中国古代の王朝~「周王朝」と「礼儀」 「儒学と儒教 始皇帝」~
今人気の秦王政と熱き友情の物語を描く漫画は、政を好意的に描いた数少ない物語であろう。秦王政は、中国史のみならず世界史でみても恐怖で語られる事の多い存在である。
そんな秦王政、後の「始皇帝」の行いの中でも特に評判が悪いのが「焚書抗儒」である。始皇帝は合理主義の法治主義者であることはよく知られているが、彼にとって対極の「徳」の政策は赦せない物だったのだろう。だが実は「焚書」という行為は古今東西で行われている。支配者が自分の主張と合わない書物の類いを「焚く」事は決して珍しい事ではない。また特定の思想や宗教を弾圧する事もままある。ただし、抗という行為は秦の得意技ではあるが。
だが、弾圧された思想や宗教が民衆の知るところとなり、同情を誘いその思想が広まることもまた事実だ。まして儒学はまだ学問であり、宗教のように押し付ける事はけっしてなかったのだから、抗儒までしたことはやりすぎではあっただろう。始皇帝は、政策が苛烈で極端になりがちな支配者であった。
儒学側にとってもここまでの弾圧は予想外だったであろう。諸氏百家の時代は終わり、自由闊達な議論も出来ず、隠れるように暮らしながらも教義は捨てなかった。むしろ弾圧された側は結束力が生まれるものである。孔子の理想の政治を目指しながら、始皇帝の時代の終わりを待っていた事だろう。
始皇帝の政策はあまりに苛烈で、法治主義を徹底しすぎた。人は機械ではないうえ、秦の法律はあまりに細かすぎる。人が三人集まって議論をしたら捕まるとあっては、罪人を作るためにある法律といっても過言ではないだろう。このような時代に生まれた人々は、次の政権にはおおらかで寛容な政治を望んだに違いない。
秦の時代に中国でおおらかな政治といえば、墨家は戦国末期に謎の絶滅を遂げていたので、道家か儒家であった。始皇帝亡き後、当然の如く反乱が相次ぎ、最後に勝ち残り次の時代を担う任を負ったのは、漢の高祖「劉邦」であった。この男は、始皇帝と違った意味で、儒学者嫌いであった。儒学者にとって受難の日々はまだまだ続いていた。




