中国古代の王朝~「周王朝」と「礼儀」 「儒学と儒教 劉邦」~
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漢の高祖「劉邦」は、確認できる資料があるなかで、中国史上始めて「只の平民」から至尊の地位についた人である。劉邦の「邦」は、「兄ちゃん」のような所謂スラングであり、「劉兄ぃ」とでも呼ばれていたわけで、今でいうなら仁義の世界の親分のようなものであった。そんな人にとって「礼儀」なぞ「なにそれ、おいしいの?」の世界である。実際項一派の尽力で、一時期「楚」の国が復興したとき、宮中の礼儀は劉邦が一番苦労したようで、叱られ通しであったという。反対に項羽は実にスムーズで、育ちのよさが伺える。
そんな劉邦にとって儒学者は、小難しい理屈をとなえ、礼儀を強いる実に嫌な存在であった。劉邦自身は道家よりであり、神を尊嵩していたから、そういった意味でも邪魔な存在であったはずだ。
対して儒学者はどうだったのか。確かに劉邦は儒学嫌いであり、粗放な面は否めない。酔っばらって冠を外され小便をかけられたり、「お前らは口先だけの役立たずだ!」と罵られたりと散々な目にもあっている。しかし、劉邦はむやみに人を殺さず、嫌いな相手でも必要なら赦すといった「仁者」の風貌があった。対抗相手の項羽が力の信奉者で、対抗するものには容赦がない男であったから、劉邦の方がまだましな側面もあったであろう。
こうして儒学者たちは、劉邦の元で実績を積んでいった。国や敵将の説得を成功させたり、劉邦に嫌がられにくい仁者になることを勧めたり、儒学者なりの天下太平の策を献上したりと
地道に信頼を勝ち得ていった者がでてきた。
そして項羽を倒し、劉邦は皇帝となる。劉邦に加担した者は諸侯となり、宮中に参内となるわけだが、劉邦の仲間となると元は同じような所謂ごろつきとかならず者といった者達なので、宮中儀礼など知る由もない。毎日酒盛りや罵りあい、果ては刃傷沙汰に及ぶなど、とても宮中とはおもえない有り様まであった。皇帝となって始めて、劉邦は困ったことだろう。この時に儒学者の一人、叔孫通が「私が礼儀を教育します」と名乗りでる。そして見事群臣を教育し、儀式を完遂させた。劉邦曰く「自分は始めて皇帝が偉いものだと覚った」。
この時に儒学は国に役立つものだと認識されたのだろう。儒学は絶対権力者の元で輝ける物であるとは、群雄割拠の時代に生きた孔子は思えなかったのではないか。しかし徳と仁義を重しとする儒学は、一人のカリスマをモデルとして人々に教えた方がわかりやすい。劉邦は理想的な聖人ではなかったが、カリスマは持っていた。彼をモデルとして、儒学の儀式の有益さをしらしめ、その後聖人として教育しようとしたのかもしれない。事実、陸賈という儒学者が劉邦に儒学の経典を読み聞かせようと試みる。儒学の有益さは認めても、儒学嫌いは変わらない劉邦は「俺は馬上で天下をとったのだ!こんな書物で天下をとれるか!」と一喝しようとしたところ、「馬上で天下をおとりになっても、馬上で天下を治めることはできましょうか?」という名台詞を残し、儒学の経典の有益さも認めさせたのだ。
漢の高祖が認めた学問ならば、その時代のトップとなれたであろう。秦の始皇帝に弾圧された儒学は同じ轍を踏まぬよう、色々と画策していた可能性が高い。劉邦への、この流れの良さにそう計画性を疑わざるを得ない。儒学の権力者との相性の良さと、儒学者の計画の正確性、宣伝のうまさにより、儒学は漢帝国で絶対の地位を築いた。漢帝国を思想面でリードする事で、弾圧の憂き目に会わぬようにしていたに違いない。
漢帝国が数十年続き、中国大陸の民が「漢民族」と呼ばれる頃、儒学は民と権力とどちらにも相性が良すぎた結果、「国教」として漢帝国の思想面を支配する事となる。そして、それから二千年以上中国大陸のみならず、アジア全体に影響を与えていく。この思想を「宗教」と呼ぶのは暴論であろうか。しかし、漢帝国末期には「儒教」は、些末な儀式に拘り、賄賂が横行する政権となり、孔子の理想を忘れて腐敗する。「儒学」から「儒教」に変化したとき、腐敗が始まったとは言い過ぎだろうが、学徒であった時の純粋さを失った事は、否めない事実であろう。
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