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第17話 善意という名の無理

アガサ・リントは、祈りの言葉を最後まで言い終えることができなかった。


崩れ落ちる白い身体を、俺はかろうじて受け止めた。腕の中の彼女は、驚くほど軽い。施術の列を一日中さばき続け、ハイヒールを唱え続けた手が、だらりと垂れている。指先が、氷のように冷たかった。


「アガサさん! ──誰か、横になれる場所を!」


医療院の控えの間に運び込み、寝台に寝かせる。リーゼが扉の外で人垣を抑え、ニーナが俺のかたわらに膝をついた。


「先生、聖女さまは……」


「黙って巡りを読ませてくれ」


俺はアガサの手首に指を当て、もう一方の手を彼女の胸の中心に、そっと添えた。掌から、経絡(けいらく)の流れを探る。


──ひどい。


これは、ガウェインの焼けとも、リーゼの竜焼けとも違う。焼けているのではない。涸れているのだ。湧くべきところから魔力が湧かず、井戸の底をさらうように、無理やり残りをかき集めて使い続けた跡がある。ニーナのときに診た気虚(ききょ)と同じ手触り。だがそれより、ずっと深刻だ。


加えて、巡りが逆さに流れている。下りるべきものが頭へ昇り、昇るべきものが沈んでいる。気逆(きぎゃく)だ。枯れきった身体が、最後の力を逆流させて、なんとか立っていた。


「重度の気虚に、気逆が重なってる」と俺は呟いた。「枯れた井戸を、無理にかき回し続けた身体だ。よく今日まで、立っていられたな」


「気虚……ニーナさまの、ときと、同じ……?」


「ああ。だが、ニーナはまだ若かった。この人は──ずっと長く、ずっと多くを、自分から絞り出してきてる」


掌の下で、彼女の巡りが、頼りなく明滅していた。蝋燭が、最後の芯を燃やしながら、それでも消えまいと震えている。そんな手触りだ。人を支えることに身を削って、自分が燃え尽きていることにだけ、気づけない。──気づいたときには、もう遅い。俺は、この手触りを知っている。


そのとき、アガサの睫毛が震えた。薄く目を開ける。焦点の合わない瞳が、天井をさまよい、やがて俺をとらえた。


「……いけません」


掠れた声で、彼女はそう言った。


「まだ……まだ、列が、残っております……あの方々を、癒やして、さしあげないと……」


起き上がろうとした身体が、ぐらりと傾ぐ。俺はその肩を、静かに押し戻した。


「動かないでください。あなたはもう、空っぽだ」


「ですが……わたくしが、休めば……あの方々の傷が……」


「アガサさん」


俺は彼女の目を、まっすぐ見た。


「あなたが今日、ハイヒールで塞いだ傷の人たちのうち、何人が──傷の下で、焼けを抱えているか。考えたことはありますか」


アガサの瞳が、ゆっくりと見開かれた。


控えの間が、しんと静まる。彼女は、何かを言いかけて、口を閉じた。それから、ふたたび天井へ視線を逃がした。


「……気づいて、おりました」


絞り出すような、小さな声だった。


「いいえ。気づかぬ、ふりを、しておりました。傷が塞がれば、皆さま、笑顔でお帰りになります。ありがとうございます、聖女さま、と。──けれど、その方が、しばらくして、また来られる。前より、もっと疲れた顔で。傷を塞いでも塞いでも、その下で、何かが燻り続けている。わたくしは、それを、ずっと……」


彼女の頬を、涙が一筋伝った。


「見ない、ことにして、おりました」


俺は何も言わずに、彼女の言葉を待った。


「先日、あなたが王都で、ガウェイン殿を救われたと聞きました。塞いだ傷の下で焼け続けていたものを、針一本で表に引きずり出した、と。──それを聞いて、わたくしは、恐ろしくなったのです。ああ、わたくしが“治して”きたものは、いったい何だったのか、と」


