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第3話 羽の生えた竜騎士

 立ち上がったリーゼは、しばらく自分の右手を見下ろしたまま動かなかった。

 恐る恐る、掌を握る。ゆっくりと開く。また握る。指の一本一本が、まるで初めて自分のものになったかのように、その動きを確かめている。

「……巡って、いる」

 掠れた声だった。

 彼女の身体の内側で、長いあいだ堰き止められていた何かが、ようやく行き場を得て流れ出している。肩から肘へ、肘から指先へ。詰まりが取れ、滞りが解け、温かいものが末端まで届いていく。

 その感覚を、俺は知っている。施術台から降りた選手が、自分の脚で立った瞬間に見せる、あの顔だ。痛みが消えたのではない。詰まっていたものが、ようやく巡り始めた——その静かな驚きだ。

「これが……トトノイ、か」

「ああ。整った、ってことだ」

 俺は銀の鍼ケースを閉じながら答えた。

 三月のあいだ、彼女の右腕は鉛のように重かったはずだ。聖女のハイヒールで傷は塞がれ、「完治」の太鼓判を押されてなお、剣の一振りすら満足にできなかった。塞がれた表面の下で、焦げついた巡りはずっと死んだままだったのだ。

 それを、貫いて、繋ぎ直した。一本の鍼で、焼けた経絡(けいらく)の脇に新しい流れの道を通してやった。

「軽い……んじゃない。これは……」

 リーゼが言葉を探して、不意に天を仰いだ。

「羽が、生えたみたいだ」

 その横顔が、ふっと若返って見えた。引退勧告を突きつけられ、追放寸前まで追い詰められた女の顔ではない。かつて『紅の竜乙女(くれないのりゅうおとめ)』と讃えられた頃の、まだ何も諦めていない顔だ。

 もっとも、本人はまだ半信半疑だろう。座って軽くなっただけでは、本当に身体が戻ったとは信じきれない。剣を握って、敵を前にして、初めて人は自分を信じる。

 その機会は、思いのほか早く訪れた。

 森の奥で、低い唸りが地を這った。

「来るぞ」

 俺が言い終わるより早く、リーゼの身体が反応していた。

 茂みを割って飛び出してきたのは、漆黒の毛並みに鋼の牙を持つ獣。三頭。B級魔物、黒鋼の牙狼(くろがねのきばおおかみ)。群れで狩りをし、騎士団でも複数で当たるのが常の手合いだ。庵の周りに罠を張り巡らせていなければ、寝込みを襲われていてもおかしくなかった。

 まずい、と俺は身構えた。整えた直後に、よりにもよって三頭。出力の戻ったばかりの身体に、これは荷が重い——そう思った俺の判断は、すぐに覆された。

「下がってろ、治療師」

 言い置いて、リーゼが地を蹴った。

 俺は思わず目を細めた。速い。だが、それだけじゃない。

 以前の彼女なら——いや、全盛期の彼女ですら、この三頭を相手にすれば一頭ずつ確実に仕留めにいったはずだ。力で押し込み、出力で叩き伏せる。竜騎士とはそういう戦い方をする者たちだ。魔力を全身に漲らせ、膂力で薙ぎ払う。派手で、強くて、そして——恐ろしく燃費が悪い。

 今のリーゼは、違った。

 先頭の一頭が、牙を剥いて飛びかかる。

 その喉笛へまっすぐ伸びる凶器を、彼女は紙一重で躱した。半歩。たった半歩、軸をずらしただけ。力みのない、流れるような体捌きだった。無駄な力が抜けているぶん、動きが見えないほど速い。躱しざまに抜き打った剣が、すれ違いざまに狼の喉を薙ぐ。

 着地した一頭目が崩れ落ちるより早く、二頭目が横合いから跳んだ。

 リーゼは振り向きもしなかった。剣を返す、その一挙動の延長で、刃が狼の前足を断つ。骨を断つ手応えすら、彼女の体勢を一切乱さない。最小の力で、急所だけを的確に断っているからだ。

