プロローグ 背中で考える機械
プロローグ 背中で考える機械
一九九八年、春。
大岡山の桜は、例年より早く散りはじめていた。東京工業大学のキャンパスには、湿り気を含んだ風が吹いている。その風の匂いのなかに、研究室の片隅だけが別の季節を閉じ込めていた。機械油と、錆びた金属と、古い埃の匂いである。
機械宇宙学科四年の青山修司は、床に置かれた一本の鉄骨を、腕を組んだままじっと見下ろしていた。
数日前、研究室の全員で見学に行った建設現場から、記念だと言って持ち帰ってきたものだ。長さは一メートルほど。持ち上げようとすると、指先から肩、肩から腰へと、重さが順番に体を貫いていく。
「こんなの、人間が持つもんじゃないだろ……」
独り言は、誰にも聞かれずに消えた。
重量は四十キロ近い。だが現場の男たちは、これを一日に何十本も、顔色ひとつ変えずに担いでいた。それが当たり前の重さだったからだ。当たり前だと言い聞かせなければ、続けられない重さだったからだ。
* * *
建設省が進める新技術情報提供システム、いわゆるNETISに関連した共同研究の一環として、青山たちは現場見学に参加していた。
帰りのバスのなかは静かだった。西日が窓を斜めに横切り、居眠りをする学生たちの頬を橙色に染めている。
最前列に座っていた教授の榊原正敏が、ふいに口を開いた。
「ロボットを作りたい学生は多い」
起きていた数人が、顔を上げた。
「だがな。本当に必要なのはロボットじゃない」
榊原は流れていく街並みを見たまま続けた。
「作業員の身体の負担を、軽くしてやることだ」
榊原は、そこで一度言葉を切った。
「それも、誰でも手軽に使える道具でな。特別な訓練がいる機械では、現場には残らん」
バスのエンジン音だけが響いた。
研究室には十五人ほどの学生がいた。しかしその言葉を聞き流さなかったのは、三人だけだった。
* * *
一人目は、青山修司。
石川県の出身。職人気質で、口数は極端に少ない。そのかわり、とにかく現物を見たがる男だった。図面を引く前に旋盤の前に立ち、削り、組み、壊してから考える。口癖のように、いや口癖というほど喋らないので信条と呼ぶべきか、彼の中心にはいつも同じ言葉があった。
壊れないこと。
二人目は、村上隆弘。
神奈川県の出身。研究室随一の理論派で、学会論文を読んだ量では誰にも負けない。新しい技術と聞けば目の色が変わる。当時ようやく注目され始めていた装着型ロボットの研究にも、並々ならぬ関心を寄せていた。
三人目は、遠山健吾。
愛知県の出身で、実家は自動車整備工場である。幼い頃から油にまみれた大人たちの背中を見て育ったせいか、発想が柔らかく、人あたりもいい。機械を「売れる形」に仕立て直す嗅覚があった。研究室のムードメーカーでもあり、彼がいる夜食の席だけは、不思議と笑い声が絶えなかった。
寡黙な職人と、理屈の人と、人たらし。
噛み合うはずのない三人が、このあと一つの機械のまわりに集まることになる。
* * *
一九九〇年代の終わり。「人間を助ける機械」と聞けば、誰もが同じものを思い浮かべた。
筑波大学などで研究が進められている、HAL系と呼ばれる装着型ロボットである。人が動こうとするとき、皮膚の表面に現れる微弱な生体電位信号。それを読み取り、モーターで関節を動かして、装着者の力を補う。人間の意思に、機械が先回りして応える。学会の発表会場は、いつも人で溢れていた。
SF映画の世界が、ついに現実になる。誰もがそう信じ、それが時代の本流だった。
村上の机の上にも、論文のコピーが束になって積まれていた。
「見たか、あの発表」
村上が、研究室に入ってくるなり束を叩いた。
「歩行の補助だけじゃない。重い物を持つ、立ち上がる、階段を上がる。人間の意思を読んで、全部機械が補助する。これが十年後の標準になる」
「すげえな」
遠山が、束をぱらぱらとめくった。
「でも、これ、どれくらい重いんだ」
「……モーターとバッテリー、制御装置を含めて、二十キロを超える」
「二十キロ」
「まだ研究段階だ。軽量化は、これからの課題になる」
遠山は、箱を二つ重ねて担ぐ仕草をして、肩をすくめた。
「着る人が二十キロ背負って、そこから二十五キロ持ち上げるのか」
