第壱章 怪奇ノ館 3
土曜日。AM9:50。
駅から出ているバスに30分ほど揺られ、停留所を降りてからまた20分ほど歩いてたどり着いた皆既亭翠屋の前。
7月中旬の暑気の下、僕はもう10分以上もウロウロしている。
(やっぱり、凄まじいな……めちゃくちゃ入りにくいぞ)
ストリートビューの写真で見るよりも、リアルなその建物は迫力というか凄味というか、異常な存在感で迫ってくる。
実物を目にするのは初めてだけど……いろいろと話では聞いている。
——あそこは実はもう誰も住んでいない廃墟だ。
——毎夜毎夜、幽霊やら妖怪やらが集まって宴をしている。
——亡霊に取り憑かれた者が呼び寄せられ、二度と戻ってこない。
——それを5秒以上直視すると、呪われて気が狂ってしまう。
などなど、まぁろくな評判がない。
けど、こうして目の当たりにすると、どの評判もかすんでしまうほど、実物はインパクトがある……。
(もしかして、ダマされてるんじゃなかろうか? 廻さんはどこかに潜んでいて、まんまと僕がダマされて廃墟に入っていくのを、笑いを堪えながら見ているんじゃなかろうか? )
そんなこともアタマをよぎる。
でも、その一方で、あの喫茶店での彼女の様子も鮮明に残っている。
なりふり構わず夢中になって話す表情。
僕の言葉を待っている時の、ワクワクした顔。
ときおり見せてくれた、とってもキレイな笑顔。
僕は、心を決めた。彼女を、信じると。
正直なところ、僕はヒトっていうものが好きじゃない。ヒトは裏切るし、平気で心無いことをするし、欲まみれで、群がるとその場の空気を汚す。異形の方がまだ気がラクだ。
もちろん僕だってヒトだから、自分を棚に上げてのことだ。棚に上げなきゃ、そんなことなんて言えない。
とにかく、僕は、ヒトが苦手なんだ。
それでも、廻さんのことは、別だ。
彼女のことは、僕は信じることに決めた。
うまく整理できないけど……彼女のことを手放しで信じると、なにやらこれまで感じたことのない感情で満たされるんだ。力がみなぎるというのか、自信があふれてくるというのか……。とにかく、さまざまなマイナスの可能性なんかどうでもいいぐらい、彼女を信じることが、気持ちよくてならないんだ。陰キャの僕にも、こんな晴れやかな感情があったとは驚きだ。
「よしっ、行くか」
敷地に一歩踏み込むと、まるでそこに境目でもあるかのように、ひんやりとした空気に変わった。
扉の前で立ち止まって、見上げると、案外立派な作りになっていることに気づく。和洋折衷というのか、古いけど、なかなかに贅を尽くした建築に思える。遠くから見ていたときとは別のものを見てるような、奇妙な感覚。
引き戸をガラガラと開ける。なんの引っかかりもなく、実にスムーズだ。
「あ……」
そこに、廻さんが立っていた。
「来る頃だと思っていたわ」
僕は、言葉を発するのを忘れて、少しの間ポカンとしていた。
廻さんの和服姿に、目を奪われてしまったのだ。
黒い、なんという生地なのか知らないけど、めちゃくちゃ高そうな着物に、銀色の、これもまた超高価な感じの帯。髪は結っておらずいつものパッツンお姫さまカットだけど、それが妙にハマっている。
「あ、びっくりしちゃったかな。これでも一応、若女将なので。今日は夕方からお仕事だから、こんな姿なの……」
「はぁ、なんか……すごいや」
「あれっ? 私、何か変?」
着付け具合とか髪型とかを確かめる廻さん。
「いえっ! ぜんぜん! と、ととてもいいですっ、き、キレイです……」
廻さんは目を丸くしてうつむきながら、髪をクルクル弄ぶ。
「……ばか。そういうこと……面と向かって言わないでよ」
「あああ〜っ! すっ、すみませんっ! 他意はありません!」
「いいわよ……もう……上がって?」
しゃがんでスリッパを揃えてくれた。ホントに旅館の女将みたいだ。
「し、失礼します……」
あらためてロビーを見渡す。外観からは想像もできないほど、立派だ。いや、立派どころじゃない。これ、どう見たって高級な老舗旅館だ。
「すごいですね、廻さん。こんな立派な旅館の若女将だったとは……」
「ありがとう、素直に受け取っておくわ」
「若女将ってことは、跡取り娘なんですか?」
「私、一人娘だから……」
廻さんに導かれるまま、廊下を進む。
「私たち家族が住むのは旅館に隣接した敷地にあるの。少し歩くわよ」
ヒタヒタと、足袋が床に触れる音。着物の衣擦れの音。先導する後ろ姿を見ていると、ここの宿泊客になったような幻想に引っ張られそうになる。
お香のようないい匂いにスンスンと鼻を鳴らしていると、廻さんは振り向いて袂から小さな袋を取り出してみせた。
