第19話 今度は、私が整える番です
意識が、底のほうから浮き上がってくる。
最初に戻ってきたのは、音だった。誰かが、近くで早口に何かを言っている。次に、背中の硬さ。寝台の感触。それから、自分の身体が、鉛を流し込まれたように重いことを、ようやく思い出した。
「先生っ! 目を、目を開けてください!」
ニーナの声だ。掠れて、半分泣いている。
俺は薄く目を開けた。天井の梁が、ぼやけて見える。王都の医療院、その一室。窓の外はもう暗い。さっきまで日が高かったはずなのに、ずいぶん時間が飛んでいる。
「……俺は」
「倒れたんです、施術の途中で! 針を持ったまま、いきなり崩れて……っ」
身を起こそうとして、できなかった。腕に力が入らない。指先が痺れて、自分の手なのに、他人の手みたいに遠い。これは──知っている。前世で、嫌というほど。気虚。枯れ。使い果たした者の、空っぽの身体だ。
人のことなら、一目で看破できるのに。
「……笑えないな」と俺は呟いた。「他人の枯れは、あんなに見えるのに、自分のは、ぎりぎりまで気づかない」
「当たり前です!」
ニーナが、声を荒らげた。卑屈に俯いてばかりだった少女が、いまは真っ赤な目で俺を睨んでいる。
「先生は、ずっとそうです。患者さんの列を、ひとりも断らないで、自分の気を、片っぱしから分けて……。あなたの施術が、自分の魔力を相手に分ける技だって、私、知ってたのに。止められなかった。──だから、今度は、私が止めます」
寝台の脇で、ニーナが鍼ケースを開いた。銀の鍼が、灯りを受けて冷たく光る。彼女の指は、震えていた。
「お、おい。それは──」
「先生に、何度も見せてもらいました。肩甲骨の内側の、巡りの要のツボ。気が枯れたときは、瀉じゃなくて補。深く刺さず、浅く置いて、巡りを呼び戻す。……合ってますよね?」
合っている。怖いくらいに、よく見ている。だが。
「素人が、生兵法でやるもんじゃない。ツボを外せば──」
「外しません」
ニーナが、きっぱりと言った。
「私は、枯れた天才の出来損ないですから。……でも、頭だけは、誰より回るんです。先生が、そう言ってくれた」
返す言葉が、なかった。
俺をうつ伏せにして、ニーナが背に手を当てる。その手つきは、ぎこちない。指の運びは素人そのものだ。けれど、迷いはなかった。彼女は俺の経絡を、見様見真似で、けれど真剣に、読もうとしている。
「……ここ、ですね。すごく、固い」
「リーゼ」と、もうひとつの声がした。「お前は、巡りのほうを頼む。私の手で、温める。お前のほうが、力の加減を知っているだろう」
寝台の反対側に、リーゼがいた。竜騎士の籠手を外し、素手をさらしている。その手が、俺の足の裏に、そっと添えられた。
「ソウマ。お前にいつも言われたな。力を抜け、と。──今は、お前が抜く番だ」
リーゼの掌は、熱かった。竜の血を引く者の、巡りのいい熱。それが足の裏から、ゆっくりと上がってくる。彼女は鍼の理屈なんて知らない。けれど、自分の身体に巡る力を、俺の冷えた足先へ、本能で送り込もうとしている。
「うまく、できているか」とリーゼが訊く。声が、不安げに揺れていた。誇り高い竜乙女が、こんなに自信なさげな顔をするのを、はじめて見た。
「……ああ」と俺は言った。「あったかい。──効いてる」
リーゼの肩から、ふっと力が抜けたのが、背中越しにわかった。
そして、もうひとり。
寝台の枕元に、白い祈りの装束の女が、膝をついていた。アガサだ。倒れたばかりの彼女自身、まだ顔色は冴えない。それでも、両手を組んで、俺の額のうえに、淡い光を灯そうとしている。
「待て」と俺は止めた。「アガサさん、あんたのハイヒールは──塞ぐ技だ。今の俺に外傷を塞いでも、意味がない。むしろ、巡りを止める」
「存じております」
アガサが、静かに微笑んだ。倒れる前の、列を捌いていたときの、張りつめた笑みではなかった。
「わたくしの癒やしは、傷を塞ぐためのもの。──けれど、出力を、ほんの少しだけ絞れば。塞ぐためではなく、ただ、痛みを和らげるためだけに使えば。あなたを、休ませることが、できるのではないかと」
光が、ふわりと額に降りた。
それは、傷を無理やり繋ぐ、あの強引な癒やしの光ではなかった。ずっと弱く、優しい。疲れ果てた身体を、ただ眠りへ誘うような光だ。痛みの角が、丸くなっていく。強張っていた首筋が、ほどけていく。