村上は、言い返そうとして、口を閉じた。反論の言葉は、頭の中にいくつもあった。だが、どれも研究室の中でしか通用しない言葉だった。
部屋の隅では、青山が黙って旋盤の切粉を払っていた。
「青山。お前はどう思う」
村上が声をかけると、青山は手を止めずに答えた。
「いい機械だと思う」
「だろう」
「だが、現場には持っていけない」
村上は、眉を寄せた。
「なぜだ」
「重いからだ」
青山は、それだけを言って、また作業に戻った。
* * *
衝突は、その翌週のディスカッションで起きた。
「筋電センサーを使えば、人間の意図は読み取れる」
村上が、ホワイトボードに波形を描きながら熱弁をふるった。人が動こうとするとき、筋肉は先に微弱な電気信号を発する。それを拾い、モーターで動きを増幅すれば、装着者の意思どおりに体を補助できる。筑波大学などで研究が進められている、先進的な装着ロボットに近い発想だった。
「理論上は、腰への負担を大幅に減らせる。これが未来だ」
青山は黙って聞いていたが、話が終わると、静かに首を振った。
「違う」
「何がだ」
「現場の作業員が欲しいのは、コンピュータじゃない」
「じゃあ何だよ」
青山は、机の上に転がっていたラチェットレンチを手に取った。使い込まれて、グリップの塗装が剥げている。それを村上の目の前にかざした。
「これだ」
「……は?」
「壊れない道具」
研究室の空気が、ぴたりと止まった。
青山は一語ずつ、置くように言った。
「電池が切れたら終わりだ」
「センサーが壊れたら終わりだ」
「雨が降ったら終わりだ」
「そんなもん、現場じゃ誰も使わない」
村上の頬に血がのぼった。
「でも、それじゃ未来がないだろう。技術はもっと先へ進むべきだ」
「未来なんていらない」
青山は即答した。
「身体が楽になって、誰でも手軽に使える。それで十分だ」
誰も、何も言えなかった。理屈で言えば村上が正しい。しかし、あの四十キロの鉄骨の重さを知っている者にとって、青山の言葉は理屈より深いところに刺さっていた。
部屋の隅で腕を組んで聞いていた榊原が、ふっと笑った。
「面白い」
「教授?」
「作ってみろ」
それだけだった。
* * *
こうして、三人の卒業研究が始まった。
最初の議論は、三日続いた。
ホワイトボードの左に、村上が「動力式」と書いた。右には、遠山が「無動力」と書いた。二つの間に、青山が黙って一本の線を引いた。
「まず、現場で使う条件を全部書き出す」
遠山がマーカーを握った。
「重さ、値段、電池、手間。それと、雨と泥と粉塵」
「条件が多すぎる」
「現場は、条件の塊なんだよ」
遠山は、実家の整備工場を思い出すように言った。
「うちの親父が、よく言ってた。いい道具ってのは、説明書がいらない道具だって。工具箱から出してすぐ使えて、汚れても雨に濡れても平気で、壊れたら自分で直せる。そういうのだけが、現場に残る」
村上が腕を組んだ。
「だが、動力がなければ補助力は出せない。モーターがあるから、人間以上の力を、状況に合わせて自由に調整できるんだ」
「その自由が、重さになる」
青山が言った。
「モーターを積めば、バッテリーも要る。バッテリーを積めば、制御装置も要る。足せば足すほど、機械は重くなる。人間を助けるはずの機械が、自分の重さで、人間を疲れさせる」
「だから、軽量化の研究が……」
「それを待っていたら、一生、現場に届かない」
村上は、言葉を飲み込んだ。しばらくして、静かに言った。
「……じゃあ、補助を全部やるのは、やめるのか」
「やめる」
青山は即答した。
「歩くのも、走るのも、腕を動かすのも、全部やらない。人間は自分で動ける。足りないのは、しゃがんで、持ち上げて、立ち上がる、その一瞬だけだ」
「アシストに特化する、ということか」
村上が、ゆっくりと繰り返した。
「……引き算だな」
「そうだ。足すのは、誰にでもできる」
遠山が、ホワイトボードに三つの言葉を書き足した。
軽い。安い。手軽。
「これが、売れる道具の条件だ」
通りかかった榊原が、ホワイトボードをちらりと見て、足を止めた。
「軽くしろ」
三人が振り向く。
