第弐章 長ヒ夏休ミ §【夏休み7日目】
*▶︎▶︎pers.ASATO
「……なに?」
午前11時過ぎ、早お昼の食卓を挟んで、ヒナギさんが怪訝そうに言った。
「え? なにって……なにがです?」
「ニヤニヤしてるから」
慌てて顔を引き締める。つい昨夜の小柄さんの言葉を噛み締めて、頬が緩んでしまった。
「いえ、昨日寝る前に見た動画を思い出しちゃって……」
「ふぅん」
おむすびを頬張るヒナギさん。どうやら、おむすびが得意料理らしく、昨日に引き続いて目の前に並んでいる。いや、昨日よりも明らかに大きいぞ。もしかしてこれ、日に日に大きくなるのだろうか……。
「今日は、12時から湯守の仕事よね?」
「はい、午前中の家庭教師とお昼の時間、無理言ってすみません」
「それはいいんだけれど、湯守の仕事は15時まででしょう?」
「そうですけど……」
「そのあと、18時まで別の仕事に入ってもらいます」
そりゃそうだよな。今日は早く上がれるかもって一瞬期待したのが、甘かった。
「また仲居さん、手伝ってもらえるかな」
「もちろん、喜んで!」
「今日は、おさんどんじゃないから、きっちり18時までで大丈夫です」
「あ、でも遅い時間まででも、僕はいいですよ」
うん、小柄さんと一緒なら、頑張れる気がする。
「ダメだよ。頼光くんには、なるべく晩ごはん、ゆっくり食べて欲しいもの」
「……え?」
「食箋はね、ちゃんとそれなりの時間をかけた方が効果があるの。早く、よくなって欲しいから……」
ヒナギさん、切なそうな表情で……。
「頼光くんには、この夏休みの間で完治してもらわないと困ります」
真っ直ぐに僕の目を見るヒナギさん。やっぱり眼ヂカラあるなぁ。吸い込まれそうになる。
「背中と肩のアザ、今日はどんな感じなの?」
「相変わらずですね……っていうか、また熱とかズキズキが……」
「アルバイト、少し休む?」
「いや、やります! 少しでも、恩返ししたいし」
「でも、体を休める方が……」
「大丈夫ですって。こう見えても、意外に丈夫にできてますから」
「……心配……してるんだよ……これでも」
え? なんだこの雰囲気。え? いや、違う違う。僕の悪いクセだ。妄想だ。
「心配……なんだからね」
ど、どうなってしまったんだ? ここに来て、なんかこういう感じ、続くなぁ。え、ここって、ご褒美の館なの?
「お友達のこと案ずるの、当たり前のことでしょう?」
あ、トモダチとしてね。そりゃそうです。でもヒナギさん、ちょっと赤面してないか? 気のせいかな。ああもう、ワケがわからなくなってきた。
「あ、そろそろ、じ、時間ですね……ごちそうさまでした!」
ホントに大丈夫ですから、ありがとうございますっ、とワタワタしながら僕は湯守の仕事に向かった。
清掃作業は、まず別館の大浴場・男湯から手伝うことになった。
護刀を脱衣所のカゴに入れ、制服の裾と袖をまくって、さぁ準備完了! と思ったところで、僕の指導係を任された湯守の宗万智さんからストップが入った。
「ああ、ダメダメ、これを着けて」
手渡されたのは、長靴と手袋だった。
「湯船の汚れ……うちでは昔から澱って呼んでるんだけど……それは、ケガレの塊だからね。直接触れるのは危険だよ」
いまここで作業をしている湯守は全部で3人。みんな年恰好で区別がつかないが、宗万智さんは一番坊主頭の色が黒い。
「そうなんですね。あ、でも、それなら時間が経った温泉だと、入らない方がいいってことになりませんか?」
「バカだなぁ、湯があるうちは湯自体に薬効があるだろ? 澱っていうのは、湯抜きをして空気に触れたとたん、悪質になるのさ」
「なるほど!」
「湯抜きしてからもうかなり時間が経ってるからね、絶対に直で触れちゃダメだよ」
長靴と手袋を着用する。なんとも言いようのない感触の悪さに、思いっきり顔をしかめる。
