第弐章 長ヒ夏休ミ §【夏休み4日目】その1
*▶︎▶︎pers.ASATO
今日は、13時半から角丸コンビに付いて、客室の清掃と整備を手伝っている。
掃除機をかけ、雑巾掛けをし、備品を整える。シンプルな作業だけど、完璧にするのが難しい。
「俺らの仕事はな、旅館の最前線だ。塵一つ埃一つで、旅館の面目は丸潰れになる」
「皆既亭翠屋の名前に傷がつくってことッスよね、アニさん?」
「そういうこった。頼光、部屋の角なぁ、掃除機かけ直せ」
「はい、すみませんっ!」
念入りにかけ直す。そういえば、花瓶の裏とか貴重品をしまう金庫の裏とかも大丈夫だろうか……。
先の細いアダプターに付け替えて、吸引。小型冷蔵庫の裏も、吸引。トイレも気になってきた。便器の陰、トイレットペーパー・ケースの裏も吸引。
「よく気づいたな、頼光」
「ありがとうございます! なんか、気になっちゃって……」
「大事なことだ。あとは、もっとスピーディーにやれ」
なんとなくコツがわかってきたので、次の部屋は、ぐっと短い時間で完了した。また次の客室に移動する途中で、蜜角さんがポツリと言った。
「お前、なかなかスジがいいよ」
「おっ、頼光、アニさんが褒めてくれるなんて、滅多にねぇんだぜ」
「はいっ! 気を抜かずに頑張ります」
なんだなんだ、やっぱこの人たち、悪い人じゃないよ。よかったぁ。……けど、ここで図に乗ると、大体しっぺ返しが待ってるんだよな。気を引き締めよう。
蜜角さんのスマホが鳴り、なにやら話している。
「へい、へい……う〜ん……へい……わかりやした」
電話を切ると、蜜角さんが腕組みをしてため息をついた。
「アニさん、どうしたんスか……」
「女将直々の指示じゃ、しょうがねぇ……」
蜜角さんが、面倒くさそうに頭を掻いた。
「予定変更して、次は別館の離れ。珠菊の間だ」
「珠菊の間ってアニさん……珠姫様ッスか……」
蜜角さんは、うなずく。
「頼光はどうします? 置いて行きますか」
「頼光、今日は何時までだった?」
「18時までです」
「まだ3時間はあるか……」
蜜角さんはしばらく考えてから、腕組みをほどいた。
「いや、連れて行こう。早く仕事覚えさせろって、お嬢から言われてる」
蜜丸さんが、キッと僕の方を睨む。
「おい頼光! 絶対に粗相はするなよ! うちの上得意客だからな」
「はぁ……」
よくわからないので、よくわからない返事を返したが、何やら気になる。
「上得意って、常連さんとかですか?」
交換用のシーツやらアメニティやらが積載されたワゴンを押しながら僕が尋ねると、サクサク先を歩いていた蜜丸さんが、肩越しに答えた。
「常連なんてもんじゃねぇよ。ハンパねぇぐらい紹介客も多いんだ。トップ……え〜と」
指を折りながら数えているが、トップ何位なのかは結局わからなかったみたいだ。
「とにかくよぉ、すげぇお大尽の娘ってことだ!」
別館の中庭も、本館に劣らず広い。その端の方に一棟の茅葺き屋根の木造家屋があった。
「離れって……一軒家だよな、これ」
さすがにヒナギさんが住む本屋敷ほどではないけれど、普通に立派な平屋建てだ。
蜜角さんが玄関の呼び鈴を鳴らすと、しばらく間を置いて、インターホンから返事が返ってきた。
「……はい。なに?」
張りのある、若い女性の声。
「室守の者です。清掃に参りました」
また少し間が空く。
「……頼んでないんだけど。必要ないから」
蜜角さんは、ワシャワシャと頭を搔く。露骨に面倒くさがってる感じだ。
「女将の指示なんで、申し訳ないんですが……」
長いため息のあと、
「……鍵、空いてるわよ」
ブツッとインターホンが切れる。
玄関でサンダルを脱ぎ、廊下を進む。ホントに普通の一軒家だ。戸が開きっぱなしの和室が一つ、二つ……どれも使用感がない。
三つめの一番大きな和室に、その人はいた。
他の部屋と比べて、壮絶な生活感。
あちこちに脱ぎっぱなしの衣服が放置され、さすがに下着までは無くてホッとしたが……その代わり、おびただしい数の本の山。それに囲まれるようにして、その人はちゃぶ台でノートパソコンに向かっていた。物書きの人……だろうか。
「高見沢様、お取り込み中すいやせんが……」
蜜角さんが頭を下げると、その女性がパタンっとパソコンを閉じた。
「わかったわよ。清掃中、あたしはどこに居ればいいの? あ、どっか清掃前の空き部屋でいいわよ」
