第壱章 怪奇ノ館 1
お読みくださり、ありがとうございます! 本編スタートです。
駅のホームから、湖を、眺めている。
眺めるというより、もうすぐそこまで湖が迫っている。
ジッと見ていると、まるで湖に浮かんでいるような錯覚に陥る。
朝日が昇ってきた。
海のように広大な宍道湖は、一面、黄金色に輝き始める。7月の梅雨明けの空が、どんどん爽やかな青さを増していく。
この、氣のいい光景をそのまま体内に入れるように、深呼吸する。
今日は、とても気分がいい。
——この調子なら、大丈夫だ、きっと。
もう一度、深呼吸をして全身を伸ばす。
改札を出る。
ここから学校まで、徒歩10分ほど。
ぶらぶら歩きながら、さっきの宍道湖の光景を思い出す。
今日は、大丈夫だ……たぶん。
調子が悪い日は、あの湖が恐ろしく感じる。
宍道湖の水深は4メートルから最深でも6メートルほど。あの大きさに比べればとても浅い湖なのだが、調子が悪い日は、それが水深何千メートルもの海みたいに感じられる。
僕は、そういう海が怖い。
大きくて深い海が、怖くてならない。
何百、何千メートルも足がつかないことが、たまらなく恐ろしい。
想像しただけで、体がすくんでしまう。
でも、想像してしまう。
……まずい、そんなことを考えていると、また気分が黒いタールみたいになって、引っ張り込まれてしまう。
もう一度、深呼吸する。
青い空を眺める。
空も、あまり見すぎてはいけない。
空は空で、怖い。
出雲はその名の通り雲が多い土地だが、空全体が雲で覆われている状態が多いから助かる。その状態は要するに、そういう色の天井、という感じで済ませることができるから。
怖いのは、たとえば積乱雲だ。
とにかく巨大なのだ。
地上500メートルぐらいから、その高さは16キロメートルぐらいまで達することがあると知ったとき、気絶しそうになった。
それが雷雲となったときの、あの獰悪な黒い姿といったら……発狂しそうなほど怖い。
ダメだ。怖いものは、忘れたいと切望する心に反して、どんどん想像してしまう。
今日は大丈夫だと思ったのに……だめかも。
窓ガラスに雨粒が点々と貼りつくみたいに、恐ろしい夕立の大粒の水滴みたいに……真っ黒いタールのようなものが、次々と心の窓ガラスに衝突し、つぶれ、したたり落ちていく。
ポツッ。
ポツポツッ……。
……ポツポツポツポツポツポツッツ!
やがて、一面真っ黒く塗り尽くされ、立体的になり、心の空間を埋めていく。
これ……また、ハマったかも。
こういう状態の僕からは、たぶん「戦慄の周波数」みたいなものが発振されていて、その周波数に共振するモノを、呼び寄せる。
僕は怖くて、思わずポケットに手を突っ込んだ。ものごころついたときから持っている、小さな錦のお守り袋を握る。誰に持たされたかも覚えておらず、効き目があるって実感もないけど、まぁ精神安定剤みたいなものだ。
ぬううっ、と、黒い顔が、僕を覗き込む。
目の辺りが、真っ黒く窪んでいる。まるで幼児が下手くそにクレヨンで塗りつぶしたように。
反対側からも、濡れたような乱れ髪のベッタリと貼りついた顔が、ぬぅっと現れた。こいつらは、僕にその姿が見えていることを知ると、次から次へと寄ってくる。特に、この辺りの場所で寄ってくるヤツらは、いつも同じ連中で、変な言い方だけど……顔見知り……みたいなものだ。
今度は、上から。黒髪の中で爛々と輝く目と、目が合ってしまった。こいつにも見覚えがある。向こうもそう思っているのか、歪んだ顔をさらに歪めて、嗤っているようにも見える。
3体の異形にまとわりつかれている自分の姿を想像して、僕は、どんどん気分が悪くなる。
ここまで捕まってしまうともうしばらくは離れてはもらえない……はずなのだが——
スゥッ……と、3体同時に僕の視界から消えてしまった。何かに引き剥がされたかのように。
「……えっ?」
振り返ると、そこにはもう異形の姿はなく、代わりに一人の女子生徒が立っていた。
「廻……さん?」
クラスメイトの、廻さん。たしか下の名はヒナギ……だったかな。
おそらく学校中で、彼女を知らない人はいないだろう。
彼女の姿を目にして、振り返らない人はいないだろう。
胸元まで真っ直ぐに伸び、ツヤツヤした黒髪。
ぱっつんと切り揃えられた前髪の下からのぞく、大きな漆黒の瞳。
制服のミニスカートからスラリと伸びた脚は、黒いストッキングのせいで引き締まって見える。
男子だけじゃなく女子にとっても憧れの的である廻さんと、こんな近距離で向き合うなんて……入学してから3ヶ月以上経つが、初めてだ。
僕とあまり変わらない身長だってことも、初めて知った。
(顔、小っちゃいなぁ。8頭身、いや、9頭身はあるんじゃ……)
そもそも、こんなにじっくり見ることだって、なかった。
文字通り「高嶺の花」で近寄りがたいということもあるけれど、僕はクラスでも存在感が薄く、生来の霊感体質のせいで欠席しがちだし、欠席したって気づかれないぐらいだし、とてもじゃないが眩しすぎてまともに見られないから。見たってしょうがないから……。
「頼光くん……頼光麻人くん……よね?」
心臓が口から飛び出るかと思った!
