第弐章 長ヒ夏休ミ §【夏休み1日目】その1
*▶︎▶︎pers.ASATO
あれから例の身体の右側の異変は、おさまるどころか、少しずつ悪化しているように思う。
実は、念のため医者にも診てもらったりもしたが、医者はしきりに首をひねった挙句、僕のアレルギー体質を持ち出して、何かのウィルスのようなものに過剰反応したのかもねぇとか、詳しくはもう少し経過を見てみないとわからないなぁとか……要するによくわからん、ということがわかっただけだった。失意もなにもない。予想通りの結果だ。
結局のところ、人がニガテとか他人の家で暮らすのに抵抗があるとか言ってる場合ではなく、もう否応なしに選択肢は決まってしまっている。
というわけで、夏休み初日。
僕はいま、廻邸の玄関の前で、呼び鈴に指を近づけたり離したりしている。
あ、そうそう、今回は旅館の中を通ってではなく、直接ここに来た。前回、なぜわざわざ旅館を経由して来たのか、よく理解できた。この邸宅、恐ろしく敷地が広く、門のある場所が旅館の入り口からかなり離れた場所にあるのだ。最寄りのバス停からも相当距離があるから、初回訪問のときにいきなりその門を見つけるのは、ちょっと困難だ。
しかも、門をくぐると、また次の門……結局、門だけで5つもあった。どれも、重厚なものばかり。なんでこんなに厳重なのかっていうぐらい。
5つ目の門を抜けても、クネクネと折り曲がる道がしばらく続き、本当にこの道でいいのだろうかと心細くなったあたりで、やっと見覚えのあるお屋敷が見えてきた。ほんと、どんだけ広いんだろう。
……などと現実逃避もそろそろツラくなってきたので、心を決めて、呼び鈴を押す。
ぜんぜん知らない人が出てきたらイヤだなとか、そういえばお父さんってまだ見たことなかったなとか、不穏な思考が一人歩きし始めたところで、ドアが開いた。
「待っていたわ、頼光くん」
よかったぁ、ヒナギさんが出てくれた。
「あら、荷物、それだけ?」
僕は、少し大きめのリュックをヒナギさんの方に向けて見せる。
「男の子って、そんなものなのかしらね。お化粧品とかもないものね」
ヒナギさん、今日は黒いノースリーブのワンピースだ。私服は初めて見たけど、全身黒ずくめだから、いつもの制服とそんなに大差はないかも。
けど、やっぱり……スタイルいいなぁ。露出した腕が、超長い!
「聞いてる?」
「あ、すみません。聞いてませんでした」
ヒナギさんは、小さなため息をついた。
「……私だからいいけど、女将の話は聞き逃しちゃダメよ。あの人、そういうの嫌いだから」
ゴクリ、と緊張ごと唾を呑み込む。たしかに、そういうの、厳しそうかも。
案内されるまま2階に昇り、長い廊下を突き当たった部屋の前で立ち止まる。
「ここが、あなたの部屋よ」
ヒナギさんは開錠してドアを開け、シーリングライトのスイッチを入れた。
「部屋は、自由に使っていいわ。お布団は新しくしておいたわよ。そっちの壁がクローゼットになっているから、着替えとかはそこにしまってね」
ここが、1ヶ月の僕の寝起きする場所か。ベッドと机だけの、簡素な洋間。そういえば、ヒナギさんの部屋も洋間だったな。2階の部屋は洋風に改装してるのだろうか。
「ありがとう……ございます」
「女将は、あと30分ぐらいでこっちに来るから、私が呼びに来るまでゆっくりしていて」
そう言い残して、ヒナギさんは1階へ降りて行った。
リュックをクローゼットに置き、ベッドに腰掛け、部屋を見回してみる。
あらためて見てみると、かなり広い。僕の住むアパートが6畳だから、10畳ぐらいはあるかも。ただ、あまり新しくはないな。床や壁の木材に、ところどころ傷がある。いや、けっこう傷、多いな。細かい傷が至る所に……ドア近くの床と壁には、傷が密集してる。動物でも飼っていたのかもしれない。
窓には分厚いカーテンが掛かっている。開けてみると、一気に部屋が明るくなった。やはり遮光カーテンか。
「あ……」
窓の外側に、柵がついている。これって、逃げられないようになっているとか……。まさかね、ホラー小説の読み過ぎだって。
「そっか、そっか!」
ここ、きっと子供部屋だったんだ。
歳の離れた従兄弟の家で、これと同じようなものを見たことがある。小さな子が誤って落下しないよう配慮したものだ。窓を開けると、気持ちのいいそよ風が入ってきた。
「もしかして、ヒナギさんの幼少期、ここで……」
照明を消しながら思わず想像してしまった。あのまま、前髪ぱっつんのまま小さくしたヒナギさんの幼児姿。この部屋で床に座り、おママゴトか何かで遊ぶ姿。彼女のことだ、きっと夢中になって……。一人娘って言ってたから、箱入り状態で大切に育てられたんだろうな。
しばらくの間、ほっこりと妄想に耽っていると、ドアをノックする音がした。
「頼光くん、入ってもいい?」
「はい、どうぞ」
……なんか、いいな。同居してるって感じで。
「あ、勝手に窓、開けちゃいました」
「ああ、いいわよそんなこと、わざわざ断らなくても。前もって開けて換気しておけばよかったわね、ごめんなさい」
「いえいえ……」
僕は、窓の柵を指差して言った。
「ここって、子供部屋だったんですか?」
「あ……そうよ。私が小さい頃、使っていたの」
「やっぱり! そんな気がしてました」
「ちょっと古い部屋だけど、気にならない?」
「ぜんぜん! むしろすみません、そんな大切な部屋を」
ヒナギさんは、フッと笑いながら首を振る。
「何か足りない物があれば遠慮なく言ってね?」
じゃあ女将が来たので、とヒナギさんは僕を促すと廊下に出て階段まで先導し、階段を降りる手前でいったん立ち止まる。
「ここが私の部屋ね。前に入ってもらったからわかるわよね?」
「はい、覚えてます」
「何かあったら、ノックしてね」
いいなぁ、同居してるって感じだ!