「こりゃ、お気づかいいただいて……じゃ、別館の鬼菅の間が近いんで、そこでお待ちくだせぃ」
「ちょうど乗ってきたところだから執筆を続けるわよ。資料、持ってきて」
ノートパソコンを小脇に抱えて、部屋を出る。
「頼光、お前、資料を持って差し上げろ」
「あ、あの、どれを持っていけば……」
「ちゃぶ台の上の本、全部よ!」
廊下の方から声がした。
「さっさと行かねぇか!」
「はいっ!」
急いで10冊ほどの本を抱えると、僕は玄関に向かって走った。
「しまった、どこの部屋だっけ……」
サンダルに足を通す僕に、その人は言った。
「鬼菅の間よ。あんた、知らないの?」
「新人バイトなもので……」
その人は、髪をかきあげながら、僕の頭の上から爪先まで値踏みでもするように見た。
「学生?」
「高校1年生です」
「どこの高校?」
「元出雲高校です」
「あら、元高? じゃ、ヒナギと……」
「はい、同級生です」
「そうなんだ。にしても、あんた……地味ね」
「よく言われます……もとい、言われもしません」
プッと、失笑された。
「なに、友達、いないの?」
「いませんね……お恥ずかしいですけど」
「ヒナギは? あ、でもあの子はそういう……」
「そーでした! ヒナギさん、友達でした!」
「え? そう……なの? フン、あの子にしては珍しい」
「ははは……ですよね。僕なんかとは釣り合わないですよね」
「なんなのよ、その卑屈な根性……あの子、そういうの冷めてる子だって言ってるのよ」
たしかに、学校じゃいつも一人だもんな。
「周りからすれば、近寄りがたいんじゃないですかね。ヒナギさん、いろんな意味で完璧だから」
「へぇ〜」
僕を見る目が、細くしぼられる。
「……よだれ、出てるよ」
「あわわわっ! そっ、そんなことは……」
「バカみたい。冗談よ。ついてらっしゃい。この旅館の部屋なら、全部知ってるから」
中庭をサクサク歩きながら、振り返りもせず尋ねられた。
「そういえば名前、聞いてなかったわね。あたしは、高見沢ユイカ」
「あ、頼光……麻人と言います」
「ヨリミツ、ね。それ、重くない?」
「大丈夫です。ご心配、いたみいります」
「勘違いしないで、ヨリミツ! 大事な資料なんだから落とすなってことよ!」
「はいっ! 失礼しましたっ!」
鬼菅の間は、中庭から別館に入ってすぐの部屋だった。框でスリッパを脱ぎ、引き戸を開け、高見沢さんは立ち止まって室内を見渡す。
「ふむ、なるほどね……」
少しだけ使用感は残っているが、キレイに使ってくれたようで、ぜんぜん見苦しくない。物理的には——。
「本、そこのちゃぶ台に置いてくれる?」
言われるままにする。高見沢さんは、床の間と向かい合うように座り、ちゃぶ台にノートパソコンを置いた。
この部屋、たぶん何かいたように思う。なんとなくだけど、ケガレみたいなものの消え残りっていうか、そういうものの気配が残っている。皮膚がザワつくほどではないけど。ま、目には見えないし、高見沢さんには関係ないみたいだから、余計なことは言わずにおこう。
「ねぇ、ヨリミツ?」
ちゃぶ台でノートパソコンを開きながら、高見沢さんが言った。
「あんた、あたしのこと、知ってる?」
「あの、旅館の上得意の方って聞いてます」
「バカね、そうじゃなくて……あたしのこと、見たことないかって訊いてるのよ!」
「すみません……どこかでお見かけしましたっけ……」
「あんた、テレビとか見ないの?」
「ほとんど見ません」
高見沢さんは、一瞬、安堵したような面持ちになった。
「そう。なら仕方ないか……」
「あの……テレビに出てる方なんですか?」
「女優なんだけど!」
「えっ! 女優さん? えっ?」
「そうっ! 女優っ!」
「失礼しましたっ! ホントすみませんっ! 申し訳ありませんっ!」
「やめてくれる? そういう無駄な謝罪って逆に失礼だから」
「すみません……じゃなかった、あの、テレビ見ないもので……」
「わかったわよ……これでも一応、いろいろ出てたのよ?」
高見沢さんは、いくつかドラマとか映画の名前を言い、ノートパソコンの画面をこっちに向けて、ネットで拾った関連画像を見せた。
「恥ずかしながら、ホントにみんなが見てるようなものって、全然知らなくて……非常識なヤツってことで、お許しください」
「いいわよ、もう。かえって気が楽になってきたわよ。でも、その歳で珍しいんじゃないの?」
