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第18話 整える者にも、限界がある

「あなたの鍼を、受けさせてください」


アガサがそう言って俺に頭を下げたのは、五日前のことだ。


聖女が回復魔法の権威でありながら、辺境の針師に身を委ねた──その話は、王都を一日で駆け巡った。ヘルマンの失墜に続いて、聖女アガサまでが鍼を認めた。回復魔法ハイヒールでは届かない病がある。それを、王都じゅうの人間が、ようやく口に出し始めたのだ。


結果として、治療院には患者の列ができた。


借り受けた医療院の一室。その扉の外に、朝から夕まで、人が並ぶ。傷は塞がったのに身体が重い元騎士。眠れぬ夜を何年も抱えた老兵。出力を絞り続けて枯れた若い魔法使い。みんな、これまで「気の病」「心の弛み」と切り捨てられ、行き場をなくしていた者たちだった。列の隅では、査問のときに養生を始めた老騎士ヴェルナーが、付き添いに支えられて自分の脚で並び、「毎朝、教わったとおりにやっておる」と誇らしげに繰り返していた。


「先生、次の方、入っていただいて、いいですか」


ニーナが扉の隙間から顔をのぞかせる。助手の腕も板についてきたが、その顔にも疲れがにじんでいた。


「ああ。通してくれ」


俺は鍼ケースを開き、銀の鍼を一本選ぶ。何度目の施術かも、もう数えていない。


入ってきたのは、痩せた中年の御者だった。馬を御す手が痺れて、もう何年も握れないという。聖女さまでも、御医長さまでも治らなかった、と肩を落とす。背に手を当て、経絡(けいらく)を読む。焼けの結び目を探り当て、針を置き、押し込む。


「──力を抜け」


ズーン、と地獄の響きが走り、男がのけぞる。やがて力が抜け、痺れていた手が、ゆっくりと開いた。男は手綱を握る仕草を繰り返し、泣いて礼を言い、出ていった。


次。


槍兵だった老人。立つと膝が崩れると言って、杖をついて入ってきた。腰の経絡が古く焼けている。針を通すと、男はおぼつかない足で、それでも自分の脚で歩いて帰っていった。


次。


宮廷魔法使いの若者。出力を絞り続けて枯れた、ニーナと同じ気虚(ききょ)だった。補って巡りを促すと、掌に小さな火が灯り、若者は声を上げて泣いた。


その、次。


施術のたびに、俺は自分の魔力――この世界の言葉でいう気を、ほんの少しずつ、相手の経絡へ分けている。焼けて滞った流れに、自分の巡りをひと筋通して、道をこじ開けてやる。針はあくまで導きの一本で、その先で枯れた経絡を立ち上げ直すのは、俺自身の巡りなのだ。それが、針一本で経絡を導くということの、本当の中身だった。誰にも言っていないが、施術のたびに、俺の巡りは少しずつ削れていく。


一人なら、なんともない。十人でも、まあいい。一晩眠れば、巡りは戻る。


だが、それが何十人と、何日も続けば──戻る間もなく、底が見えてくる。


聖女アガサが倒れたのと、同じことだ。彼女は善意の祈りで気を分け続け、自分が空になっていることに気づかなかった。整える者にも限界がある、休まなければ枯れる、と──俺は彼女にそう説いたはずだった。


その言葉を、俺は、自分には一度も向けていなかった。


「ソウマ」


リーゼだった。用心棒として扉のそばに控えていた彼女が、眉をひそめて俺を見ている。


「お前、昼を食っていないだろう。昨日も、一昨日も。少し休め」


「列が、まだ残ってる」


「列はいつまでも残る。お前が倒れたら、誰がその列を捌くんだ」


「倒れないさ」と俺は笑った。「これくらいで倒れてたら、辺境で野垂れ死んでる」


リーゼは何か言いかけて、口をつぐんだ。誇り高い竜騎士は、引き際を心得ている。だが、その視線は、俺の手元から離れなかった。


正直に言えば、身体は、ずっと前から悲鳴を上げていた。


朝、起きるのがつらい。指先が冷えて、感覚が薄い。針を持つ手が、ほんのわずかに、重い。──そう、これは、いつも患者に俺が問う言葉だ。肩、凝ってませんか。朝、起きるのがつらくありませんか。


