第壱章 怪奇ノ館 8
次の日の日曜。
朝、目を覚まして、この見知らぬ部屋がヒナギさんの家の一室だとわかったのは、枕元にこんな書き置きがあったからだ。
『あなたの状態を見た母の判断で、一晩、うちにお泊めしました。目が覚めたら、一階の居間に降りてきてください。あらためて母が、処置をします 氷薙』
要するに、ヒナギさんの家に一泊してしまったわけだが……ぜんぜん浮ついた気分にはなれなかった。
ジッと手を見る……。
やっぱり夢ではなかった。
右手の甲には、黒紫のアザのようなものがくっきりと浮かび、見るのもおぞましい。熱くてパンパンに腫れていて、同じような感触は右肩や背中の右側にもあったが、見て確かめる勇気がない。
昨日、薄れていく意識の中で、お母さんを呼びに走るヒナギさんの声が聞こえた気がしたけど、結局あのまま僕は気を失ってしまい、見知らぬこの部屋で目を覚ますまで、ずっと眠っていたらしい。
まだ少しアタマがクラクラする中、僕はベッドから出て寝巻きから服に着替えた。
書き置きにあった「処置」って、なんだろう……僕の身体に何が起きてるんだろう。
ドアに、あの柊の間のように、お札が貼りつけてある。ドアノブに触れたとたん、右手と肩と背中に激痛が走り、左手でドアを開ける。
階段の手すりにつかまりながら、一歩一歩、足下を確かめるように降りる。
居間のドアの前に立った瞬間、そのドアが開いた。
見知らぬ女性が、満面の笑みをたたえて、立っていた。和服を見事に着こなし、キリッと髪を結い上げた、品のいい女性だ。
「麻人さんね? どうぞ、入って」
案内されるがままに、ソファに腰掛ける。少し鼻にかかった、どこか艶めかしい感じの声だ。
「ちょっと、手を見せてくれる?」
右手を差し出すと、女性は両手でつかみ、手の甲を見たりひっくり返して手のひらを見たりしながら、なにか聞き取れないような独り言をブツブツ言っている。右手は、炭酸水にでも突っ込んだような感じで、少しピリピリする。
「申し訳ないけど、上半身、見せてくれる?」
「はいっ? いや、でも……」
「はいはい、恥ずかしがらない! ヒナギが来る前に、見せてっ」
女性は、否応なしに僕のポロシャツを捲り上げて脱がせた。
「ひぃぃっ!」
女性は、微笑んだまま僕の右肩に顔を近づけ、背後に回って背中を見てからソファに戻った。
「はい、ありがとう。もう、着ていいわよ」
女性は、またブツブツと独りごちてから、歌うような声で言った。
「ヒナギ〜、参番、持ってきてぇ」
はぁい、という声が隣室から聞こえてくる。
やがて、ヒナギさんが大きめの湯呑み茶碗を一つだけ持ってやってきた。
「さ、少しずつ飲んで」
と、女性はヒナギさんから受け取った湯呑みを渡してくれた。
一口飲むと、形容しがたい味がして、一瞬、僕は顔をしかめた。
「不味いでしょう? うふふふ。頑張って飲んでね」
なんとか全部飲み干したのを見計らって、女性が自己紹介をした。
「ヒナギの母の鍔葵です」
「あの……ここの女将です」
ヒナギさんが、彼女の背後から少しだけ身を乗り出して、補足した。ちょっとだけ事務的な臭いがしないでもない。
「さてと、麻人さん……たいへん言いにくいことだけど、結論から言いますよ」
ヒナギさんの方に目を移すと、目を閉じて凝聴している。
「右手に一つ、右肩に二つ、背中の右側に二つ浮かび上がっているアザ……呪詛をもらっちゃったわねぇ」
「ジュソ……って」
「呪いよ」
女将さんは、口元は微笑んだまま、眼だけを鋭くさせた。呪いという言葉よりも、その眼の迫力で、僕は息を呑んだ。
その女将さんの眼が、鋭さを増した。
「……まったく、あんたもエライことをしてくれたねぇ」
「すっ、すみません! 興味本位で、何も考えず……ほんと、すみませんでしたっ!」
平謝りの僕を見かねたのか、ヒナギさんが口を挟む。
「私が、私が……」
言いかけたヒナギさんを、女将さんが手で制する。
「その通りさ、麻人さん。あそこはね、興味本位で近づくところじゃあないんだ。あんた、やっちまったねぇ」
女将は、うなじに手をやりながら、ため息を吐いた。
「先に伝えるべきこと、伝えておかなきゃね。気をしっかり持って、落ち着いて聞くんだよ」