居間では、女将さんがちょうど隣室から、水の入ったグラスを3つ並べたお盆を持って入ってきたところだった。今日も見事な着物姿だ。
「麻人さん、よく来てくれたわね。ちょっと一緒に来てくれるかしら」
僕はまず女将さんに連れられて、別室に案内された。
居間がそのまま5、6個は収まるんじゃないかってぐらいで、向こう端がよく見えない。部屋が薄暗いせいもあるが、明らかに異様な広さのためだ。
近づくにつれ、床の間と思しき場所に掛けてある……掛け軸じゃないな、暖簾? 何やら深緑色の大きな布が掛かっていて、中心に白抜きで家紋が描かれている。家紋の下にはこれも白抜きで「皆既亭翠屋」の文字。やっぱり暖簾っぽいな。
その床の間の上に、大きな神棚がある。中央にある鏡が漆黒で、ちょっと驚いた。神棚の真っ黒い鏡って、なかなかすごい存在感だな……。
女将さんは僕と並んで神棚の下に立ち、「あたくしと同じようにしてくださいな」と言って、二礼四拍手一礼をした。最後の一礼は長く、僕はうっかり頭を上げてしまってから慌てて礼をし直した。
居間に戻ると、女将さんは僕にソファをすすめてから、ソファに浅く腰を下ろした。ソファの横には、大きな姿見鏡が置いてある。
「で、どうかしら? アザの様子は」
僕の手を取り、甲を見る。
「また……少し濃くなったような気がします」
「ヒナギ、今日はね伍番、持ってきてくれる?」
ヒナギさんは、機敏に隣室へ駆け込む。
「さ、今のうちに、肩と背中を見せてちょうだい」
きっとそんなことだろうと思い、今日は脱ぎ着のしやすいTシャツにしてきた。これならいちいち脱がなくても、捲り上げるだけで済む。
「ふぅん、ご覧なさいな麻人さん」
僕に、姿見を見るよう促す。
「見たくはないだろうけどね。けどご覧よ、こっちの方は前からあんまし変わってないようだねぇ」
女将さんが、肩、背中と軽く手で触れる。
「熱気の方は落ち着いてるかい?」
「そうですね、ここ数日は、あまり熱くはないです」
「いいよ、Tシャツ、下ろしてくださいな」
女将さんは、軽く顎に指を添えて思案してから、コクリとうなずいた。
「よし、まずその手から、やっちまおうかね」
ヒナギさんが戻ってきた。
「さ、麻人さん、その湯呑みの煎じ薬、一息に飲んでおくれ」
僕は息を吸い込んでから、一気に飲み干す。
「おやまぁ、上手になったこと」
僕は、渋顔で答える。
「味がする前に、飲みきってしまおうかなと……」
でも、後味が凄い。
「いいねぇ、そういう前向きなの、あたくしは好きよ」
今回は、すぐに胃の辺りが熱くなってきた。代わりに、アザのある辺りがひんやりする。一体どんな薬なんだろう。
「麻人さん、こっちに右半身を向けて、そのソファに横になってくれるかい」
言われる通りにすると、足首の先が少し余ってソファから飛び出した。
女将さんは、シュシュッと手際よくタスキ掛けをする。なんか、カッコいいな。
「麻人さん、少しの間、目をつむってておくれ」
言われるがままにする。
「いいかい麻人さん、絶対に目を開けるんじゃないよ。ヒナギ、暴れたらしっかり抑えるんだ」
え? 暴れるって……えっ?
女将さんの両手で右手を挟まれた感触がした瞬間——
「くっっ……」
手の甲をなにかに突き刺されたような激痛が走る。必死で目を開けたいのをこらえる。代わりに自分でも驚くほどの悲鳴をあげる。
「っっくぁあああああああああああああっっ! ちょっ……なにを……ったああああああっ!」
手を振り払おうとするのを、たぶんヒナギさんだろう、力ずくで押さえ込まれる。凄い力だ。
「なっっ! なんだこれっ! くぅうううあああああああっ!」
激痛がする場所が焼けるように熱い……。胃の辺りもまた熱くなって……手の甲は氷でも載せられたように冷えていく。
これを何度か繰り返すうちに、痛みが和らいできた。
「麻人さん、目、開けていいよ」
すぐ近くにヒナギさんの顔。
「わわわっ!」
「ヒナギ、あんたももういいよ。手ぇ離しておやり」
女将さんが、僕の手を取ってアザを凝視する。
「……どうだい? 痛みとか、むくみは?」
「痛みは、落ち着いています。むくみも、少し楽になったような……ああ、でもまだズキズキします」
刺されたような傷はない。何だったんだ、あの鋭い痛みは……。
「ふん、あと3回ってところか」
えええっ? アレをまだ……さ、3回もやるの? 女将さんは、タスキを締め直す。
「いやっ、ちょっと……ちょっと待っ……」
「目、つむって。開けると、あんな痛みじゃないからねっ」
ギュゥッと固く目を閉じる。ヒナギさんは、さっきよりもずっと要領よく押さえつけてきた。
「ギャアアアアアアアアアアアアッ!」
ケダモノみたいな自分の声は、きっと家のはるか外まで達していたに違いない。