「匂い袋よ。伽羅と白檀がブレンドされたものだけど、大丈夫? 苦手ではない?」
「とってもいい香りです」
「そう、よかった」
広い中庭に面している長い廊下に出た。いや、中庭というにはあまりに広大な……。思わず立ち止まって覗き込む。
「……あ、気になるの?」
「いや、広いなぁって……」
「この中庭、裏山に直結しているのよ。あっちの方、小高い山になっているでしょう?」
たしかに。鬱蒼とした木々に覆われた小高い山が続いている。
「あの小山の向こうにも、また山があるけど……どこまでが敷地なの?」
「ああ、全部よ」
「……ぜ、全部?」
「ここから見えている山は、全部うちの土地です」
どんだけ広大なんだ! っていうか、ここら辺りって、あんなにいくつも緑豊かな山があったっけ……。
「出雲はね、少し都市部から離れると、まだまだこういう場所がいっぱいあるから……」
そりゃそうかもしれないけど。僕もほぼ都市部から出たことはないけど……。それにしてもすごいな、ここ。
何度か長い廊下を折れ、また長い廊下が続き、だんだん自分がどの辺りにいるのかわからなくなってきた頃、やっと勝手口のような扉が見えてきた。
「あそこをくぐれば、もうすぐだから」
扉を抜けると、一面芝生が敷き詰められた、ちょっとした公園ぐらいの開けた一画に出た。廻さんと僕は、サンダルを履いて芝生を進み、大きな屋敷の前で立ち止まった。
「なんていうか……先祖代々住んでる豪農屋敷……みたいですね」
「あはは……そんなご立派なものじゃないってば。便宜上『本屋敷』って呼んではいるけれど、ただの古い一軒家よ」
いやいやいや、もうこれ時代劇に出てくるレベルでしょ。一体どうなってるんだ? どう考えても、あの「怪奇館」の古色蒼然とした外観から想像できる次元じゃないぞ。
玄関でサンダルを脱ぎ、案内されるままに居間へ。
「ちょっと待っていてくれる? お茶を淹れてくるから、ソファで楽にしていてね」
肌触りのいいアンティーク調のソファに腰を下ろし、あらためて室内を見回す。
僕のアパートの六畳間だから……それ何個分だ? ワケわからんぐらいの広さだ。和洋折衷のような造りで、余計なものが置いていないから余計に広く感じる。無垢の木材からほのかに木の香りが漂ってくる。
「これで私宅って……」
ソファセットに囲まれたテーブルも、巨木をスライスしたような一枚板の立派なものだ。天井も高くて、大きな梁が何本も交差している。余計なお世話だけど、冷暖房も大変だろうな。
廻さんが、お盆にティーセットを載せて戻ってきた。洋菓子もある。
「どうぞ、遠慮しないでね」
ハーブティーの香りが鼻腔を刺激する。
「うちで採れた茶葉だから、新鮮よ」
「うちで採れたって……」
「農園があるから。お客様にお出しするお野菜も、そこで採っているのよ」
だんだん慣れてきた、この非常識な規模に。
「するとやっぱり、温泉とかも……」
「ええ。源泉掛け流しの大浴場と、露天エリアがあるわ」
「露天……エリア? エリアって言った?」
「うちの山で小さいのを一つ拓いてね、何ヶ所か掘って露天風呂にしているの。それとは別に、別館にも貸切の露天風呂があります」
これ、もう普通じゃ泊まれないレベルの宿でしょ。紹介とか会員とかじゃないと入れないんじゃないの? 誰だ、怪奇館とか言ってたヤツ……。
「どうしたの? 考え込んじゃって」
「い、いや、なんだか想像してたより……」
「フフフ……」
廻さんは、着物がはだけないよう浅くソファに腰掛けながら、ハーブティの入ったカップを両手で持っている。
「怪奇館って評判と、ずいぶん違っていたかしら?」
「いや、そんな……」
「気をつかわなくていいわよ。長いこと営業していると、それはそれはいろんな評判も立つでしょうから」
「どれぐらい長いの?」
「700年ぐらい、かな。記録が残っているだけで、だけど」
「な、700年!」
「私で25代目よ」
「……恐れ入りました」
「どういたしまして。ただね……あながち怪奇館っていう評判も、間違っているとは言えないかも」
「ハハハ、それ、かなり無理のある謙遜じゃないですか? どう見てもそんなんじゃないでしょう。たしかに遠目からの外観はちょっと怖い感じもありましたが、近づいてよく見れば立派な和洋折衷建築だし、内部を見ちゃったらもう……」
「そうじゃなくて、ね」
廻さんは、少し表情を曇らせてから、僕の目をまっすぐに見た。
「出るのよ、うちの旅館」
「…………出る?」
僕は、すぐにその意味を察し、ゆっくりティーカップをテーブルに置いた。




