中国古代の王朝~「周王朝」と「礼儀」 「儒学と儒教」~
「宗教」と聞いて胡散臭さを覚えてしまうのは、世界でもおそらく日本人がトップであろう。「日本人には信仰心はあっても、宗教心は薄い」とは誰の台詞であったか。この数あるなろう小説のなかでも「きれいな」宗教が書かれているものは存外少ない。それは「儒教」にもあてはまるものではないか。
「儒学」と学問であったものが、「儒教」となった訳はなんであろうか?学問の一角から宗教までなった例は世界でも少ないだろうと思う。ましてこの「儒教」が東アジア全体を覆う事になろうとは、孔子も泉下でびっくりではなかろうか。
孔子の理想は力で支配する「覇道」ではなく、徳をもって制する「王道」であった。目に見える「武力」より、見えない「徳」を上位にもってくるためには、政治の世界で実践するしかないと考えて仕官を繰り返した。しかし、時代は孔子の理想を求めなかった。また、天才や先駆者にはありがちだが、世の流れを読むことより自分を受け入れない世の中を批判することをしてしてしまう。孔子も批判者であることが多かった。そんな失意のまま晩年を迎えた孔子をみて、弟子たちはどう思ったであろう。師の名誉を挽回し、儒学を世にしらしめようと考えるのは当然として、師の理想は大切な物としつつ、より世に受け入れやすい形を模索したのではないだろうか。
孔子より数世代後に登場した「孟子」は「性善説」を唱え、人は生まれながらに善であると主張した。そして、各国の君主に善なるものをひきいるには徳をもってなす「王道」がふさわしいと説いた。孔子の教えを守りつつ、君主に受け入れやすい形をとったのである。しかし、やはり時代は「覇道」を選んでしまう。
その後に今度は荀子が表れ、性善説を批判しつつ「性悪説」を唱えた。人の心は生まれながらに弱いのだから、礼や儒学を勉強して人としての規範を見につけるのだ、と主張する。こちらはより人の内面と解決策を捉えていて、取り入れやすかったかもしれない。荀子の弟子からは、学問より法による処罰をもとめる政治を目指すものがでてくる。これも孔子の求めたものとは違いながらも、儒学の喧伝になったであろう。
また、墨子は儒学を批判し博愛を掲げた「墨家」をたちあげた。儒学にとってのアンチテーゼとなったわけだが、アンチテーゼの存在は比較対象があってこそであり、このころの自由闊達な時代なら活発な議論を交わして、儒学をより良い存在に持っていく事にもなったであろう。
そのように戦国時代に自分達のポジションを確保した儒学であったが、戦国末から二人の人物によって時代の渦に巻き込まれていく。秦の「始皇帝」と漢の「劉邦」、この二人である。




