第1話 治ったはずなのに、剣が振れない
肩、凝ってませんか? ……ああ、肩どころじゃない人もいますよね。剣が握れない、魔力が湧かない、立つだけで指先が痺れる。回復魔法で「完治」と言われたのに、身体だけが嘘をついているような、あの感じ。
これは、そういう「治ったはずなのに動けない」英雄たちを、針一本で整えていく男の話です。第1話、どうぞ。
「治ったのに、なんで剣が振れないんだ……ッ!」
その絶叫を、俺は薪を割る手を止めて聞いた。霧の森の外れ、老治療師ガレンの庵。客などめったに来ない辺境の戸口に、銀髪の女が這うようにして倒れ込んでいた。
立とうとしている。立てていない。右腕が、まるで他人の腕みたいに、地面に貼りついて動かない。
「動け、動けよ……三月前は、竜の首を落としたんだぞ、この腕で……っ」
女の指が土を掻いた。爪が割れても気づかないほど、力が入っていない。傍目には五体満足だ。傷一つない。聖女の回復魔法でも受けたのだろう、肌は赤子みたいに綺麗に塞がっている。なのに、本人だけが「動かない」と泣いている。
俺はその矛盾を、知っている。前世で、嫌というほど。
ガレンが奥から出てきて、舌打ちした。「リーゼロッテ・フォン・ヴァイデン。『紅の竜乙女』だった女だ。三月前の竜討伐で大怪我をして、王都の聖女に治してもらった――はずなんだがな」
「はず、ですか」
「ああ。治ったのに動けん、と泣いて、あちこちの治療師を回って、ここまで流れてきた。気の病だと匙を投げられてな」
気の病、か。便利な言葉だ。原因がわからないとき、人はそれを患者の心のせいにする。前世でも、よく聞いた。
俺はリーゼのそばにしゃがんだ。彼女は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、見知らぬ流れ者を睨んだ。
「……なんだ、貴様。同情なら、いらん」
「同情はしないよ。肩、凝ってませんか?」
「は……?」
間の抜けた顔をされた。まあ、そうなる。竜騎士に向かって肩凝りの心配をする奴は、この世界にはいないらしい。
俺はかまわず、彼女の右肩から腕にかけて、そっと指を滑らせた。触れた瞬間、わかった。皮膚の下、本来なら清流みたいに魔力が巡っているはずの道筋――この国でいう魔力経絡が、そこだけ干上がった川みたいに、硬く、熱を持って、こわばっている。
指先にずしりと返ってくる、淀んだ手応え。これは塞がれた傷の感触じゃない。焼けて、滞った、巡りの感触だ。
「触るな……勝手に、触るな」
「我慢して。すぐ終わる」
肘の内側、前腕の中ほど、手首の際。順に押していくと、健康な側――左腕とは、まるで別の生き物みたいに反応が違う。左は押し返してくる弾力がある。右は、押しても押しても底がない。芯が抜け落ちたみたいに、ぐにゃりと沈む。
「……ひっ」
指がある一点に触れた途端、リーゼの背中が跳ねた。痛みじゃない。痛みの手前の、深いところに響く重さ。本人もそれが何かわからず、ただ怯えている。
「今、響いただろ」
「な、なんだ、これは……押されただけなのに、肩の奥まで、ずうんと……」
「焼けた道が、そこで詰まってる証拠だ。ここを通ってる魔力が、行き場をなくして滞ってる。あんたが剣を握れないのは、握る指まで魔力が届いてないからだ」
「やっぱりな」俺は手を引いた。「リーゼさん、だっけ。あんた、治ってないよ」
「……治った。聖女様が、完治だと」
「傷はね。塞がってる。綺麗なもんだ」俺は彼女の右腕を指した。「でも、傷の下を通ってる経絡が焼けてる。回復魔法は外側の傷を塞ぐ。でも、無理に無理を重ねて焼け切れた“巡りの道”までは、塞いだ皮じゃ元に戻らない」
ガレンが眉を寄せた。「……焼けた、経絡」
「魔力焼け、とでも呼べばいい」俺は言葉を選んだ。一度に多くは語らない。語っても、体感が伴わなきゃ伝わらないからだ。「強い魔力を、限界を超えて流し続けると、経絡そのものが焦げる。道が焦げれば、どれだけ才能があっても魔力が末端まで届かない。だから――」
「だから、剣が、振れない……?」
リーゼの声が、震えた。