 残る三頭目が、背後から喰らいつこうとする。

 その瞬間、リーゼの身体がしなった。着地の反動を一片も無駄にせず、ばねのように転じて、懐へ潜り込む。下から斬り上げた剣が、最後の一頭を真っ二つに割った。

 三合。たった三合で、三頭が地に伏した。

 血の匂いが立ちこめる中で、リーゼが静かに息を吐く。乱れた呼吸ではない。汗のひとつもかいていない。全盛期なら、この三頭を相手取れば肩で息をしていたはずの女が、まるで剣の素振りでも終えたかのような顔で立っていた。

「……なんだ、これは」

 彼女が、自分の剣を、自分の身体を、信じられないという顔で見つめた。

「全盛期でも、こんな動きはできなかった。力なら、昔のほうがあったはずだ。なのに、今のほうが——」

「速くて、軽くて、疲れないだろ」

 俺はゆっくり歩み寄りながら言った。

「力で剣を振り回してたときは、無駄に魔力を垂れ流してた。詰まった経絡を無理やりこじ開けて、出力で押し通してたんだ。そりゃ焼けるさ。蛇口を全開にして、潰れたホースに水を流し込むようなもんだ。水は出る。でも、ホースのほうが先に裂ける」

 リーゼが剣を下ろし、こちらを見る。

「お前の右腕は、ずっとそれをやってた。焼けて当然だ。誰が悪いんでもない。お前が、強すぎる出力を、無理な巡りで押し通せるだけの根性を持ってたから、限界まで気づけなかった。それだけだ」

 俺は一歩、彼女に近づいた。

「巡りが通れば、同じ魔力でも倍は働く。お前はさっき、力を出したんじゃない。巡らせただけだ。それで全盛期を超えた」

 俺は彼女の右腕を指した。

「魔力は出力じゃない。お前は強いんじゃない、ずっと無理してただけだ」

 森に、静寂が落ちた。

 リーゼは長いあいだ黙っていた。倒れた三頭の魔物を見て、自分の掌を見て、それから——剣を鞘に収めた。

 彼女が何を考えているのか、なんとなく分かった。三月のあいだ、「才能が枯れた」と言われ続けた女だ。完治の太鼓判を押されてなお動かない右腕を抱え、自分の身体に裏切られたと思い込んでいた女だ。その身体が、たった今、全盛期を超えた。覆されたのは、出力の問題じゃない。彼女がずっと信じてきた、強さの定義そのものだ。

 そして、膝をついた。

 竜騎士が。誇り高きヴァイデンの娘が。辺境の流れ者の前に、片膝を地につけた。

「貴様の専属になる」

 顔を上げた彼女の瞳に、迷いはなかった。

「文句はないな」

 問いかけの形をして、それはもう決定だった。こういう女なのだ、と俺はなんとなく察した。礼を言うより先に、自分の生き方を差し出してくる。不器用で、まっすぐで。

「……礼は、言わん。まだ」

 付け足された一言が、妙に可笑しかった。

「好きにしろ」

 俺は肩をすくめて、手の中の銀の鍼ケースに目を落とした。

 くたびれた革張りの、何の変哲もない道具入れ。前世から持ち越したわけじゃない。この世界で、俺がこの手で一から誂えたものだ。それでも——指に馴染むこの感触だけは、あの頃と何ひとつ変わらない。鍼の冷たさも、ケースの重さも、患者の経絡に触れる前のこの緊張も。

 使いすぎて潰れていく者を、嫌というほど見てきた。前世で。支えて、支えて、それでも壊れていく身体に手を尽くして、最後には自分が倒れた。誰も俺を整えてはくれなかった。整え方を知る者が、ほかにいなかったからだ。

 もう、誰も使いすぎで死なせない。

 その渇望だけが、生まれ変わってもこの手に残った。だから俺は、この鍼を握っている。

(さて——辺境の流れ者の、何でもない日々も、これで終わりか)

 膝をついたまま動かないリーゼを見下ろして、俺は小さく息を吐いた。専属、ときたか。厄介事の予感しかしない。

 それでも、悪くない始まりだと思った。


最後までお読みいただきありがとうございました。

専属を志願した不器用な竜騎士と、辺境の流れ者。この二人の縁が、次の物語を呼び込みます。次話「第4話 辺境の流れ者、店を開く」では、リーゼの再起が噂を呼び、庵にぽつぽつと患者が訪ねてきます。ソウマ、ついにお店を開く——のか。

面白いと思っていただけたら、ブックマークと評価で応援していただけると、書き続ける力になります。続きでまたお会いしましょう。

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