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第2話 響くほどに、効いている

銀の鍼ケースを開いた俺を、リーゼは死人のような目で見ていた。


「……針、だと」


蓋を開けると、細い銀の鍼が整然と並んでいる。前世から手放せなかった商売道具。この世界に流れ着いたとき、なぜか俺の手に残っていた、たった一つの財産だ。


「ガレンの庵で見たことのない道具だな。それで、何をするつもりだ」


「お前の経絡けいらくに、これを刺す」


リーゼの眉が跳ね上がった。誇り高い竜騎士の顔に、警戒と、それ以上の侮蔑がよぎる。


「正気か。聖女のハイヒールでも治らなかった腕を、そんな細い棒切れで治すと」


ハイヒールは、王国でもっとも格の高い回復魔法だ。それで治らなかったものを、針一本で。彼女がそう疑うのも無理はない。むしろ、まともな反応だった。この世界の常識からすれば、俺のやろうとしていることは、医術ですらない。


「治すんじゃない。整えるんだ」


俺は彼女の右腕を取った。肘の外側、骨と筋の境を指の腹でなぞる。ある一点で、指先がわずかに沈み込む感触があった。皮膚の下が、冷たい。巡るべきものが、そこで止まっている。


「ここだ。──焼けて、滞ってる」


「……っ」


触れただけで、リーゼが息を呑んだ。本人も気づいていなかったのだろう。普段は鉛のように重いだけの腕の、その一点に、確かに異物のような違和感が眠っていたことに。


「言っただろう。お前のそれは、治ってる。傷は塞がってる。だが酷使で焼け焦げた経絡が、巡りを堰き止めてるんだ。回復魔法は外側を塞ぐが、内側で詰まった巡りまでは流してくれない」


俺は一本、鍼を抜いた。辺境の朝の光を弾いて、銀がひやりと光る。


「力を抜け。──息を吐け。長く、細く」


リーゼの喉が鳴った。誇りと恐怖の綱引きの末に、彼女は目を閉じた。プライドの高い人間ほど、本当に追い詰められたとき、最後は他人に身を預ける。その細い肩から、ゆっくりと力が抜けていく。


その瞬間を、俺は逃さなかった。


滞った一点へ、鍼を落とす。


皮膚を裂く痛みはない。鍼は髪の毛より細く、入る瞬間など蚊が止まった程度だ。問題はその先。鍼先が、焼け焦げて固まった経絡の壁に、触れたときだ。


「ぐ……ッ」


リーゼの全身が、びくりと跳ねた。


来た。得気とっきだ。


「ズゥン、と来ただろう」


「な、何、これは……っ、痛……いや、痛いの、か……? 奥が、奥のほうが、重く……」


「それでいい。それが効いてる証拠だ」


鋭い痛みではない。鈍く、重く、響くような感覚。叩いた鐘の余韻が骨の髄まで伝わるような、あの感じ。前世でも、初めて得気を味わった選手は皆、同じ顔をした。痛いのか気持ちいいのか分からない、という顔を。


この鈍い響きこそが、鍼がただ皮膚を刺しているのではなく、奥で滞った巡りそのものに届いた合図だ。響かない鍼は、効かない。逆に言えば──こうして全身がのけ反るほど響くということは、それだけ深く、巡りが詰まっていたということだった。


俺は鍼を、ほんのわずかに捻る。


「ぎっ──ぃぃ……ッ!」


リーゼが、悶えた。


誇り高い竜騎士の喉から、聞いたこともない呻きが漏れる。背を仰け反らせ、無事なほうの手で寝台の縁を掴み、爪を立てる。額に脂汗が浮く。


「やめ……やめろ、抜け、抜いてくれ、これは、これは何かの拷問──」


「もう少しだ。今、お前の経絡の“焼け”を、貫いてる」


俺の声は淡々としていただろう。だが内側では、舌を打っていた。


焼けが、思っていたより深い。


固まった経絡を一点だけ突いても、巡りは戻らない。焼けた本流はもう諦めて、その脇に新しい流れの筋道を、無理やり通してやる必要がある。バイパスだ。塞がった道の脇に、迂回路を引いてやる。