「軽ければ、着る気になる。着る気になれば、毎日使う。使い続けて、初めて、身体は楽になる」
榊原はそれ以上は何も言わず、コーヒーを片手に自分の部屋へ戻っていった。
青山は、ホワイトボードの前に立った。三つの言葉の上に、もう一行、大きな文字を書いた。
『作業員の身体の負担を軽減し、手軽に使用できる道具』
「これが、目標だ」
誰も、反対しなかった。
テーマは『無動力機械式作業支援装具』。電気も、センサーも、コンピュータも使わない。機械の力だけで、人間の腰を助ける。
まず三人は、人間の動きを観察することから始めた。
工場のライン。建設現場。港の荷役。農家の畑。
職場も職種もばらばらなのに、見ているうちに、どこにも同じ姿勢があることに気づいた。
腰を曲げる。持ち上げる。立ち上がる。
作業の九割は、この繰り返しだった。
* * *
転機は、夜の研究室で、遠山が段ボール箱を持ち上げた拍子に訪れた。
「人間ってさ」
箱を胸に抱え、腰を落としながら、遠山がぽつりと言った。
「しゃがむ時に、せっかくのエネルギーを捨ててるよな」
青山の手が止まった。
「……なんだと?」
「だってそうだろ。腰を落とす時、体重も荷物も、重力に引っ張られて落ちてく。そのエネルギー、全部ただ膝と腰で受け止めて、終わりじゃん。で、立つ時にまた一から力を出してる」
「……そうか」
青山は、旋盤の前から立ち上がった。
そこから、研究は一気に加速した。
人がしゃがむ。重力によるエネルギーが生まれる。それをどこかに蓄える。立ち上がる時に、返す。
それだけでいい。
モーターも、バッテリーも、要らなかった。
* * *
彼らが目をつけたのは、ガススプリングだった。
自動車のバックドアを支える、あのありふれた部品である。気体の圧縮反力でばねの役目を果たす単純な機構で、安く、頑丈で、雨に強く、傷んだら交換も簡単。遠山にとっては、実家の整備工場で毎日のように手にしてきた部品だった。
「これ、いけるぞ」
遠山が笑った。
青山は無言で頷いた。村上は、半ば悔しそうに、半ば興奮して、すでに力学モデルの計算を始めていた。
* * *
最初の試作品は、酷いものだった。
装着すると、立ち上がれない。歩こうとすると、膝が噛み合って進まない。バランスを崩して、青山は研究室の床に派手にひっくり返った。
見ていた榊原は、腹を抱えて笑った。
「いいぞ。失敗はデータだ」
二号機。三号機。四号機。
作っては壊し、壊しては作り直す日々が続いた。リンクの長さを変え、ばねの位置を変え、ベルトの角度を一度ずつ変える。村上の計算と、青山の削り出しと、遠山の人体への観察眼が、ときに噛み合い、ときに火花を散らした。
季節が変わった。
冬になると、研究室への泊まり込みが増えた。終電を逃した夜、三人はコンビニ弁当を機材の隙間に広げて、冷えた飯をかき込んだ。暖房は効きが悪く、息が白い。
村上が、箸を止めてつぶやいた。
「俺たち、何やってるんだろうな」
遠山が笑った。
「ロボットじゃない何か、だろ」
青山は図面から目を離さないまま答えた。
「道具だ」
誰も、それ以上は言わなかった。言う必要がなかった。
* * *
そして、五号機。
その瞬間は、あまりにも唐突に訪れた。
いつもと同じ、何の期待もない夕方だった。青山は黙々と装具を身につけ、ベルトを締めた。足元には、二十五キロの鉄塊が置かれている。
腰を落とす。
鉄塊に手をかける。
息を吸い、立ち上がる。
――軽い。
青山の動きが止まった。
明らかに、軽い。腰にかかるはずの重みが、どこかへ逃げている。背中の奥で、見えない誰かが一緒に持ち上げてくれているような感覚だった。
研究室の全員が、目を丸くして彼を見ていた。
「持てる」
青山が呟いた。
「……本当に、持てる」
遠山が駆け寄り、ゲージを確かめる。
「補助力、出てるぞ。ちゃんと出てる」
村上は、震える指で計算機を叩いた。何度も叩き直した。それでも数字は変わらなかった。
「二十五パーセント以上……軽減してる」
誰も、声を出さなかった。
モーターの音もしない。電子の光もない。ただ、錆びない金属と、ガスの圧力だけが、人間の腰を支えていた。
沈黙を破ったのは、榊原だった。
「なるほどな」