その問いの矛先が、いま、自分に向いていた。


笑える話だ。


人の焼けは一目で読めるのに、自分の巡りが削れていくことには、どこまでも無頓着でいられる。


俺は、この感覚を知っている。前世で、嫌というほど。


現代の、まばゆい照明の下。俺は選手たちの身体を整え続けた。試合の前夜も、明け方も、選手が痛みを抱えていれば、何を措いても飛んでいった。お前の身体は鉄でできてるのか、お前は休まないのか、と仲間に呆れられても、俺はいつも笑って答えた。──大丈夫です、まだいけます、と。


整える者が倒れるわけにはいかない。俺が休めば、誰かの痛みがそのぶん長引く。そう思い込んでいた。誰かを支えることが、自分を支えない言い訳になっていた。


その「まだいける」を、何百回繰り返したか。指は冷え、眠りは浅くなり、それでも俺は、自分の身体の声だけは、聞こえないふりをし続けた。


そうして、ある朝、俺は起き上がれなくなった。誰一人整えてやれないまま、布団の中で、ただ天井を見ていた。──あのときの、白い天井を、いまもはっきり覚えている。


「先生」


声に、我に返る。次の患者が、もう施術台に腰かけていた。年若い女性兵だ。剣を握ると右肩から先が痺れる、と訴えている。典型的な労損の焼けだった。


「……ああ、すまない。診せてくれ」


背に手を当てる。経絡を読もうとして――その流れが、いつもより、ずっと遠く感じた。


掌から伝わる相手の巡りが、霧の向こうにあるように、ぼやけている。自分の気が薄くなると、人の経絡を読む目まで鈍るのか。初めての感覚だった。俺は奥歯を噛み、意識を指先に集めた。焼けの結び目を、なんとか探り当てる。


針を、置く。


押し込もうとして――手が、震えた。


「……っ」


押し込んだ瞬間、相手の経絡へ気を通すのではなく、俺自身の巡りが、ずるりと根こそぎ引きずり出されるような感覚に襲われた。井戸の水を汲み上げるはずが、井戸そのものが空だった。底の泥を、無理やり掻き出している。


視界の端が、白く明滅した。


「先生?」


女性兵の声が、遠い。


俺は針から手を離すまいと、必死に指に力を込めた。だめだ。ここで手を抜けば、半端に貫いた経絡が、かえって患者を痛める。最後まで――通し、きる。


「……力を、抜け」


掠れた声で、そう言った。患者にではなく、たぶん、自分に。


地獄の響きが、女性兵の肩を貫く。彼女がのけぞり、やがて、ふっと力を抜く。痺れの取れた腕を、信じられないという顔で動かしている。──成功した。最後の一人を、ちゃんと、整えきった。


よかった。


そう思った瞬間、糸が、切れた。


膝から、力が抜ける。掴むものを探した手が、空をかいた。


ああ、これは。


天井が、ぐるりと回る。床が、ゆっくりと迫ってくる。前世で、最後に見た天井に、よく似ていた。白くて、遠くて、どこまでも静かだった。あのとき俺は、誰も整えてやれずに、自分も整えられずに、ただ消えた。整える者のまま、整えられることを知らずに。


同じだ。何ひとつ、学んでいない。


整える者にも、限界がある。


それを、俺は誰より知っていたはずだ。患者には、いつも言っていた。無理をするな、休め、壊れる前に整えろ、と。


なのに、自分のことだけは、いつも――。


「先生っ!」


ニーナの悲鳴が、白くなっていく意識の、ずっと遠くで響いた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

人を整え続けた者が、ついに自分の限界の前に崩れ落ちました。万能ではない、代償がある──ソウマが患者に説き続けてきたことが、いちばん残酷なかたちで、彼自身に返ってきます。前世で「整える者」のまま倒れた彼が、今度はどうなるのか。

次回「第19話 今度は、私が整える番です」では、倒れたソウマを、ニーナ・リーゼ・アガサが看ます。これまで支えられてきた彼女たちが、今度は支える側へ。関係が、静かに反転します。

面白いと思っていただけたら、ブックマークと評価で背中を押していただけると、巡りがよくなります。次回もどうぞ、力を抜いてお待ちください。


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