「絶妙な感触だろ? それ、ゴムじゃないんだ。そんなものじゃ、ケガレはほぼ素通りだからね。でもこいつは、どんなケガレも完璧に遮断する。うちの700年の知恵が詰まった……まぁ特殊な樹脂ってことさ。あ、このマスクも着けるように」
うへぇっ……同じ素材なんだろうな、絶妙に気持ち悪い感触。
湯船は、学校の25メートルプールぐらいの広さで、深さは僕の胸ぐらいか。その一番向こう端から、宗万智に教わった通りに、デッキブラシでゴシゴシ底をこする。澱が底板から浮き上がって、ドロっとした真っ黒い塊になる。こすりながら進んでいくにつれ、澱が掻き集められ、塊がだんだん大きくなっていく。ものすごくガラの悪い、1ミリも可愛げのないスライムって感じだ。
ふと見ると、湯船の反対側で宗万智さんがしゃがみ込んでいた。澱を手袋ですくっていろんな角度から観察したり、マスクをずらしてニオイを嗅いだりしては、首をかしげている。僕は見ないふりをしながら、溜まった澱を中央の排水口に集めては、また端から同じような作業を繰り返す。
ほぼ全面の澱を排水口に集め終わると、みんなで手分けして強力な水圧のホースで湯船を洗い流す。
最後に、宗万智さんが仕上げを行う。
まずホースの水圧を上げて、排水口の周辺に溜まった澱を流す。そのあと、排水口に設置された網の目のお皿のようなものを取り出す。
「これは、目皿といってね、髪の毛とか皮脂なんかのゴミが配管を詰まらせるのを避けるためのフィルターみたいなものだ」
排水口は直径30センチぐらいはあるので、ゴミはそれなりの量となる。宗万智さんは、それを手袋で摘み上げ特殊樹脂の袋に入れる。
排水口にフタをして、完了。
「ヒナギさんからハードな仕事だって聞いてましたが、たしかにその通りですね……」
隣の女湯に移動しながら、宗万智さんは笑って答えた。
「そうでもないさ。このグループは君に教えながらやってるし、俺も今日はちょっと調べながらやってるからこのスピードだけど、そうじゃなければ格段に速いからね」
「すみません、足、引っ張っちゃって」
「そうじゃないよ。新人にきちっと教えるのも、俺らの仕事なんだから」
なるほど、教え上手の「濱千イズム」みたいなものが、この人たちにもしっかり浸透してるんだな。
このあと、女湯、本館の大浴場2箇所の作業を済ませて、僕のグループの作業は終了した。
詰所に戻ると、もう他のグループが全員揃ってくつろいでいた。濱千さんは所用で帳場に行っているらしく、詰所内は担任のいない教室のような雰囲気になっている。
「おい、バイト君、宗万智さんは?」
「ああ、澱の入った袋と僕らの長靴や手袋、マスクを処理してから戻られるって言ってました」
「なんだ、君はさっさと戻って来ちゃったのかい?」
「そうだよ、せっかくだから処理の様子、見て来ればいいのに」
「ほら、早く行って来なよ」
青坊主の人たちが駆り立てるものだから、なんだか行かないわけにはいかない感じになって、僕は部屋を出た。処理場は、廊下を挟んだ向かいの部屋、ここにさっき宗万智さんが入って行った。
送祓ノ間——というプレートが掛かったドアをノックする。
返事が、ない。
大浴場から一緒に戻って来て、ここに入って行ったのを見たから間違いないはずだが。かなり大量に澱が溜まっていたから、処理が大変なのかもしれない。
もう一度ノックしても返事がないので、ドアノブを回してみるとかチャッと音がして開いた。
「宗万智さん、いらっしゃいますか?」
石造倉庫のような殺風景な室内。一歩踏み込んだ途端、急にひんやりした空気に変わった。壁も床も剥き出しの石という構造的な理由……では説明できないぐらい、寒い。ひんやりどころの話じゃない。この寒さの影響なのか、背中と肩がズキズキとうずき始めた。
室内が薄暗いのは、電気照明ではなくロウソクの灯りのためだ。一番奥に、大きな石棺のようなものが安置され、両脇に燭台。その上に太いロウソクが立っていて、ゆらゆらと炎を揺らしている。むかし見た古いヨーロッパ映画に出てきた中世の拷問部屋みたいだ。