ゆっくりと三人を見回して、言った。
「コンピュータは、いらなかったか」
村上は、苦笑いのまま、深く息を吐いた。負けを認めたはずなのに、不思議と悔しさはなかった。
* * *
翌年、三人は共同卒論として研究成果を提出した。
タイトルは、『受動式リンク機構による作業支援装具の研究』。
学会での評価は、高くなかった。あまりに地味だったからだ。ロボットではない。人工知能でもない。未来の技術でもない。ただの、ばねとリンクの機械である。
しかし、現場の反応は違った。
試作品を試した熟練の作業員は、装具を外すと、しばらく自分の腰をさすっていた。そして短く言った。
「これなら、使う」
それだけの一言だった。
だが三人にとって、どんな論文賞よりも重い一言だった。
* * *
卒業の日。
研究室で、最後の飲み会が開かれた。紙コップと乾き物と、誰かが持ち込んだ日本酒。窓の外では、桜がまた散りはじめている。
榊原が、赤い顔でたずねた。
「就職先は決まったのか」
遠山は、自動車メーカー。
村上は、大手電機メーカー。
青山は、建機メーカー。
三人とも、立派な内定を持っていた。誰もが羨む行き先だった。
それなのに、誰一人として、嬉しそうな顔をしていなかった。
沈黙が、紙コップのなかの酒に落ちていく。
やがて、青山がぽつりと言った。
「もったいないな」
遠山が顔を上げた。村上も、ゆっくりと振り向いた。
「何がだ」
「これ」
青山の視線の先、机の上に、五号機が置かれていた。無数の傷と、油の染みと、徹夜の跡がそのまま刻まれた、あの装具だ。
遠山が、笑った。
「……確かにな」
村上も、小さく頷いた。
「まだ、完成してない」
榊原は何も言わず、ただ黙って酒を飲んでいた。
青山は、息を吸った。ラチェットレンチを握るときと同じ、迷いのない声だった。
「会社を作らないか」
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間、遠山が吹き出した。
「マジかよ」
「本気だ」
「金ないぞ」
「知ってる」
「経験もないぞ」
「知ってる」
遠山は笑いながら、目の端をこすった。笑っているのに、その目だけは真剣だった。
村上が、静かにたずねた。
「何を作る」
青山は、迷わなかった。
「身体の負担を減らす、誰でも手軽に使える道具だ」
* * *
そのとき、榊原が初めて口を開いた。
「やれ」
三人が、一斉に振り向く。
教授は、笑っていた。酒のせいではない、心の底から愉快そうな笑みだった。
「ロボットを作りたい奴は、山ほどいる」
そして、手にしていた紙コップを、ことりと机に置いた。
「だが、道具を作りたい奴は少ない」
窓の外では、夜の風が桜の花びらを巻き上げていた。
* * *
その夜。
東京工業大学の、機械油の匂いが染みついた研究室で、のちに日本中の現場へ広がることになる〈PBシリーズ〉の歴史が、静かに始まった。
三人はまだ知らない。
二〇一二年、自分たちの機械が、全国の建設現場や工房、農家の腰を守る存在になることを。
そして、日本のパワーアシストスーツの歴史を塗り替えることを。
のちに国土交通省となる建設省が、新技術を評価するとき。その物差しは、三人が思い描いていたものとは、少し違っていた。
問われたのは、超人的な力が出るかどうかではなかった。
作業の安全性は向上するか。腰痛などによる労災を予防できるか。高齢者や女性の作業員が、長く働き続けられるか。見られていたのは、機械の性能の高さではない。その機械によって、現場の労働環境がどれだけ良くなるか、だった。
三人が「道具」と呼び続けたものの目的は、制度の側が求める答えと、不思議なほど重なっていた。
ただ、その評価の枠組みのなかで、彼らの装具が置かれた位置は、皮肉なものだった。動力も、センサーも持たない、ばねとリンクだけの機械。それが世間からは、いちばん近い概念として「パワードスーツ」の隣に並べられたのだ。
「ロボットじゃない」と言い続けた三人の道具は、ロボットの時代の、すぐ隣に立つことになる。
だが、その物語は、まだ始まったばかりだった。
第一章 PB-92 開祖モデル編へ続く。




