1.ポーノティース号
海鳥が鳴いている。
ゆったりと進んでゆく船を悠々と追い越して、彼らは一足先に船とおなじ目的地へと羽ばたいていった。
ひらりと舞い落ちた白い羽を、少女の小さな手がつまみあげる。
長いストロベリーブロンドは、どれだけ強い風にあおられても絡まり合うことなく、さらさらと揺れた。手入れを欠かしたことのない髪は、少女――アーニャにとっての自慢だ。その髪を右手で軽く撫でながら、空を見上げる。振り仰いだ空と同じ青い瞳が眩しそうに細められた。
今年で十三歳になったばかりの幼い少女であったが、しっかりと伸びた背筋と、揺るがない視線が少女の意志の強さをあらわしていた。
明朝、船は目的地であるサレリア国の港町、エピロースへと到着する。そこから北へ馬車を走らせれば、彼女の生まれ故郷へはそう時間もかからない。それを思うとアーニャの胸には懐かしさと同時に、緊張や不安もこみ上げる。
太陽は既に西へ傾きはじめ、少しずつ船上を吹く風も冷たくなっていく。それでもアーニャはこの場所を立ち去る気になれなかった。
生家では彼女にとっての戦いが待っていた。剣と剣を合わせるような戦いではない。もっとドロドロとしていて、陰気で、体の内側から何かがじりじりと削られていくような、そんな戦いだ。
そこから逃げるという選択肢もあったが、少女は立ち向かう決意をした。ほんの一月前のことだ。
だというのに戦場が近づくにつれ、気持ちが揺らぐ。今ならまだ間に合う。逃げてしまえと自分の中の臆病な自分が囁いた。
しかし、そんなことは出来るものかとアーニャは水平線を睨みつける。
そこに何が待ち受けているのか分からない。
自分になにが出来るのかも分からない。
それでも今ここで逃げることは、他の誰が許したとしても、アーニャ自身が許せない。戦わずして後悔するより、戦って後悔する道を選んだ。
どのような困難であろうと、向かってくるなら倒すまでだ!
アーニャは握りしめた拳をかかげ、気合いをいれるために声をあげようとして――。
「アーニャ様! どちらですか?」
自分を呼ぶ声に慌てて手を下ろした。急いでドレスのリボンが歪んでいないか見直し、髪を整える。問題ないことがチェックできると、アーニャはなにごとも無かったかのようにすました表情を浮かべて、こちらへとかけてくる青年を振り返った。
青い詰め襟の制服を着た青年は、アーニャの姿を見つけると心配そうに眉根を寄せる。
「アーニャ様。手すりがあるとはいえ、端に寄っては危険ですよ」
「そ、そうですね。ごめんなさい」
手すりから急いで離れると、ようやく青年の顔に笑みが浮かんだ。
やや猫ッ毛な亜麻色の髪と琥珀色の瞳が印象的な青年だ。もとより整った顔立ちをしているが、微笑むとよりいっそう柔らかく甘い印象を受ける。歳は既に二十四歳と、まもなく二十代の折り返しを迎えようとしていたが、十代にも引けを取らない若々しさに満ちていた。
アーニャはそんな青年の笑顔をまともに見ることが出来ず、両の手をぎゅっと胸の前で握りしめた。
「あの……ルーセウス様」
「ルーサーで構いませんよ、アーニャ様。それに"様"も不要です。お嬢様の方が私よりずっと上の身分なのですから」
「でも……」
年頃の娘たちは、みな彼をルーセウス様と呼ぶ。
サレリア国のエギス騎士団北方警備隊の隊長を務めるルーセウス・トリエストスは、武勇・名声に加え、その甘い顔立ちで若い娘に人気があった。家で働く使用人の中にも彼のファンがいるほどだ。
彼の父とアーニャの父は親友であったため、幼い頃からルーセウスと話す機会は幾度もあった筈なのに、彼を前にするとアーニャはいつもの自分ではいられなくなってしまう。日頃は腕白で、周囲に散々手を焼かせていた少女は、青年を前にすると途端に引っ込み思案で内気な少女になってしまうのだ。
その為、アーニャはこれまで殆どといって良いほど彼と話したことがない。勿体ないなと自分でも思う。思うが、こればかりはどれだけ勇気を振り絞ってもままならない。
「では、私もお嬢様のことはアーニャ様ではなく、ちゃんとした呼び方で――」
「わわ、わかりました! る、ルーサー……さん」
最後の方はすっかり尻すぼみになってしまったが、やはり呼び捨てになど出来ずアーニャは俯いた。
アーニャは、正しくはアーニアスという名前なのだが、これが男の子の名前のようでアーニャはあまり好きではない。だから皆にはアーニャと呼んで貰っていた。そちらの方がうんと可愛らしいからだ。特にルーセウスの自分を呼ぶ声が好きだった。そんなコンプレックスとささやかな喜びを知ってか知らずか、ルーセウスは意地悪なことを言う。
ダメだっただろうかと緊張に身を固くするアーニャの頭を、ふわりとルーセウスの手が撫でた。
「さん、も不要と言いたいところですが……まぁ今はそれで構いません、アーニャ様」
「よかった」
「でも、ゆっくりで構わないので直してくださいね。それでは周囲に示しがつかなくなるので」
「はい!」
呼び方を直さなければならないのは難題であったが、それよりもゆっくりで構わないというルーセウスの言葉が単純に嬉しかった。きちんと呼び捨てに出来るまで、ゆっくり付き合ってくれる。彼はそう言ったのだ。
それってつまり、これからもこうしてお話しする機会があるってことよね!