「アガサさん」


「わたくしは、毎日、祈っておりました。一人でも多くを癒やせますように、と。手を止めることが、罪のように思えて。休むことが、見捨てることのように思えて。──だから、列が伸びれば伸びるほど、嬉しかった。わたくしは、必要とされている、と」


声が、震えた。


「けれど、本当は。わたくしは……治していたつもりで、誰も、休ませて、いなかった。塞ぐことで、あの方々が休むべき時間を、奪っていた。そして……自分自身さえ、ただの一度も、休ませてやらなかったのです」


涙が、こめかみを伝って、白い枕に落ちた。


俺は、しばらく黙っていた。


慰めの言葉は、言わなかった。彼女がいま吐き出しているのは、慰めで蓋をしていいものではない。それは、ずっと自分の中で見ないようにしてきた焼けを、彼女自身が、はじめて表に引きずり出した瞬間だったからだ。針を使わずに、彼女は自分で、それをやってのけた。


誰かのために走り続けて、止まり方を忘れた人間の顔だ。その横顔に、俺は覚えがあった。奥歯を、ぐっと噛んだ。


「あなたの祈りが、間違っていたわけじゃない」


ようやく、俺はそう言った。


「人を救いたいと思う気持ちは、本物だ。それは、否定しない。──ただ、善意ってやつは、ときどき、いちばん始末が悪い。誰にも止められないからだ。あなたは止まれなかった。誰も、あなたに『休め』と言わなかった。あなた自身も含めて」


「……はい」


「傷を塞ぐことは、間違いじゃない。ハイヒールは、立派な技だ。でも、塞いだあとに、整える時間がいる。休ませる時間がいる。それをしないと、傷の下で、焼けはずっと燻り続ける。──あなたの身体が、いまそうなっているみたいに」


アガサが、自分の胸に手を当てた。涸れて、逆流した、その巡りに、はじめて触れるように。


「わたくしの身体は……治せるのでしょうか」


「治せる」と俺は即答した。「ただし、ハイヒールでは無理だ。塞ぐべき傷は、どこにもない。あなたに必要なのは、涸れた井戸に水脈を呼び戻して、逆さに流れた巡りを、元の向きに戻すこと。──それは、塞ぐ技じゃ届かない」


俺は、腰の銀の鍼ケースに、軽く指を触れた。


アガサの視線が、その手元に落ちる。回復魔法の聖女が、これまで「邪法」と呼ばれてきた針を、まじまじと見つめた。


長い、沈黙があった。


やがて彼女は、寝台の上で、ゆっくりと身を起こした。俺が止めようとするのを、首を横に振って制し、乱れた髪のまま、背筋を伸ばす。そして、両手を膝の上で重ね、まっすぐに俺を見た。


その瞳から、もう、迷いは消えていた。


「ソウマ様」


聖女は、深く頭を下げた。


「あなたの鍼を、受けさせてください」


ニーナが、息を呑む気配がした。


回復魔法の使い手が、自ら頭を垂れて、針を乞うている。塞ぐ者が、整える者に、はじめて手を差し伸べた。長いあいだ、ハイヒールと鍼を隔てていた壁に、いま、細いひびが入った音がした。


「肩、凝ってませんか?」


俺がそう言うと、アガサは涙の残る目で、ふっと、力なく微笑んだ。


「……ええ。たぶん、肩どころでは、ないのでしょうね」


「ええ」と俺は鍼ケースを開いた。「肩どころじゃない。──でも、大丈夫です。力を抜いてください。今からあなたを、ちゃんと、休ませてあげる」


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

誰より人を救おうとした聖女アガサが、はじめて自分の限界に向き合い、そして針を乞いました。塞ぐ者と整える者、ふたつの手がようやく歩み寄ります。

けれど──人を整える者にも、限界はあるのです。連日連夜、王都に殺到する患者の列を、いったい誰が支えるのか。

次回「第18話 整える者にも、限界がある」では、その問いが、ソウマ自身に静かに牙をむきます。

面白いと思っていただけたら、ブックマークと評価で背中を押していただけると、巡りがよくなります。次回もどうぞ、力を抜いてお待ちください。


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