言いながら、首を右、左と倒し、ぐるりと回す。
「だと思います。話が合う人、ほとんどいないので……」
ふと、ヒナギさんの顔が浮かんだ。そうだよな、彼女はとっても貴重な、数少ない「話せる人」なんだよな。
「けど、あんた、普段何してるの? テレビも見ない、話の合う人もいないって……高校生でしょう?」
「本読んだり……あ、そうだ、ヒマさえあれば歴史博物館に行ってますかね」
「えっ、歴史、好きなの?」
「一日中でも浸っていられます、たぶん」
高見沢さんは、ちゃぶ台に肘をつき、身を乗り出した。
「え、そうなの? どの辺りの時代が好き?」
「特にそういうのはありませんが、最近は古代とか鎌倉あたりの本を読んでますかね」
「古代だと、やっぱり土地柄、出雲関係?」
なんだ、グイグイ来るなぁ。
「そうですね。実家も奥出雲の方なので。あ、でも家族で僕だけは高校に入るまで一時期、東京の親戚宅で育ったんですけどね」
「フン、そうなんだ。東京の、どの辺?」
「町田の方です」
「……ほとんど神奈川じゃない」
「ははは、そうですね。なので、よく鎌倉とかに一人で行ってました。旧跡が多いから」
「ああ、それで鎌倉あたりの本ってことか」
右手で左肩を、次に左手で右肩をポンポンと叩いている。執筆しすぎで肩でも凝ってるんだろう。とっても美人なのに、オジサンみたいな仕草だ……。
「それもありますけど、武家文化が好きなんですよ」
「あ、そう。もしかして、日本刀とかも好きなの?」
今度は、僕が身を乗り出す。
「好きですっ! マニアかも……」
「ちょっと! 顔、近いってば……」
「あっ、す、すみません!」
「ね、日本刀、持ってたりするの?」
「いやぁ、残念ながら……」
「なぁんだ、つまんない子ね」
「実家が神社なので、宝物で刀とかあるんでしょうとか言われたりするんですが……」
そういえば、ヒナギさんとも前にこんな話したな。
「どうしたの?」
「あ、いえ、日本刀はもっぱら博物館とかで見るぐらいです」
「あんた、神社の子……なんだ」
「ええ、ちっちゃな神社ですよ。あの、高見沢さん……神社とか、お好きなんですか?」
「好きよ、悪い?」
「いえ、なんか嬉しいなって思いまして」
「調子に乗るな。別にあんたの実家なんか知らないから」
「ごもっともです……」
「神社は……落ち着くから……」
「わかります……いやっ、すみません! 僕なんかがわかるはずないです!」
高見沢さんは、やれやれという感じで頭を振り、軽くため息をついた。
「世知辛い芸能界なんかにいると、心が疲弊してケガレが溜まるのよ。ああ〜ホントに溜まるわぁ……」
両手を突き上げて、伸びをする。
「ったく、もはや自覚症状が出てる段階よ。ときどき神社に駆け込んで癒されてたんだけど、もうそれじゃ収まらないレベルになってねぇ。仕事どころじゃないとこまで行っちゃって、さすがに見かねたお父様がしばらく休業しろとか言うもんだから、まぁどのみち最近めっきり仕事も減ってたし、いいかな〜ってね。ホントいろいろよ。いろいろ……やりにくくなっちゃって……」
高見沢さんは、目に見えて憔悴の色をあらわにし、うつむいてしまった。なんか、訊いちゃいけないこと、訊いちゃったのでは……。
「コホンッ! あ、あの、高見沢さんは、歴史もお好きなんですか?」
「あ、聞いてなかった。なんて?」
「いえ、なんでもありません。あの、お仕事中だったんですよね?」
「ああ、いいわよ、別に。どうせまだ仕事になんかなってないんだから。女優業も行き詰まってきたし、どうしよっかなって思ってたところに、本出さないかってオファーがあってね……って、なにペラペラ喋ってんだろ、あたし」
「すみません、なんか僕、余計なことしちゃってるみたいで……」
「あんた、妙な子ね。あたし、こんなに自分のこと喋る人じゃないのに」
「あの、ホントごめんなさい。なんだかいろいろと込み入ったことまで……わきまえなきゃ、ですよね」
「話しやすいのかもね、あんた。空気みたいで」
存在感ゼロってこと? それはそれでフクザツかも。
「そっか、神社の子で、歴史が好きでってあたりかもね。あたしも、いわゆる歴女だから」
「歴女……なんですか、たっ、たか、高見沢さん……」
「いいわよ、ユイカさん、で」
「いやいやいや、そんな畏れ多い! たっ、たかみ……」
「噛み噛みじゃないの。ユイカさんでいいってば。めんどくさいなぁ、言った通りにしなさいよ」