アーニャは心の奥でガッツポーズをした。もちろん、表向きは優雅に振る舞う。彼の前で野蛮な態度など取れるわけがない。
ニヤニヤしたい、いっそスキップしてしまいたい衝動を必死に押さえる。
たったこれだけのやりとりで、未来に希望が沸く。ルーセウスはいつもこうやって、さり気なく、何気なく、アーニャに沢山の勇気をくれるのだ。
恭しく差し出された手に、そっと手を乗せる。ただそれだけのことに心が踊った。
時は支柱歴1743年。
天を貫くように高くそびえる『支柱』を抱いた世界ユー・ロ・ピュリアでは、秘術、あるいは魔法と呼ばれる力の研究がすすみ、流動元素学という学問と、それを応用した流動学技術が飛躍的に発展した。
豪華客船ポーノティース号も、そんな技術の発展によって生まれた船だ。
船内の廊下は二人が手を繋いで並んでも十分な広さがあった。すれ違う船員の方にお辞儀をすると、ルーセウスが船員に異常はないか確認を取る。愛想良く答える船員は、よく教育が行き届いているようで、船乗りであっても身のこなしが洗練されていた。
さすが、金持ち御用達と名高いポーノティース号だと感心しながら、アーニャは邪魔をしないよう黙ってルーセウスの仕事が終わるのを待った。
はじめは無駄遣いじゃないかと渋っていた船旅だったが、今ではこの船を選んで良かったと思っている。
お客様に優雅で快適な七日間をお約束します、という広告に偽りはなかった。派手好きな母方の伯母が大絶賛していた時はあまり興味もわかなかったが、ルーセウスまで一緒になって勧めてくるので、彼がそう言うならと、少し贅沢をしてみたのだ。
そうして六日過ごしてみると、本当に快適だった。なにより船に乗っている誰もが楽しそうに笑顔を浮かべているのが印象的だ。美味しい料理、綺麗な船室、船員たちはみな優しく、心からアーニャを気遣ってくれる。最初は金持ちが好む船など派手なばかりだと思っていたけれど、そんな考えは初日で消えた。
生家で待ち受けているものを忘れたことなどない。
それでも、このゆったりと流れる七日間のおかげで、不思議とアーニャの気持ちも整理がつきはじめていた。急げば五日もかからない道のりだったが、たった二日でも随分と違うのだと実感する。あるいは伯母もルーセウスも、あえてアーニャに考える時間を与えてくれたのかもしれない。
父も、母も、兄も、近しい親戚たちも、使用人も、ルーセウスや、その家族たちも……アーニャの周りにいる人たちは、いつだって優しい。それを、今頃になってしみじみと感じる。
ぼんやりと壁にもたれながら、見るからに裕福そうな乗客たちや慌しく行き交う船員たちを眺めている中、ふと感じた疑問をアーニャは口にした。
「みんな忙しそう……」
途端、報告を終えたばかりの船員が、ぱっと表情を明るくする。
「今夜はこの船で過ごしていただく最後の夜ですから。最高のおもてなしをご用意させていただいております」
「ダンスパーティがあるそうですよ」
ダンスパーティ。
社交界でのパーティはアーニャにとって退屈なものだった。豪華な食事も華やかなドレスも嫌いではないが、あまり良い思い出はない。運動に分類されるものならなんでも得意だったアーニャは、例に漏れずダンスも得意だったが、年の近い男性はどうにもリードが下手くそなのだ。誘い方からしてなっていない。もっとも、十歳にも満たない少年に大人と同じようなエスコートを望むのは馬鹿げていると分かっていたので、その不満を口にしたことはなかったが。
それでも、今日ここで聞いたダンスパーティという響きには、アーニャも期待を寄せた。
なにせルーセウスがいるのだ。一緒にダンスを踊れたら、きっと最高の思い出になる。
口を閉ざしたまま反応のないアーニャを不思議に思ったのか、ルーセウスが顔を覗き込んだ。
「なにか不安が御座いますか?」
「い、いえ……あの」
ルーセウスは、ダンスに誘ってくれるだろうか。誘ってくださいと頼むようなはしたない真似をするわけにもいかず、アーニャはじっとルーセウスを見つめた。頼むから察してくれと心の中で何度も願う。一曲だけで構わないのだ。このチャンスを逃してしまっては、もう二度と彼と踊る機会など得られないかも知れない。
