表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
中国古代史あれこれ  作者: kuroyagi
~古代史の歴史書~
34/246

春秋左氏伝~「魯」と「周公旦」~

左氏伝の元本は「春秋」であり、「春秋」は「魯」の国の正式な史書である。魯は文王の四男「周公旦」の長子「伯禽」が三代目の王「成王」より封ぜられた邦である。場所自体は周公旦が武王より賜っていたが、中央で政治に集中しなければならなかったため、長子に統治させていたのである。

成王は二代目「武王」が在位数年で崩御してしまい、幼年の頃に王の座につくこととなる。そのため、政治を補佐する存在が必要になったが、維新の元勲たる太公望呂尚や召公奭(しょうこうせき)は任地も遠く所領を動けなかった事もあり、周公旦が摂政となり政治を見ることとなった。

周公旦は、武王が重体になった時に祖霊にむけて「兄の代わりに私が贄となります。どうか兄を助けたまえ」と身代わりになることを厭わないほど誠実な人柄で、摂政となっても堅実に政権を運営し、成王が成人してからは未練無く政権を譲り渡し、以降は成王を立てて周を盛りたてた。

「魯」の国の大きさは、そんな元勲にはふさわしくないほどの小ささである。おそらく成王はもっと大きな国を渡しかったであろうが、周公旦はこれを辞退し続けたのではないか。これは政治の実権を握っていた人間が、大きな実利を得ることで、他人からの妬みやそねみ等を畏れたからであろう。実際に摂政時代に兄弟の反乱があったのだから、他人事ではなかったはずだ。

そんな周公旦は、周の「礼」や「儀式」を体系化した人であると言われている。思うに、この頃の政治は祭祀と不分離であるし((まつりごと)は祭からきている)、武王への祷を行ったりした周公旦は巫人(シャーマン)としての資質を持っていたのであろう。周公旦は、人ならざる者との対話の形や、異民族国家といえる周王朝において政における必要な礼儀等を、後世に伝える必要を感じたのかもしれない。

周公旦の体系化した物は、魯の国で受け継がれていく事となる。周公旦の亡き後、数百年のちに魯に「孔子」が生まれたことは、歴史の必然か、悪戯か…。神のみぞ知ることだろう。

読んでくださる皆様のお陰で30話をこえました。ありがとうございます。読んでお気に召したなら、ブックマーク並びに評価をいただけると励みになりますので、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