石棺の下の方に、何かある。炎の影になって、大きな黒い塊のように見える。
目を、凝らす。
人が——うずくまっている。
「宗万智さんっ!」
駆け寄ろうとすると、やっと聞き取れるような声がした。
「……来るな……」
僕はスマホのライトを点けて照らし——息を呑んだ。
うずくまりながらわずかにこちらに向けた顔が、一面、黒ずんでいる。目が開けられないのか、固くつむったままだ。
「宗万智さんっ、どうすれば……」
「……し、師匠……師匠を……」
そうだ、濱千さんを呼んで来なければ。けど、呼びに行って大丈夫だろうか。こういうときは応急処置とかしないといけないんじゃ……。人を呼びに行ってる間に万一のことがあったら、なぜ応急処置をしなかったのかって責められるんじゃないのか。すごく苦しそうだし、息が途切れ途切れだし。このまま呼吸止まるんじゃないだろうか。けど応急処置って、いろいろわかってないとできないだろ。ヘタなことして余計悪化させたら……。大体、これ何が原因なんだ? こんなに、顔の半分だけクッキリと黒ずんで……。いや、首もだ。あと、手も。身体の半分だけが黒ずんでるんだ。
まずいぞ、震えだした。痙攣じゃないのか?
「む、宗万智さん、大丈夫……」
「あああ……ああああ……」
のたうち回り始めた。まだこんなに力があったのかってぐらい。とりあえず押さえ込もうとしたが、思いっきり振り払われた。
「ぎゃあああああああああああああああああああっ!」
思わず耳をふさぐ。人間の声とは思えない不快な大音量。ただでさえ大きな音が苦手なのに、この不快な声! こういう音は、反射的に殺意を掻き立てる。内奥に眠っている暴力性を刺激する。何度も何度も空吹かしするクソのようなバイクの音とか、ブチ殺してやりたくなるだろう? あれは頭の悪いヤツの無自覚な自殺行為なんだ。望み通り、ぶっ殺してやればいい。
——いや、ダメだダメだ。
僕は、腰に下げた護刀に手を……あれっ? ホルスターをつけていない! そうか、大浴場の作業の時にはずして、そのまま詰所に置いてきちゃったんだ。しょうがないので、ポケットのお守り袋を握る。しっかり握る。
鎮まれ。
落ち着け。
冷静に、なるんだ。
そう、こういうときだ。凶暴な言葉が出始めたら、要注意だ。
いつもこのまま興奮状態がエスカレートして、意識を失うんだ。
ふたたび、凄まじい絶叫。でも、今度は大丈夫。正気を保てている。大丈夫。護刀の影響で、お守りのパワーが上がったんだ。うん、きっとそうだ。
「濱千さん、呼んできます。もう少し頑張ってください」
ドアを開けた途端、人とぶつかりそうになった。
「なんだ、どうした!」
湯守たちが数人、雪崩れ込んできた。
それを押しのけるようにして、僕は帳場へ走った。
*
帳場に駆け込むと、濱千さんと女将さんが話し込んでいるところだった。僕からの報告を聞きながら、濱千さんの顔色がどんどん変わっていくのがわかった。
「急ぎましょう、濱千。あたくしも行きます」
濱千さんが猛然と駆け出し、女将さんと僕がその後に続く。走りながら、濱千さんから問われるままに、僕は今日の仕事現場での様子や気づいたことなどを答える。もっと上手く的確な答えができないのかと自分にイラついたが、濱千さんは僕の拙い答えからもしっかり情報を整理しているようで、すぐに冷静さを取り戻し、業務用スマホから湯守にいろいろと指示を出しているようだった。
送祓ノ間に到着すると、群がっていた湯守たちが一斉に道を空けた。濱千さんと女将さんが、そのまま宗万智さんに走り寄る。
「師匠、ご指示の物は、そこに置いておきました」
「ありがとう、羽生地。みんなを下がらせてくれ」
羽生地さんが、事件現場の警官のように湯守や僕を後ろに下がらせた。こんなときなのに、羽生地さんの坊主頭も黒々としてるんだなと思った。