ふわりと笑顔を向けられて、アーニャも釣られて笑みを浮かべる。
「心配なさらなくとも、警備の方はお任せ下さい。アーニャ様が安心してパーティを楽しんでいただけるように、サレリア国の誇る盾の騎士団隊長として精一杯のお仕事をさせていただきます」
そして、笑顔のまま凍り付いた。
後ろで話しを聞いていた船員も、どこか呆れたような顔を浮かべる。必死にこちらを見ないようにしているその心遣いが嬉しいやら悲しいやらだ。
女性から散々アプローチされているにも関わらず、彼に浮いた噂の一つもたたない理由を、アーニャはこの瞬間に理解した。
同時に世の無情も知る。神様なんていない。おとぎ話はしょせん夢物語。現実なんてこんなものだ。
それでもアーニャは笑顔を保ったまま「頼もしいです」と頷いた。彼は自分のために頑張ってくれている。これ以上を望むのは、きっと贅沢なのだ。
「あの、それじゃ私、一度部屋に戻りますね」
「お送りします」
「いえ、そこまでお手を煩わせるのは」
本当は、出来ることならもっと沢山一緒にいたい。それでも、今傍にいるとどうにも惨めな気持ちがむくむく沸いて、相手に余計な心配をかけてしまいそうだった。
アーニャは一歩一歩後退りながら、ついてこようとするルーセウスに手を振る。
「待って下さいアーニャ様!」
「あの、本当に大丈夫で――あっ!」
制止を聞かずにもう一歩下がった瞬間、踵に何かがぶつかって、そのまま後ろにひっくり返りそうになる。
衝撃を覚悟して目を瞑ると。しかし、尻餅をつく前にアーニャの体はふわりと誰かの腕に抱きとめられた。
「失礼……お怪我は御座いませんか?」
耳に心地よいテノールと、今まで嗅いだことのない蕩けるような甘い香り。指の長い形の良い手がアーニャの肩を支える。
声を追うように見上げると、故郷の海を彷彿とさせる美しいエメラルドグリーンの瞳と目があった。影が出来るほどの長い睫毛は、短く整えられた艶やかな髪と同じ漆黒だ。
綺麗な人。
そう思った後で、アーニャはそれを否定した。
綺麗、なんてものではない。
芸術の神が人間を作ったら、こんな形になるのだろうか。
陶器のようにつるりとなめらかな白い肌。通った鼻筋。淡く色づいた柔らかそうな唇。
そう評価する端から、そうではないのだと切り捨てる。どう表現したところで、自分の持っている語彙では到底表しきれない。いや、そもそもどんな言葉を集めれば彼を表すことが出来るというのか。花にたとえるのか。宝石にたとえるのか。
月に?
それとも太陽に?
神か、悪魔か、天使か、妖精か?
ああ、そうだ。
これは夢だ。
現にあるはずのない、夢そのものだ。
全身に痺れるような感覚が走る。ふわふわと足下が覚束ない。彼に支えられていなければ、直ぐにでも崩れ落ちてしまいそうだった。
心地よい目眩がする。
細くしなやか青年の指先が、アーニャの額にかかった髪をそっとすくい上げる。そのまま腰を支えるようにアーニャの体を起こすと、歪んでしまったリボンをなおしてから、そっと柔らかなストロベリーブロンドを撫でた。その一挙一動、床にうつる影さえも、まるで現実味がない。
ただ、肌に触れた手の冷たさだけが、青年が本当に生きてそこに存在することをアーニャに伝えた。
「前を向いて歩かないと、危ないですよ」
青年の表情は変わらない。それがまた、どこか作り物めいた印象を与える。
だというのに、話しかける声はとても優しい。
アーニャが頷くと、青年はもう一度だけアーニャの髪を撫でてから、近くにあった船室の戸をあけた。部屋の奥で誰かが立ち上がる。すらりと背の高い青年よりも、その影は二回りかそれ以上に大きい。
静かに戸が閉まった後も、アーニャはその場から動くことが出来なかった。
その光景を少し離れた所から見ていたルーセウスや船員もまた、呆然と閉められたドアを見つめ続ける。
不思議に思った別の船員が声をかけるまで、そうして三人はただただその場に立ちつくしていた。




