第4話 辺境の流れ者、店を開く
夜明け前から、庵の戸を叩く音がしていた。
遠慮がちな、けれど切実なその響きで、俺は寝床から身を起こした。霧の森の朝は冷える。土間に下りて心張り棒を外すと、外には麻袋を抱えた中年の男が立っていた。膝が笑っている。立っているだけで精一杯、という顔だ。
「あ、あんたかい。竜騎士さまの腕を、治したっていう……」
ああ、と俺は内心でため息をついた。リーゼのことだ。
三日前、彼女が黒鋼の牙狼を一蹴したのを、薪拾いの村人が見ていたらしい。引退寸前と噂された『紅の竜乙女』が、全盛期を超えた動きで魔物を屠った。そんな話が広がらないわけがない。
「治した、ってほどじゃない。整えただけだ」
「整え……? なんでもいい、頼む。俺ぁ猟師でね、半年前に滝壺へ落ちてから、腰がどうにも動かねえんだ。村の祈祷師に診てもらっても、回復魔法をかけても、その時だけで……」
男は腰に手を当て、ゆっくりと体を傾けた。傾けたところで、止まった。それ以上はいかない。痛みでなく、動かないのだ。
俺はその腰回りに目を凝らす。
経絡の巡りが、右の腰だけ淀んでいる。落下の衝撃で外傷は塞がっても、その奥で滞ったものが、半年かけて固まっていた。回復魔法は傷口を縫う。だが、巡りまでは縫えない。
「肩、凝ってませんか?」
「はあ? いや、腰が……」
「肩も凝ってる。腰をかばって、ずっと体を傾けてたからだ。人は痛むところをかばって、別のどこかに無理を溜め込む。──まあ、いい。ちょっと、そこに座ってくれ」
俺は土間に敷いた筵を指した。男は半信半疑のまま腰を下ろす。
その時、奥の間から声が飛んできた。
「ソウマ。許可は取ったのか」
リーゼだった。腕を組み、戸口にもたれている。専属を志願して以来、彼女はこの庵に居着いてしまった。竜騎士の鎧は脱いだが、背筋の張りはそのままだ。
「許可って、誰の」
「ここの主人の」
その主人は、囲炉裏端で煙管をくわえていた。
老治療師ガレン。俺がこの世界に流れ着いて以来、居候させてもらっている偏屈な老人だ。白い眉の下で、しわ深い目がじろりとこちらを向く。
「ふん。針一本で何ができる、と言いたいところだがな」
煙を吐いて、ガレンは続けた。
「先日の竜騎士、わしも診た。確かに経絡が通っておった。ハイヒールでは決して戻らんはずの巡りが、な。……あの見立て、どこで習った」
「言っても信じない場所で」
「だろうな」
ガレンはふっと笑った。それから、煙管の先で土間の隅を指す。薬棚の並ぶ、庵でいちばん日当たりのいい一角だった。
「あそこを使え。患者を地べたに座らせるな、見栄えが悪い。古い薬研も寝台もある。──貸してやる。ただし、薬代は折半だ」
俺は思わず、ガレンの顔を見返した。
「いいのか、ここを」
「わしの古法は、ヘルマン……いや、昔の話だ。志半ばで折れた。お前の針が、わしの折れたところの続きなら、見届けたい。それだけよ」
言い終えると、ガレンはまた煙管に戻った。それ以上は語らない。だが、その横顔には、長く飲み込んできた何かの匂いがあった。
──導かれた、というやつかもしれない。
「ありがたく、使わせてもらう」
俺は頭を下げた。それで話は決まった。
猟師の腰には、銀の鍼ケースを開いた。
淀んだ巡りの要に、一本。腰の奥、骨の際の窪みへ、ゆっくりと差し入れていく。
「ぐっ……! な、なんだこりゃ、ズーンと、奥まで……っ」
「力を抜け。痛いのは効いてる証拠だ。今、半年止まってた巡りを、無理やり通してる」
男の額に汗が浮く。だが、抜かない。固まった経絡の脇に、新しい流れを起こしてやる。
針を抜くと、男はしばらく息を整えていた。やがて、恐る恐る腰に手を当て、体を傾ける。
止まらなかった。
「う、動く……動くぞ! 半年ぶりだ、こんなに……!」