「では、ユイカさん。あれですか、本を書かれるって……もしかして歴史関係の……」
「オカルトよ」
「……え?」
「オカルト本」
あんぐりと口を開けて呆けてしまった。ユイカさんは、交互に自分で自分の肩を揉んでいる。僕が揉んであげた方がいいのかな……いやでも、それはそれで出過ぎたマネのような……。
「あんた、本当に芸能事情、知らないのね。あたし、オカルト女優って揶揄されてたの、知らないんだね?」
「ぜんぜん知りませんでした」
「あははは! そっか、これも話しやすい原因かぁ。あたしのことも芸能事情も、あんた何も知らないんだもんね。もはや清々しいわ。なんの気遣いもなく話せるわぁ」
「よくわかりませんが、安心していただけるなら、本望です」
「安心? 冗談言わないでよ。なんでこのあたしが、あんたに安心させてもらわなきゃいけないのよ! 単純に話しやすいって言ってるだけだから」
「……ごもっともです」
「あたしね、ロケとかで泊まったホテルなんかで、しょっちゅう見ちゃってたのよ……」
「見ちゃってたというのは、つまり……」
「そう。それよ。しょうがないわよね、見えちゃうんだから」
なんてことだ。僕と同じような悩みを持った人ってことじゃないか。
「それってやっぱりアレですか、だれか他の人にバレちゃって気味悪がられたり、いわれのないウワサとか悪評とか……」
「あら、変なとこで鋭いのね。まぁそんなところよ。あたしみたいな仕事してると、あっという間にSNSで拡散とかされちゃうから。もうあれよあれよという間に、すっかりオカルト女優の烙印確定。ひとたびそんなイメージが焼き付いたら、もうどんな役で頑張ったってダメ。女優としては致命傷ね」
ユイカさんは、自嘲の笑いを吐き棄てた。
「本人のせいでもなんでもなく、ただ見えてしまう、聞こえてしまうってだけなのに……それだけでもう変人扱いですもんね。ニンゲンって、異物をみんなで攻撃することで、異物以外の安心の輪みたいなものを作って自分の居場所を確保する……みたいなことをやりますもんね。本人とはまったく無関係の変人キャラを勝手に作って、その役を押しつけ、排斥の構図が完成したらもうそいつのことなんか忘れて、今度はまた別のだれかを使って同じ構図を作るんだ……」
「な、なに熱くなって知ったふうなこと言ってるのよ!」
僕は、思わず熱い口調になってしまったバツの悪さもあって頭を掻き、謝った。
「ひょっとして……あんた……あんたも、同じなの? そういうの、見えたり……」
「見えたり、引き寄せたり……ですかね」
ふぅ〜っと、ユイカさんは深く息を吐いた。
「なるほどね。そこだけは同類項ってことか」
「因果な性分です」
「でもねヨリミツ、あたしはそれで済ませるつもりなんかない。この性分、逆手にとって武器にしてやるんだ」
「あ、それをネタにして本を書くってことですか?」
「そんなとこね。あたしにしか書けないってことだもの」
ユイカさんは、自分で自分に整理をつけたような感じで、表情が晴れやかになった。
「ってことでヨリミツ! あんたも協力しなさい!」
晴れやかになった分、傲慢さも戻ってきたみたいだ。
「ネタ、提供しなさい」
「はぁ……僕が体験した範囲でなら、ですけど」
「甘いわ。これから体験してもらうことも含めてよ」
え? なんかさせられるの? まさか、どこかの心霊スポットに突撃しろとか……戦場に放り込まれるみたいな……。
「ここの旅館って、いろいろといわく付きの場所があるの、知ってる?」
そりゃもう。すでに体験済みで、呪詛までもらっちゃってますから。けど言わない方がいいよな。根掘り葉掘りされたらたまらない。治療中なんだし。
「あ〜そのぉ、ウワサ程度なら……」
「ウソが下手ね。そう、知ってるのね。もういくつか体験済みってとこかしら?」
す、鋭い。
「そもそも、何も事情の無いただの高校生が、ここでバイトするなんてあり得ないものね」
ホントに、鋭い。やめて、そのすべてを見透かしているかのような視線。
「あらぁ、黙っちゃって。言いたくないのね? まぁいいわ。女将に訊いてもいいし」
カンベンして、マジで。女将さんに先回りしておかないと。呪詛の件がバレたら、この人、僕の服をひんむいてアザを克明に調べ出すとか、やりかねない。話題を変えないと……。
