逃亡のナッチェ
すんすん。
アレの匂いがします。
わたしのお腹が「くぅ」と音を立てて危険を察知したのです。
今日はご主人のお手伝いの予定もありません。
なので、わたしは、かふぇてらすに避難することを決めました。
ここにいては危ないのです。
何がどう危ないかと言えば、危ない程においしい料理を誰かが作り始めたのです。
恐らくは、最近、この街に帰って来たわたしの英雄殿の仕業です。
シャアリィさん、アイシャさん。
とんでもなく強くて、きれいで、その上、お金持ち。
しかも謎の能力をたくさん持っています。
見ただけで男のひとたちはめろめろになってしまったり、どんな場所でもえれがんとでかっこいいのです。
わたしと五才くらいしか違わないというのが信じられません。
大きな商会の偉いひともしています。
ああ、こうしている間にも大変なことになるので、急ぎましょう。
・・・
と、いっても行先はすぐ近くです。
わたしがこの街に連れてきてもらってすぐに教えてもらった、お嬢様の憩いの場所です。
わたしももう大人なので、ひとりで注文も出来ます。
『黒猫のテラス』のテラス席に、黒猫獣人の私が座ってお茶する。
洒落が効いているというものです。
店内はシャアリィさんたちの商品である、生活魔具の空調機があるので常春の快適さですが、あえて私はオープンテラス席に座ります。
「あら、黒猫さん、いらっしゃい」
店員さんはいつも優しくて、それでいてたくさんあるメニューを覚えているぷろふぇっしょなるです。
たまにサービスの品を出してくれることもあります。
以前、ここで働かないかと打診されたこともあります。
このお店の店員さんは、それはとても魅力的なお仕事ですが、今のお仕事を辞めてまで働くという選択肢ではありません。
ご主人、女将さんがいる今のお仕事は、とても気に入ってるのです。
この街のひとたちは、皆、優しいのですが、ご主人と女将さんは別格です。
この前、一緒に歌劇の観覧もしました。
シャアリィさんとアイシャさんがわたしにチケットをプレゼントしてくれたのです。
ご主人は退屈で寝てしまうかと思いきや、子供のように目を輝かせていました。
女将さんも、それはもう、真剣にご覧になってたので、わたしも嬉しくなりました。
このオープンテラス席からは、わたしの職場であるファイヤー亭も、シャアリィさんとアイシャさんのお家である、マーメイド商会のしょーるーむも見えます。
斜向かいには冒険者ギルド、道行くひとたちの表情は様々で、この街の二番目の商店街です。
なにより、この席は『英雄の席』なのです。
シャアリィさんとアイシャさんが、駆け出し冒険者の頃から愛している席。
ここに座ってお茶を飲みながら、ちょっとお高いチョコレートを食べると英雄になった気分です。
あ・・・お店の前で、ご近所のひとが佇んでいます。
恐らくシャアリィさんの魔法じみた料理の犠牲者でしょう。
つまり、わたしもあそこにいれば、否が応でも結界に囚われて、甘味を齧りながらお手伝いをすることになっていたでしょう。
それも嫌ではありませんが、わたしとしては傍観者の気分も味わってみたかったのです。
特別な輪の中にいるとわすれてしまう日常のアレコレというものをわたしは学ばなければいけません。
もう、わたしも十六才。
シャアリィさんがこの街にやってきた年と同じになりました。
それが意味するのは、わたしがわたしのために冒険を始める頃合いということです。
恩返し。
皆がわたしに望むのは、わたしが幸せでいることだといいます。
わたしも何時までも子供でいるわけにはいかないのです。
シャアリィさん、アイシャさんのような大冒険は出来なくとも、わたしはわたしの出来る冒険を近い将来、始めるのです。
まだまだ未熟なわたしは、こうやって、時折、輪から外れて、英雄の加護のない世界を知らなければなりません。
でも、何処にいっても、あのお二人の名前は轟いているので、なかなか難しいのが現実です。
貯金も随分貯まったので、ひとり旅というのもいいかも知れない。
そんなことを考えているうちに、ココアが届きました。
今は目の前の幸せを噛み締めることにしましょう。