濱千さんは少しの間、宗万智さんの状態を観察してから、用意されていた霧吹きのような器具を何度もプッシュした。
「霊泉の源水だ」
僕の隣で濱千さんの手当てを見守りながら、羽生地さんが言った。
「刺激が強いから、普通は薄めて使うんだ」
霧吹きから源水が振りかけられるたびに、宗万智さんの身体からシュゥ〜ッと音を立てて蒸気が上がる。まるで、熱した鉄板に水をかけたときみたいだ。
霧吹きはあっという間に空になり、大きなバケツで補充してから、また噴霧を繰り返す。濱千さんの隣で女将さんがなにかを詠唱しているようだが、声が小さくて聞き取れない。
噴霧して源水が蒸発するたびに、僕の身体が振動している。お守り袋が、スマホのバイブ機能のように震えているのだ。それがなにを意味する反応なのか正確なところはわからないが、きっとこれによっていま僕は例の「暴走」から守られているのだろうと直感した。
濱千さんと女将さんは、宗万智さんの様子が少し落ち着いたのを確認すると、石棺のようなものを覗き込んだ。
「あれは……浄化槽だ。ケガレの付着したものをあそこで清めて、流す」
「あの、羽生地さん、流すっていうのはどこに……」
「それは地下深くの……」
そこで、濱千さんからの指示が飛んだ。
「羽生地、源水が足りない。バケツに入れてあと5つ持ってきてくれ。急げ!」
羽生地さんは、湯守のうち4人に声をかけ、部屋を駆け出して行った。
濱千さんは大きく息を吐くと、気を取り直すように首をポキポキ鳴らしながら部屋の入口の方までゆっくり歩き、室内灯のスイッチを入れて、また浄化槽の前に戻った。途中、僕の横を通ったときに目が合ったが、厳しい目をしていたので、思わず僕は目をそらしてしまった。
濱千さんと女将さんが浄化槽を覗き込みながらなにやら話し込んでいるうちに、羽生地さんたち5人が帰って来た。重そうなバケツを、慎重な足取りで浄化槽の前に並べる。
「君たち、もう少し近寄って、よく見ていなさい」
そう言うと、濱千さんはバケツを一つ持ち上げ、少しずつ源水を浄化槽に注ぎ始めた。
ジュ〜ッという音を立てて、また蒸気が上がる。近寄って浄化槽の中に目をやると、黒いタールのようなヌルヌルにまみれた長靴や手袋などがウネウネと蠢いていた。
2杯目のバケツの源水を注ぐと、黒いヌルヌルたちがビチッ、ビチッと飛び跳ね始め、湯守たちが後ずさりした。僕だけがもっと近くで見たくて、一歩前に出た。
濱千さんは絶え間なく源水を注ぎ続け、女将さんは詠唱をし続ける。近づいたおかげで女将さんの唱えている声は聞きやすくなったが、その言葉の意味はほとんどわからなかった。ただ、ときおり「ネノクニ」という音が聞き取れたので、なにか祝詞のようなものを唱えているのかもしれないと思った。
二人が汗だくになった頃、浄化槽の中の黒いヌルヌルたちの動きが止まった。もう、蒸気も出ていない。
濱千さんが、備えつけのハンドシャワーで勢いよく水をかけると、一気に浄化槽の中がキレイになっていった。
「女将さん、お疲れさまでした。なんとかこれで完了です」
「あなたも、お疲れさま。宗万智は……」
女将さんがしゃがみ込み、気を失っている宗万智さんの顔、首、腕を確かめる。あのひどい黒ずみが、ウソのように消えていた。
「……どうやら大丈夫なようだね」
立ち上がって、乱れ髪を整える。
「よかった……よかったです。女将さん、濱千さん、本当にお疲れさまで……」
女将さんの眼に、わずかに鋭い光が走った。
「麻人さん、ちょっと帳場まで来ておくれ」
さっさと出口に向かって歩き出した女将さんをオロオロしながら目で追っていると、厳しい声が飛んできた。
「なにしてるんだい! 早くおしっ!」
慌てて駆け出した僕に、濱千さんがなにか言おうとしたが、押し止まった。その代わりに、悲しむような、憐れむような眼を僕に向けた。
そこにいた全員が、同じような視線で僕を見送っているような気がしてならなかった。




