第壱章 怪奇ノ館 5
「さて、と頼光くん。ここはね、当館でずっと『修繕中』としてある部屋なの」
離れから移動して、僕たちは皆既亭翠屋の別館二階にある「柊の間」の前にいる。
「ああ、リニューアルとか……ん? いま、『ずっと』って言いました?」
「ええ。かれこれ10年ぐらい、かしら」
「あのぅ、それってつまり……」
「まぁ、いわゆる『あかずの間』ということね」
なるほど、さっき「出る」って言ってたのは、ここのことなんだな。
「あかずの間って……旅館とかホテルにありがちな話だけど、ここはどんなイワクがあるんですか?」
ヒナギさんは、ニヤリと嗤い、目を細めた。
「たいした話じゃないわ。よくある噂話よ、フッフッフッ……」
ちょっと……この部屋より、あなたが怖いんですけど。
「……で、なにが……出るんですか?」
「噂だと……若い女性の幽霊みたいな、もの?」
「あ、ヒナギさん自身は……見ていないってことですか?」
「私も、うちのスタッフたちも、直接は見ていないわ」
「じゃあ、宿泊客が見たと……」
「そういう話も……あるとかないとか」
なんだかずいぶん曖昧な話だなぁ。
「まぁちょっと仔細あって、10年ほど前から『あかずの間』ということにしてあるの。詳しいところは、いまは敢えて伏せておきます。検証のために、あなたに事前情報は与えないでおきたいの」
「はぁ……」
「じゃあ、まず、いま何か感じることはある? 前にあなたが言っていた、皮膚がザワつくとか、ピリピリするとか……」
「いえ、特にはなにも」
「気分が暗くなるとか、どんよりするということも、ない?」
「ないです。いたってフツーです」
「わかった。じゃ、部屋……開けるわね」
ヒナギさんは、意外なほど躊躇なく解錠すると、引き戸を開けた。戸がすっかり渋くなってしまっており、止まっては渾身の力で少しずつ動く……という感じで、しまいには、僕も手伝ってようやく開き切ることができた。
——カビの臭いがした。戸の内側に、おびただしい数のお札が貼ってある。色褪せてよく判別できないが、きっと結界を張るための呪符か何かなのだろう。半信半疑という割には、すごい量のお札だな。
ヒナギさんが、僕の方を見て指示を出す。
「ここからは、あなたが先導してちょうだい。襖、開けてくれる?」
框でスリッパを脱ぎ、障子に手をかける。障子にも、大きな呪符が貼りつけてある。この向こうが、「出る」といわれている室内だ。僕は、お守りを握りしめた。
——どうも、気が乗らなかった。
框に入ったあたりから。
皮膚がピリつくとか、心の中に黒いタールが現れるとか、そういうことは一切なかった。
——そんな程度の話じゃなかったんだ。
僕は知らなかった。
本当にヤバいモノが近づいたとき、どんな感覚なのかってことを。
手を離して、すぐここから離れたい——そう思ったときはもう、遅かった。
「どうしたの? 早く襖を開けて……頼光……くん?」
襖に手をかけたまま固まっている僕の様子が普通ではないことに、ヒナギさんも気づいたようだった。
全身が抵抗していた。
——開ケテハナラヌ、と。
額から脂汗が垂れるのがわかった。頭を支えるのが辛いほど、首がガクガクと震えていた。
つ、伝えなくては——。
僕は、渾身の力を込めて口をひらく。
「ヒ……ナギ……さん……だめ……だ……ここ……だめだ」
恐怖なんて言葉じゃ済まない、もっと奥深いところから走る悪寒が、ぜ、全身の神経を逆撫でする。
目を、閉じる。
襖の向こうが……開けてもいないその部屋の中が、頭の中で見えている。
「…………っっっ!」
悲鳴も出ない。
部屋の空間すべてを占める大きさの……首。
お、女の首。
巨大な女の首。それが……
まなこを、見開いて——
「うっああっ! あああああああああああああああああああああっ!」
自分の叫び声が、何倍にもなって返ってくる。真っ黒な闇の中の谺のように。
「よっ、頼光くんっ!」
「あああっ……ああああ……ああああああああああ……」
さらに叫び声は大きくなり、また増幅されて戻ってくる。頭の中で鳴り響く。無限の反響。
意識が、遠くなる。
気がつくと、僕は髪を掻きむしりながら廊下を転げ回っていた。
「ああっ……あっ……あっ……ぅぅううううう」
声を出さないとおかしくなりそうだった。声を絞り出すことでギリギリ正気を保っていた。
「頼光くんっ! 頼光くんっ!」
い、息をしなければ……息を……。
温度を、感じることができた。
温かい……体温だけが、しっかり感じられた。
——助かったかも、しれない。
僕は、ヒナギさんに、固く、固く、抱きしめられていた。




