第16話 聖女の祈りは届かない
ヘルマンが失墜してからも、俺は王都に留め置かれていた。医療院には「気の病」と切り捨てられてきた者たちが、噂を頼りに毎日のように押し寄せている。査問のときに俺を嘲笑った医官たちも、いまは見立てを書きとめに来る。風向きは、確かに変わりつつあった。
それでも、ひとつだけ胸の底に残ったものがある。あの公開対決の日、回廊の影で愉しげに笑っていた紳士──オズワルドと名乗ったあの男の影は、あれきり見えない。だが、人を数で見るあの目の冷たさだけは、まだ背中のどこかに張りついていた。
「ソウマ。お前に会いたいという者が来ている。聖女さまだ」
帳面を片手にしたリーゼが告げる。声に、めずらしく戸惑いの色があった。回廊の向こうから、白い祭服の女性が静かに歩いてくる。背に流した淡い金の髪が、窓から差す光を受けて淡く輝いていた。足音はほとんどなく、ただ衣擦れの音だけが廊下に流れる。誰が見ても「聖女」と呼びたくなる、清らかな佇まいだった。
女性は俺の前まで来ると、胸の前で両手を組み、深く頭を垂れた。
「お初にお目にかかります。聖教会で癒やしを預かっております、アガサ・リントと申します。針師さまに、わたくしの回復魔法ハイヒールについて、ぜひ教えていただきたく、参りました」
声は澄んで、どこまでも丁寧だった。だが俺は、肩をすくめながら、彼女の祭服の袖から覗く細い手首に目をとめていた。血の気が薄く、爪の色まで青白い。組んだ指先が、こまかく震えている。
「アガサさん。あなた、もう何日も休んでない。立っているだけで、精いっぱいだ」
聖女の頬が、かすかにこわばった。けれどすぐに、淡い微笑みでそれを覆い隠す。図星を指された者の動揺ではなく、自分のことなど取るに足らぬと言いたげな、慣れた微笑だった。
「わたくしのことは、よろしいのです」
やわらかいのに、それ以上踏み込ませない響きがあった。自分を勘定に入れることに、この人は慣れていない。──いや、入れないことに慣れきっている。
「それより、見ていただきたいものが。──どうか、こちらへ」
俺の言葉は、澄んだ祈りの膜に、つるりと弾かれた。最初の会話から、すでに噛み合っていなかった。
◇
連れられたのは、聖教会の施療堂だった。
足を踏み入れた瞬間、俺は息を呑んだ。高い天井から差す光の下、長椅子が幾列にも並び、何十人もの病人が背を丸めて順番を待っている。香の煙がうっすらと立ちのぼり、低い祈りの声と、こらえきれない呻きとが、堂の隅々で混ざりあっていた。包帯を巻いた者、咳き込む者、土気色の顔で虚ろに天を仰ぐ者。列はうねりながら扉の外まで続いていた。聖女ひとりに、これだけの人が縋りついている。それでも誰ひとり苛立つ様子がないのは、この列の先に確かな救いがあると、皆が信じきっているからだろう。
アガサは慣れた足取りで列の先頭へ進み、長椅子に腰かけた老兵に、そっと両手をかざした。
「主の御名のもとに。──どうか、安らぎを」
掌が淡い光に包まれる。祈りの言葉に合わせて光はやわらかく広がり、老兵の土気色だった顔に、じわりと赤みが差した。深く刻まれた皺が、ほどけていく。
見事なものだった。技としては、文句のつけようがない。──だが、俺の目は、その光の下を見ていた。
光が肌の表面を撫でるたび、老兵の経絡を巡る痛みの信号が、すうっと薄れていく。傷が塞がるのではない。痛みそのものが、覆い隠されていくのだ。そして、その温かな光の膜の、ずっと奥。焼けて黒く澱んだ滞りは、ひとつも消えていなかった。むしろ、痛みという蓋をされたぶん、奥でいっそう静かに、深く焦げついていく。──俺は、背筋が冷えるのを感じた。これは、リーゼやガウェインの身体で触れたのと、同じ手触りだ。塞いだ傷の下で、焼けが燻り続けている。
「ああ、聖女さま……楽になりました。これでまた、明日も働けます……」