そ、そんな前振りをされたら、落ち着いてなんかいられないんですけど……。
「その、アザみたいなものはね、椿の花みたいな形してるだろう? これからどんどん広がっていくよ。どれぐらいのペースかは、ちょっとまだ読めないけれど、確実に広がっていくと思う。それでさ、全身に広がった頃合いにねぇ……」
ゴクリ、と大きく喉が鳴る。
「あんた、隠魂に乗っ取られるだろうね。オヌモノになっちまうのさ……その前に、気が触れるかもしれない」
「なっ、ななななな……」
「そんだけ、厄介なんだよぉ、あの部屋の主さんは。このての話、信じるも信じないもそりゃ自由だけど……実際にその身体じゃ、信じないってわけにもいかないだろう?」
「あ、それは大丈夫。頼光くんは、素直にそういう話、信じられる人だから」
「なに呑気な声で言ってんだい! そんな素直な人が危ういことになってるって話なんだよ!」
ピシッと水面を叩くような正論に、ヒナギさんは黙り込む。母親には頭が上がらないのだろうか。
「どうしようも、ないんでしょうか……」
答えを聞いてしまったら終わりかも、と思いながらも、尋ねずにはいられなかった。
「あたくしにもわからない、としか言えないね、いまは」
……どっちなんだろう、これ。可能性、あるのかないのか。
「けどね、やれるだけのことはやらせてもらいますよ。自業自得とはいえ、うちで起こったことだ。放ってもおけないからね」
自業自得って……僕だけの責任じゃないと思うんだけど。でもしょうがない、いまはこの人を怒らせるわけにはいかない、よな。
「それであの、やれることっていうのは……」
「麻人さん、あんた、夏休みの間、お世話させていただくことはできるかい?」
「お世話っていうのは……」
「1ヶ月ほど、ここで寝起きしてもらえるかいってことさ」
それはムリだ……本来の僕の特性的には。他人だらけの場所に、それも長期間、同居して暮らすなんてことは、本来ならあり得ない……が……変わり果てた右手を見ていると、もうそうも言っていられない。
実家じゃ帰省すると思ってるはずだが、バイトとかなんとか言えば……納得はするか。
いやいや、でも待てよ、夏休み明けの「実力テスト」! 結果が悪ければ留年だぞ! そうだ、そっちが最優先だろ。夏休み中は集中してテスト対策をやらないと……。
「どうしたんだい? 何か都合がおありかい?」
「はぁ、あの、恥ずかしながら……」
僕は、差し迫った事情を話した。
「ふむ、なるほどねぇ。留年になるかどうかって瀬戸際じゃあ、夏休みが勝負だよねぇ。けど麻人さん、失礼だけどさ、今の話じゃ、あんた一人で勉強なんかできるのかい? 勉強のやりようもわからないんじゃないのかい?」
「ごもっともです……ほんと、お恥ずかしい……」
「ヒナギ、あんた見てあげたらどうだい?」
「私は、構わないけれど……」
マジで? 学年上位のヒナギさんなら、めちゃめちゃ心強いぞ!
「じゃあ麻人さん、1ヶ月ここで試験対策の合宿も兼ねるってのはどうだい?」
「そっ、それは、とってもありがたいです……けど……」
「よし、それでいこう。ヒナギ、しっかり責任をもって教えておやり」
「わかりました」
「お願いしますっ!」
「よしっ、じゃあそうしておくれな。来週末から夏休みだったね? 麻人さん、ご面倒だけど、必要な荷物だけ持って来てくれるかい」
「わ、わかりました……あの、ご厄介をおかけします」
「あらあら、ほんとにもう、いい子じゃないか。ヒナギ! しっかりお世話するんだよ!」
「はい……」
わずかに眉間に皺が寄るのを、僕は見逃さなかった。厄介ごとを押しつけられて不本意なのかとも思ったが、ヒナギさんはその直後に、チラッと女将さんを一瞥した。やっぱり、母親のことがニガテなんだな。
「あたくしの処置は、少々しんどいこともあるだろうけど、しっかりやらせてもらうからね」
「あ、はいっ……お願いします!」
いろいろと慮ることはあるけれど、その一つ一つを気にする余裕は、いまの僕にはない。とにかくワラにもすがる思いで女将さんにすがるしかないんだ。
かくして、1ヶ月の皆既亭翠屋……いや、あんなトンデモない異形が棲みついてるんじゃ、やっぱり「怪奇館」か……そこでの生活が始まることとなった。