頭が混乱して言葉を探すことさえできない。ただ、心地いい声だなと思った。涼やかなのにどこか甘い響きのある声音……。それだけが何度も心の中で反響する。
僕は、何て答えたのかわからない状態で、ひたすら頭を下げ、校門へ駆け去った。
*
この学校——私立・元出雲高等学校は、発足としては、この元出雲市に鎮座する大御和大社の神官が創立した由緒ある学校で、その歴史は100年ぐらいになるのだが、この地域でも有数の進学校として知られている。
授業も厳しいが、出席率にも厳しく、僕はかなり危うい状態で、1年生の夏を迎えている。
この学校には、「文化遺産保護推進制度」といって、古い寺社の子弟を特待生として入学させる制度がある。通称「寺社枠」——その特待生は、生徒たちの間では「レリギオ」と呼ばれている。僕もその一人だ。小さいながらも「御和神社」という大社関連の家の子だから、ほぼ推薦みたいな感じで入学できた。普通に受験したなら、きっと、かすりもしなかっただろう。
だから、ただでさえ授業についていくのが精一杯なのに、出席率まで悪く、そのせいで習熟度も著しく遅れてしまっている今の状況は、かなりヤバい。夏休み明けに予定されている「実力テスト」の結果によっては、留年も十分あり得る——すでに先生からも、そんなふうに釘を刺されている。
実家は奥出雲の方にあり、ここから電車で片道5時間はかかるから、僕はアパートを借りて一人暮らししている。零細神社の子の僕は、かなり無理をしてこの高校に通わせてもらっている以上、留年なんかできる余裕はない。留年はすなわち、退学を意味するということだ。
——お前は、兄さんと違って人見知りで、手のかかる食物アレルギー体質で、おまけに妙なモノまで見えるなんて言い出すし……欠陥だらけなんだから、せめて人並みになりなさい。高望みなんかせず、とにかく人並みに、人並みに……。
そんなふうに言われ続けてきた。全部ほんとうのことだから、仕方がない。その通りなんだ。高校に入るまで、体質改善治療という理由で一時期、東京の親戚宅に預けられたこともあった。厄介払いされたんだと、いまでも僕は思ってる。
人と関わらず、波風を立てず、穏やかに静かに暮らしたい。歴史が好きだから、地方の歴史博物館でひっそりと学芸員になれたら最高だ。それが僕のささやかな夢。だから、どこでもいいから奨学金をもらって入れる大学に入りたい。そのためにも、退学なんて、絶対にできないんだ。
結局、この日はどうにか登校でき、早退もせずに済んだ。僕みたいな事情の生徒にとって、こういう当たり前のことは、とても貴重だ。
廻さんとは、朝の一件の後は、またいつものように一言も喋る機会はなく、彼女は帰りのホームルームが終わると、もう姿がなかった。
廻さんは、孤高の人だ。人に合わせることもなく、いつも自分のしたいことを迷わずする、帰りたい時は帰る。でも、誰からも疎まれず、むしろ、みんなから憧れの眼差しを向けられている。
そのあまりの美しさのためなのは間違いないが、それだけじゃない。勉強もよくできるし、運動も群を抜いている。要するに、完璧で完全無欠で唯我独尊……誰もが憧れながらも、近づけないのだと思う。ウワサで聞いた話じゃ、陽キャの極みみたいな男子たちが何人も告白して、ことごとく瞬殺されたらしい。ま、僕なんかからすれば、太陽を直視できないようなものなのに、告白するなんてこと自体が別次元・別宇宙の話だけど。
天に二物も三物も与えられてしまった人は、逆に反感を買ったり疎んじられたりするなんてこともよくある話だが、それは完璧さが中途半端だからじゃないかと、廻さんを見ていると思ってしまう。彼女ぐらいのレベルになると、もう反感さえ抱かれないのだ。
