春秋左氏伝~「魯」と「周公旦」~
左氏伝の元本は「春秋」であり、「春秋」は「魯」の国の正式な史書である。魯は文王の四男「周公旦」の長子「伯禽」が三代目の王「成王」より封ぜられた邦である。場所自体は周公旦が武王より賜っていたが、中央で政治に集中しなければならなかったため、長子に統治させていたのである。
成王は二代目「武王」が在位数年で崩御してしまい、幼年の頃に王の座につくこととなる。そのため、政治を補佐する存在が必要になったが、維新の元勲たる太公望呂尚や召公奭は任地も遠く所領を動けなかった事もあり、周公旦が摂政となり政治を見ることとなった。
周公旦は、武王が重体になった時に祖霊にむけて「兄の代わりに私が贄となります。どうか兄を助けたまえ」と身代わりになることを厭わないほど誠実な人柄で、摂政となっても堅実に政権を運営し、成王が成人してからは未練無く政権を譲り渡し、以降は成王を立てて周を盛りたてた。
「魯」の国の大きさは、そんな元勲にはふさわしくないほどの小ささである。おそらく成王はもっと大きな国を渡しかったであろうが、周公旦はこれを辞退し続けたのではないか。これは政治の実権を握っていた人間が、大きな実利を得ることで、他人からの妬みやそねみ等を畏れたからであろう。実際に摂政時代に兄弟の反乱があったのだから、他人事ではなかったはずだ。
そんな周公旦は、周の「礼」や「儀式」を体系化した人であると言われている。思うに、この頃の政治は祭祀と不分離であるし(政は祭からきている)、武王への祷を行ったりした周公旦は巫人としての資質を持っていたのであろう。周公旦は、人ならざる者との対話の形や、異民族国家といえる周王朝において政における必要な礼儀等を、後世に伝える必要を感じたのかもしれない。
周公旦の体系化した物は、魯の国で受け継がれていく事となる。周公旦の亡き後、数百年のちに魯に「孔子」が生まれたことは、歴史の必然か、悪戯か…。神のみぞ知ることだろう。
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