「そうだ。あんたの才能は枯れてない。道が焼けてるだけだ」
長い沈黙があった。霧が森を撫でる音だけが、やけに大きく聞こえた。
リーゼは唇を噛み、それから絞り出すように言った。「……三月前。竜の群れに、味方が崩れた。私が出力を上げ続ければ、戦線が保つと思った。腕が焼けるような感覚があった。でも、止まれば、みんなが死ぬと思って……」
「無理をして、押し通した」
「ああ。そうしたら、竜は討てた。私は英雄と讃えられた。けれど次の日から、腕が、鉛みたいに重くなって……剣が、持ち上がらなくなった」
「で、聖女に治してもらったら傷は消えて、『完治した、あとは才能の問題だ』と言われた」
「……っ、なぜ、それを」
「同じ顔を、何度も見たからだよ」
俺は前世のことを思い出していた。選手を支える仕事をしていた。限界まで自分を削って戦う連中を、何人も。傷は治る。でも、酷使で焼けた身体の奥は、傷が治っても残る。そして本人だけがそれを抱えたまま、「もう自分は終わった」と思い込んでいく。
完治の診断書を握りしめて、それでも動かない身体に絶望する目。あれを、何度見送ったかわからない。皮膚の傷だけ見て「治った」と言う連中には、その目が一生見えない。
――俺は、その奥を視るのが仕事だった。
そして俺自身は、その奥を視ることに夢中で、自分の身体の奥を一度も視なかった。誰かを支えるたびに自分を削って、休む暇なんてないと笑って、ある朝、立てなくなった。過労で倒れて、そのまま死んだらしい。気がついたら、この世界の、ガレンの庵で寝ていた。手元には、この鍼だけが残っていた。
皮肉な話だ。人を視る目と、人を整える手だけ持って、こんな辺境まで連れてこられた。……まあ、いい。視えてしまった以上、見過ごせないのは、前世から変わらない性分だ。
「リーゼさん」
「……なんだ」
「引退勧告、受けてるんだろ。才能が枯れたから、騎士団を出ろって」
リーゼの肩が、びくりと震えた。図星らしい。「……追放だ。明日には、城を出る。竜騎士の資格も、剥奪される」
「明日?」
「貴様に……何ができる。王都の聖女が治せなかったんだぞ。匙を投げられた女に、辺境の流れ者が、何を――」
俺は立ち上がり、庵の棚から、布に包んだ細長いものを取った。手に馴染んだ重さ。前世から、ずっと持っていた気がするほど馴染んだ、たった一つの道具。
リーゼが、訝しげにそれを見上げる。
「あのな」俺は彼女の前に膝をついた。「回復魔法は、塞ぐ技だ。傷を、なかったことにする。たしかに大した技術だよ。割れた皮膚も、折れた骨も、見る間に元通りだ。でも――速く塞ぎすぎる」
「速く、塞ぐ……?」
「焼けて滞った経絡を、巡りが死んだまま、上から綺麗に蓋をしちまう。塞いだら、そのまま固まる。あんたの腕が鉛みたいに重いのは、焼けた道が蓋をされて固まって、中で巡りが死んでるからだ。傷がないのに動かないのは、当たり前なんだ」
リーゼの瞳が、ゆっくりと揺れた。ずっと「自分の心が弱いせいだ」と言われ続けてきた女の目が、初めて、別の答えを与えられたときの揺れ方だった。
「だ、だったら、もう……」
「巡りが死んでるなら、もう一度、通せばいい」
俺は布をほどいた。中から現れたのは、磨き上げられた銀の鍼。ずらりと並んだそれが、霧の光を受けて、静かに白く光った。
リーゼが息を呑む。「それは……針? まさか、それを、私の身体に――」
「君のそれは、治せる。――力を抜け」
俺は、銀の鍼ケースを開いた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
回復魔法では治らない「魔力焼け」。その奥に、英雄たちは何を隠して戦っているのか――ソウマの針が、ようやく動き出します。
次話・第2話「響くほどに、効いている」では、いよいよリーゼへの施術です。針が入る、あの「ズーン」という響き。痛いのは、効いている証拠。半信半疑のリーゼが、自分の身体の異変に気づく瞬間を、どうか見届けてください。
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