変わって、シャアリィとアイシャはナッチェの様子を伺いに応接の扉をそっと開ける。
照明はついたまま。
それでも聞こえてくる小さな寝息。
慣れないことの連続、激しい心の動き、沢山の知識。
体格こそシャアリィと変わらないが、心は幼い。
「ちゃんと寝てるね」
シャアリィの小声に、アイシャも頷く。
扉をそっと閉めて、二人はサンルームで星を見る。
柔らかな月明りのせいで、明るい星しか見えないけれど、そこには沢山の星があるのだ。
ちっぽけで誰かの光に隠れてしまうような者でも、その輝きが増せば必ず見えるようになる。
シャアリィとアイシャは自分たちの責任の重さを知っている。
英雄の輝きは、人を狂わせる。