「無理はするな。今日は巡りを起こしただけだ。あとは自分で養生しろ。冷やすな、温めて、少しずつ動かせ」
男は何度も頭を下げ、薬代を置いて帰っていった。その背を、リーゼがじっと見送っている。
「……お前は、いつもああして治すのか。竜騎士も猟師も、同じ針で」
「経絡に身分はない。焼けてるか、詰まってるか、枯れてるか。それだけだ」
リーゼは少し黙ってから、土間に立てかけてあった愛槍を担ぎ直した。
「決めた。私は今日からお前の助手だ。あと、用心棒も兼ねる」
「頼んでないが」
「専属だと言っただろう。助手のほうが近くにいられる。それに──」
彼女は戸の外、霧の向こうを顎で示した。
「お前の噂は、もう辺境中を歩いている。患者が来るなら、悪い客も来る。針しか持たん男を、一人にはしておけん」
反論しようとして、やめた。確かに、押し売りの薬師や、効能を疑う輩は、こういう商売につきものだ。竜騎士が用心棒なら、これ以上心強いものはない。
「……ま、好きにしてくれ」
「礼は言わんぞ。私が決めたことだ」
そう言うわりに、リーゼの口元はわずかに緩んでいた。
それから数日で、庵の一角はすっかり治療院の体裁を整えた。
ガレンが「看板くらい出せ」と言うので、薄い板に墨で字を書いた。──整える者、と。屋号らしい屋号もないが、辺境ではそれで十分通じた。
肩こりに悩む鍛冶屋、足のしびれる老婆、訓練で背を痛めた村の若者。回復魔法では「治っている」はずなのに、なぜか不調が残る者たちが、噂を頼りに森を越えてやってくる。
俺は彼らの背に手を当て、決まって同じ言葉から始めた。
「肩、凝ってませんか?」
たいていの患者は「腰だ」「足だ」と言う。だが、診てみれば必ず肩も凝っている。体は全部、繋がっているのだ。
「先生の口癖、もう村中が真似してますよ」と、薬研を回しながらリーゼが笑った。先生、と呼ばれるのにも、いつの間にか慣れてしまった。
その日の夕暮れ、最後の患者を送り出した頃だった。
森の道を、荷馬車が一台、ゆっくりと近づいてきた。色とりどりの布や鍋を満載した、行商人の車だ。御者台の老人が、庵の看板を見て車を止めた。
「ほう、辺境に治療院たぁ珍しい。──あんた、竜騎士さまを治したっていう針医者かい」
「噂が一人歩きしてるが、まあ、そういうことになってる」
「いやはや、たいしたもんだ」
行商人は荷台から茶を一袋差し出し、世間話のついでのように、こう言った。
「ところでね、王都帰りなんだが。あっちで妙な噂を聞いたよ。十かそこらで宮廷に上がった、それはもう天才の魔法使いの娘がいてね。──それが今じゃ、魔力が一滴も湧かんのだと。『枯れた天才』なんて言われて、宮廷から追われちまったらしい」
俺の手が、止まった。
枯れた。湧かない。──その言葉の響きには、覚えがある。焼けでもなく、詰まりでもない。使い果たして、空になった音だ。
「気の毒な話だよ。あんなに若いのにねえ」
行商人は茶をもう一袋俺の手に押し付け、ふと、こちらの顔を覗き込んだ。その目に、半分は同情、半分は試すような色があった。
「あんた、竜騎士さまの腕を返したんだろう。──なあ、あんた。あれも、治せるのかい?」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。看板を掲げ、押しかけ助手も得て、ソウマの治療院がついに動き出しました。そして行商人が落としていった、王都の「枯れた天才魔法使い」の噂。次回、第5話「枯れた天才魔法使い」で、その娘が霧の森に転がり込んできます。焼けでも詰まりでもない、空っぽになった魔力を、ソウマはどう診るのか。
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