「あなたに、教えていただいたのです」とアガサが言った。「治すことと、休ませることは、違うのだと。……わたくしは今まで、治すことばかりで、誰ひとり、休ませてこなかった。だから、せめて今だけは。あなたを、休ませたい」
ニーナの鍼が、巡りの結び目を、そっと解く。リーゼの熱が、冷えた末端を、温め直す。アガサの光が、痛みを、眠りへ変えていく。
鍼と、巡りと、祈り。本来なら交わらないはずの三つの技が、いま、俺ひとりを休ませるために、寄り集まっている。
──ああ。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
これは、いつも俺が患者にしてやっていたことだ。けれど、それを「される」のは、はじめてだった。前世でも、今生でも、俺はいつも、する側だった。自分を後回しにして、誰かの身体に手を当て続けて、そうして──気づいたときには、床に倒れていた。
「先生、力、抜けてますか」とニーナが訊く。
「……抜けてる」と俺は答えた。「だいぶ、な」
身体の重さが、少しずつ軽くなっていく。鉛のようだった指先に、じわりと血が通い、痺れが引いていく。枯れて空っぽだった経絡に、三人ぶんの巡りが、おそるおそる、けれど確かに、満ちはじめていた。
俺は、目を閉じた。
自分の限界には、いつも無頓着だった。前世でもそうだ。他人の身体は誰より見えるのに、自分が倒れる寸前だったことには、最期まで気づかなかった。──いや。気づいていて、見ないふりをしていた。休むことは、怠けることだと、どこかで思っていた。
だが。
休ませてもらう、というのは。誰かに身体を預けて、力を抜く、というのは。
こんなにも、温かいものだったのか。
「……ありがとう」
掠れた声で、俺は言った。
三人の手が、一瞬止まり、それからまた、そっと動きはじめた。誰も、何も言わなかった。けれど、その沈黙が、何より雄弁だった。
どれくらい、そうしていただろう。
気づけば、身体の芯に、力が戻っていた。指を握ると、ちゃんと握れる。枯れていた経絡が、満ちている。完全ではない。だが、立てる。
俺は、ゆっくりと身を起こした。
「先生!」とニーナが、ぱっと顔を上げる。
「もう、平気だ」と俺は言った。「お前の鍼、筋がいい。──助手じゃなくて、いずれちゃんと、弟子にしてやらないとな」
ニーナの目から、こらえていた涙が、ぼろりと零れた。
リーゼが、ふんと鼻を鳴らして、けれど目元を赤くしている。アガサは、組んだ手を胸に当てて、心からほっとしたように微笑んでいた。
整える者にも、限界がある。それを、俺は身をもって思い知った。けれど、こうも思う。──ひとりで抱えなくていいんだ、と。塞ぐ者がいて、巡らせる者がいて、整える者がいる。それぞれが、手を寄せ合えば。
そのときだった。
部屋の扉が、控えめに叩かれた。
入ってきたのは、見慣れぬ装束の男だった。王宮の紋章を縫いつけた、上等な外套。使者だ。それも、ただの使者ではない。立ち居振る舞いに、宮廷の中枢の匂いがする。
男は俺の前で、恭しく一礼した。
「治療師ソウマ殿。お加減、いかがか。──このような折に、まことに恐縮ながら」
そして、巻物を、うやうやしく掲げた。
「英雄運用伯オズワルド・レーヴェンツァーン様より、正式の招きにございます。──伯爵閣下が、あなたに、会いたいとおおせです」
部屋の空気が、すっと冷えた。
あの、回廊の影で薄く笑っていた紳士。人を、数で見る目。三人がいっせいに息を呑んだのが、わかった。
俺は、温め直されたばかりの自分の手を、そっと握りしめた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
いつも整える側だったソウマが、今度は整えてもらう番に。ニーナの鍼、リーゼの巡り、アガサの祈り──彼に救われた者たちの手が寄り集まって、ひとりの身体を休ませました。ひとりで抱えなくていい、と気づいたその矢先、ついに王宮から正式の使者が訪れます。
次回「第20話 紳士の影」では、回復魔法と鍼の連携がはじめて成立し、王都の医療が変わりはじめます。そして、人を数えるあの紳士──英雄運用伯オズワルドが、ついに表舞台へ。
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