「あの、ユイカさん、室守の蜜角さんたちがあなたのことを長期滞在のお客様だって言ってましたけど、もうかなりここにいらっしゃるんですか?」
「フン、そろそろひと月になるかしら」
「ここは、常連なんですか?」
「ひいお祖父様の代から使ってるからね」
「4代にわたってですか? それはすごい! 不躾ながら、資産家でいらっしゃると聞きましたが……」
「榊良コンツェルンって知ってる?」
知らないわけがない。世相に疎い僕だって知ってる。食品、日用品、流通、文化事業に至るまで手広く経営している有数の企業グループ。僕が愛読する歴史雑誌のスポンサーも、たしかそのグループ企業だ。
「あたしの母親の実家が、榊良の創業家よ」
恐れ入りました。資産家って、そこまでとは思いませんでした。
「うちぐらいの規模になるとね、それはもう敵も多いし恨みも買うし、自ずとケガレが溜まるのよ」
本物のお嬢様の言葉は、まるで嫌味がない。うちのワンちゃんはお手が上手なの、ってぐらい自然に聞こえる。
「だからここもよく使うし、グループ傘下の経営者たちもよく紹介するのよ」
上得意って、そーゆーことなんですね。離れ一棟丸ごと1ヶ月使うなんて、近所の公園まで散歩に行くぐらいのことなんですよね、きっと。
「それで、この旅館のことも知り尽くしてらっしゃると……」
「子供の頃から、お祖父様やお父様にくっついて来てたからね」
「それなら、ネタには事欠きませんね。ここはいろいろとほら、ねぇ、隠魂守とかの定宿でもあるし、彼らに取材すればいくらでもいい話、聞けますもんね?」
「バカね、そんなのムリに決まってるでしょ! 彼らは、守秘義務があるから、絶対に自分の仕事のことは他言しないわ」
そう、なんだ。まずい。大きな希望が一つ消えてしまった。
「でも、彼らが祓いきれなかった隠魂が残留してることはあるわね」
僕を見るその視線が、蛇みたいなんですけど。僕に何かをさせようとしてるその目、やめて。
「たとえば、だけど……」
ひぃっ、お願いだから無茶振りだけは——手で顔を隠しながら指間からのぞく気持ちでユイカさんをうかがうと……。
「ユイカ……さん?」
ジッと、一方向を凝視している。
開けっぱなしになっていた引き戸の外、框の方だ。
実は——そこは、僕も気になっていた。
「この部屋、入ったときから感じてたのよね……」
たしかに、あのとき、一度立ち止まっていた。あのケガレの残滓みたいなものに、ユイカさんも気づいてたってことか。
そしていま、あの引き戸の向こうに見え隠れするアレも——。
ユイカさんと、目が合った。
「あんたも、気づいてるんじゃないの?」
「はい。戻って来たんですかね」
「フン、ここじゃ珍しくないことよ」
ユイカさんは、ノートパソコンのキーを猛スピードで叩いている。そりゃそうか、いま目の前に「ネタ」が飛び込んできたんだから。
けど……。
「ユイカさん、悪いんですが、いったんノートパソコン、閉じた方がいいかも」
ダメだ、夢中になって書いてる。すごい集中力じゃないですか。フロー状態ってやつですかね。あなた、作家としての才能ありますよ、きっと。
ただ、ですね……。ポケットに手を入れ、お守りをギュッと握る。
「ユイカさん……それ、あなたが思ってるより、タチが悪いですよ。とりあえず書くの、やめた方がいいです」
やめるどころか、どんどんキーを叩くスピードが上がってる。
「平気よ……それ、大したヤツじゃ……ないから」
「違いますって! ろくろ首みたいに……手を伸ばしてます! 見えないんですか? そこから離れて!」
スマホの時計を見る。離れを出てから1時間を少し過ぎたぐらいか。もう蜜角さんたちが来る……と思うんだが。
「バカ言わないで! 書けてる……いい感じで……かっ……書け……てる」
「ユイカさん! あいつの手が、首にかかってる! そこから離れてくださいっ!」
「なっ……なに……言ってるのよ……ゴホッ……あいつ……あそこで……隠れたまま……じゃないのゲホッ! ゲホゲホゲホッツ!」
長く伸びたドス黒い腕をユイカさんの首から引き剥がそうとするが、空を切ってしまう。コイツはオヌモノじゃない。実体のない隠魂だ。実体があるみたいに鮮明になってきてるんだが、実体がない。それは、強力な隠魂ってことだ。ユイカさんのエゴをどんどん吸収して強力になってるのか? どうする? 蜜角さんたちを呼びに行くか? しかしその間、ユイカさんが一人取り残されてしまう。どうする?