そして、それをやるには──俺の側から、押し込んでやらなきゃならない。


鍼を通して、俺自身の気を、彼女の経絡へ送り込む。


ぞわり、と俺の指先から熱が抜けていくのが分かった。掌から、腕から、胸の奥から。誰かの巡りを起こすということは、こちらの巡りを分けるということだ。一本の鍼は、ただの棒切れじゃない。俺と患者を繋ぐ、橋になる。


(……減るな、これは。いつもながら)


胸の内でだけ、呟いた。施術のたびに、俺の中の何かが目減りしていく。前世ではなかった感覚だ。この世界の身体になってから、施術は俺の“気”そのものを糧にする。──まあ、いい。今は、こいつだ。


「ひ……っ、あ、熱い、腕が、熱い……っ」


「巡り始めた。怖がるな。それは血が通った証拠だ」


リーゼの右腕に、見えない何かが流れ込んでいくのが、俺の指には感じ取れた。氷の張った川が、底からじわりと溶けていくように。冷たかった一点が、温み始める。


「もう一本いく。今度は、肩だ」


「ま、待──ぎぃッ!」


肩の付け根、もう一つの滞り。さっきよりも浅いが、こちらは古い。何年も無理を重ねた竜騎士の、勲章のような凝りだ。鍼を入れ、響かせ、捻る。リーゼは寝台の上で、汗だくになって悶絶した。


地獄だろう。分かっている。だが、この地獄を通り抜けた先にしか、軽さはない。


「……竜騎士は、痛みには慣れているんじゃなかったのか」


「こんな……っ、こんな痛みは、知らんッ……剣で斬られるほうが、まだ、ましだ……っ」


「だろうな。斬られる痛みは外から来る。これは、内から来る。お前の身体が、ずっと我慢してきた痛みだ。今まで、聞こえないふりをしてただけだ」


剣の傷なら、誰でも痛がる。だが内側の焼けは、悲鳴を上げない。じわじわと巡りを締め上げ、ある日ふいに、腕が上がらなくなる。本人は気づかない。気づいたときには、もう“才能が枯れた”と呼ばれている。残酷なのは、痛くないことのほうなのだ。


リーゼが、息を詰めた。


汗に濡れた銀の睫毛の奥で、その目が、ほんの一瞬、揺れた。──聞こえないふりをしてきた。引退勧告に頷きかけ、才能が枯れたと自分に言い聞かせ、心の奥で叫んでいたものに、ずっと蓋をしてきた。図星だったのだろう。


「……黙れ。施術に、集中、しろ」


「ああ。集中してる」


最後の一本を、抜く。


指先で送り込む気が、もう底をつきかけている。額に滲んだのは、リーゼの汗か、俺の汗か。──分け終えた。これ以上は、俺が倒れる。


「これで、巡りの筋道は通した。あとは、お前の身体が思い出すだけだ」


俺は鍼を、一本ずつ、ゆっくりと抜いていった。抜いた鍼を布で拭い、ケースへ戻す。銀が、また辺境の光を弾く。


リーゼは寝台の上でぐったりと脱力していた。荒い息。汗みずく。さっきまでの悶絶が嘘のように、その身体から、強張りが消えている。


「……終わった、のか」


「ああ。──立てるなら、立ってみろ」


リーゼは、しばらく動かなかった。立つ、という言葉そのものを、忘れた人間のように。三月の間、彼女にとって“立ち上がる”は、敗北を確かめる動作でしかなかったのだろう。


それでも、彼女は寝台に手をついた。恐る恐る、まるで割れ物に触れるように、自分の右腕を見下ろす。


そして、ゆっくりと、立ち上がった。


その瞬間、リーゼの顔から、表情というものが抜け落ちた。


立ったまま、彼女は自分の右手を、目の高さに掲げる。掌を、開いて、閉じる。開いて、閉じる。何度も、何度も。確かめるように。信じられない、という顔で。


「……軽い」


掠れた声だった。


「身体が……軽い……?」


リーゼの長い悶絶にお付き合いいただき、ありがとうございました。痛いのは効いている証拠、とはいえ本人はたまったものではありませんね。

さて、軽くなった身体──竜騎士はそれをどう使うのか。次回「第3話 羽の生えた竜騎士」、再起したリーゼの本領が辺境を駆けます。続きが気になった方は、ぜひブックマークと評価(★)で応援していただけると、続きを書く力(巡り)になります。


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