高嶺の花は、枯れることもなく、しっかりと咲き続けている。
朝のことを……せっかく話しかけてくれたのにパニクって逃げ出すように立ち去ってしまったことを……ちゃんと謝った方がいいかなと僕がモタモタしている間に、廻さん、帰ってしまった。そりゃそうだよな。もうそんなこと……彼女にとってどうでもいいことなんか、いちいち覚えているはずもない。
クラスメートたちがそれぞれ仲のいいグループでまとまり、わらわらと部活に流れていく中、僕は一人カバンを持って教室を出た。
この学校では部活がとても盛んで、僕のようにどこにも所属しない者は異例だ。どことなく「変わり者」としてみられている感じが伝わっているけれど、それももう慣れた。同じ「帰宅部」でも、廻さんの場合は別格扱いなんだろうけど。
玄関で靴を履き替えていると、誰かに声をかけられた気がした。いやいや、誰かが僕に声をかけるなんて、あるはずがないと思っていると、また声がかかった。
振り返ると、廻さんが、そこにいた。
「頼光麻人くん。ちょっと、お時間あるかしら?」
「……えっ? えっ?」
朝のときに続いてフルネームで呼ばれたことにも驚いたが、時間あるって、どういう意味だろう……答えあぐねていると、さらに彼女は言った。
「ご予定がなければ、ちょっとお話があるのだけど……」
またしても、頭が混乱する。誰かと間違えているんじゃ……いや、でも僕の名前を呼んだよな? それもフルネームで。じゃあ話ってなんだ? やっぱり、朝の一件を怒ってるんじゃ……。僕みたいな取るに足らないヤツでも、いや、取るに足りないヤツだからこそ、あんなふうに無礼な態度がプライドに障ったのかもしれない。
「お話……できるの、できないの?」
あわわわわ! やっぱ怒ってるよな! と、とりあえずなんか答えなくては……。
「だっ、だだだ大丈夫……ですっ! ほんと、大丈夫です!」
答えざまにうっかり顔を見てしまった。
息を……呑んでしまった。
そりゃそうだろう……まともにこんな顔を見てしまったら……耐えられるはずがない……やっぱり太陽を直視することなんか……できない。極力、人と関わりたくないんだけど……。
「大丈夫って、どっち? どっちの意味?」
フリーズしかけてるアタマで精一杯考える。どっちって、どういう意味だ? 大丈夫って……そ、そっか! 婉曲に断ってるようにも聞こえるかも! いやいやそんなことできっこないでしょ! そんな失礼の上塗りみたいなこと……。
「すっ、すみませんっ! 大丈夫っていうのは、大丈夫っていう意味で……」
なにやってんだ……何を間抜けなことを……。
「あの……あります……ありますから、時間!」
カーッと顔が熱くなる。まともに顔が見られない。帰れるものなら帰りたい……いや、でもちゃんと謝った方が……。もし怒ってるんなら、無視できる勇気も僕には、ない……。
「よかった。じゃ、行きましょう」
「あ、はい……あの、ど、どこへ……」
「来て」
下を向いてる僕の……手を……手を取って、廻さんはズンズンと歩き出した。
廻さんと同じ視界に、憧憬と羨望の入り混じったたくさんの視線が入ってくる。その視線たちは、すぐに僕へと注がれる。廻さんに手を引かれて歩く僕を二度見する人もいる。どの視線も、怪訝そうな、驚きと悲嘆と嫉妬がごっちゃになったような、これまでの僕の人生で味わったことのない感情をまとったものだ。
僕は、廻さんに掴まれていない方の手で、ただ熱い顔を煽いでいた。