コイツの本体は……相変わらず引き戸の陰で半分だけ顔を出してる。姑息なヤツだ。卑怯なヤツだ。小心なヤツだ……。
こんなヒョロヒョロした腕、叩っ斬ってやればそれで終わりだ。
刀があれば。太刀があれば。こんなモノぶった斬ってやる。太刀、太刀……。
太刀?
太刀、か。
太刀は、ある。
あるじゃないか。
当たり前だ。
太刀は、いつも、我が腰に佩いている。
我の、腰に、佩いている。
——スパッッ!
蚯蚓が、のたうっているわ。
女の首に巻きついたチンケな腕が本体から斬り離され、蚯蚓のようにブザマにうねっているわ。
目障りな蚯蚓め——
——スパッッ!
はははは! 醜悪極まりない蚯蚓め。ぶった斬られて霧散しおった。
ほぅら、どこを見てる、本体! 我はもう、そちの後ろだ。
なんだ、その眼は。
怯えておるのか。
命乞いしておるのか。
臭いな。
そちの黒い靄は、不快な臭いである。
我も、靄を発しておる。
されど、そちごときと違い、我が靄は香しいであろう?
格が違うのだ、下郎。
そぅら、太刀を振りかぶったぞ。
一刀の下、両断してやる。
——ヤメロ、斬ルナ!
小賢しいヤツ。逃げてみるか?
そのそぶりを見せた瞬間に、両断してやる。
——ヤメテクレ。我ハ哀レナ魂。人ノ世デ、人ノ仕業ニヨリ、人ノ悪心カラ出シ哀レナル魂。隠魂守モ我ヲ見逃シタデハナイカ!
そうか。それは酔狂なことだな。
我は、見逃しなどせぬ。
叩っ斬ってやるわ。
「おいっ! よせ!」
誰じゃ、我を止めようとする無礼者は。
「よせ、頼光! もうそこまでだ。その隠魂はもう浄化されかかってる。見逃してやれ!」
——ソウダ。ココハ、根ノ國ニ帰ロウトスルモノハ、ソレヲ送ッテヤル掟デハナイノカ?
知らぬわ、そのような生ぬるい掟など。
さあ、観念するがよい。
ぶった斬ってやる。
「頼光! よせっ!」
小賢しいヤツ。小者の分際で、我を羽交締めにするか。
はははははは! こそばゆいわ!
「くっ、なんてクソ力だ……蜜丸、加勢しろっ」
凡俗どもが何人群がろうと埒もない。
そぅら、あとはこの太刀、振り下ろすだけじゃ。
「くっ……頼光……よせ……」
うはははははは。愉快愉快。醜い虫ケラを叩っ斬れる気味の良さ……み、蜜角……さん……ダメです……抑えきれません……ええい、小僧、お主は引っこんでおれ! 祖先の霊を崇めよ……蜜角さん……すみ……ません……意識が……
往生せいっ、虫ケラ!
——ザクッッ!
<<たわけが。身の程を知ったか>>
意識が完全に消える刹那、僕の頭の中で、そんな声が響いた。銅鑼が鳴り響くように。
あの哀れな本体が、まっぷたつになって黒煙のように消滅していくのが見えた。
と同時に、僕にしがみついていた蜜角さんと蜜丸さんごと、僕の体が倒れていく音が聞こえた。