老兵は何度も頭を下げ、足取り軽く出ていった。痛みを忘れた足取りで。アガサは慈母のような微笑みで見送ると、ほとんど間も置かずに、次の患者へと膝を向ける。その所作には、一片の迷いもなかった。次に呼ばれたのは、まだ年若い兵士だった。彼にも同じ光が注がれ、同じように顔色を取り戻し、同じように頭を下げて去っていく。──だが、俺はその光景に、気づいてしまった。
「アガサさん。いまの老兵、明日また戦に出ますよ」
聖女の手が、止まる。
「あの人はもう、限界だった。経絡が悲鳴をあげてる。でも、あなたが癒やすと痛みが消える。痛みってのは、身体の警告なんだ。消してしまえば本人は気づけない。──気づけないまま、焼けが、もっと深くなる」
「わたくしは、皆さまを楽にして、さしあげているだけで……」
「楽にしている。でも、休ませてはいない」俺は静かに続けた。「あなたが優しいから、誰も『もう休め』と言えない。言わせない。祈りが届きすぎて、みんな立ち止まれなくなってるんだ」
施療堂が、しんと静まりかえった。待ち並ぶ病人たちの視線が集まるなか、アガサは青ざめた顔で立ち尽くしている。
「では……わたくしの癒やしは……間違っていた、のでしょうか……?」
声が、細く揺れていた。
「間違っちゃいない。塞ぐことと、整えること。それが、別の技だってだけだ。あなたは塞ぐ名手だ。傷を治す腕は、本物だよ。でも──」
そこで、俺は言葉を切った。アガサの呼吸が、おかしい。肩で浅く息をつき、指先の震えが、いつのまにか腕全体へと広がっている。額には脂汗が滲んでいた。
思い返せば、兆しはずっと前からあった。俺の前まで歩いてきた、あの音のない足取り。患者にかざした掌の、わずかな揺れ。微笑むたびに、ほんの一拍遅れる目の焦点。──祈ることで身を保っていた者が、祈りを止めた途端、堰を切ったように崩れ始めている。立っていられるのが、不思議なくらいだった。
「あなた、いつから寝てない」
「……三日、ほど……」弱々しく微笑む。「ですが、列は毎日、伸びてゆくのです。わたくしが休めば、その分、苦しむ方が増える……だから、もう少しだけ、と……」
嫌な符合が、音を立てた。人を立たせ続ける聖女自身が、いちばん自分の限界を、善意でねじ伏せている。掌から伝わる気配を読む。これは焼けとは違う、もっと根の深い枯れ──気虚だ。それも、過剰な奉仕で気が逆流しかけている。スカスカに乾いた井戸から、無理やり水を汲み上げ続けたような有り様だった。
「もういい。今日はもう祈るな」俺は鍼ケースに手をかけた。「あなたこそ、いちばん休めてない患者だ」
「いいえ……まだ、皆さまが、お待ちです」
アガサは、ふらりと次の患者へ向き直った。その足元が、危うく泳ぐ。
「わたくしは、大丈夫……主の御名の、もとに──」
かざした掌に、光が灯ろうとして──滲み、揺らいで、ふっと消えた。差し出した手が、行き場をなくして宙を彷徨う。その身体が、糸の切れた人形のように、ゆっくりと傾いだ。
「アガサさん!」
俺が腕を伸ばすより、一瞬、早かった。祈りを紡ぎ終えぬまま、アガサ・リントは、待ち並ぶ病人たちの目の前で、施療堂の冷たい床へと、崩れ落ちた。
ざわめきが広がるなか、俺は床に膝をつき、聖女の細い手首に指を当てた。脈は、糸のように頼りない。──この人を、いちばんに整えなくてはならない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誰よりも優しい聖女アガサ。その善意の祈りが、皮肉にも人を休ませない一因になっていた──そして、いちばん無理をしていたのは、彼女自身でした。痛みを消すことと、整えること。塞ぐことと、休ませること。よく似て、まるで違うふたつの間で、聖女はとうとう倒れてしまいます。
次回「第17話 善意という名の無理」では、倒れたアガサをソウマが診ます。回復魔法の側からの、初めての歩み寄り。善意が陥る無理の正体を、針師の目が解いていきます。
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