19話 違和感
足音がする。迷い、戸惑う者の近づく足音が。
マンションの屋上にある給水塔の上にいた刻裏は、夜空に浮かぶ月を見上げてからゆっくりと視線を下に落とした。
「さて、と。準備は整ったか」
美しい夜景が眼前に広がっている。しかし、刻裏の目に映るのは満天の夜空を映したような夜の町並みではなく、とある一人の青年が夜道を走る様子だ。
千里眼で視える“光景”は刻裏が望んでいた展開どおりのものであり、思わず小さな笑みが零れた。
目を閉じ、視えていた光景を切り替える。
「私は、約束は違えない」
それは、いつか灰色のパーカーを着た少年に言った言葉と同じものだ。だが、向けた先は少年とは別にある。
記憶に今も色濃く残る一人の女性。彼女の、昔と変わらない優しい笑顔が浮かぶ。
かつて、この世界で暇を弄んでいた自分をたった一言で変えた女性だ。
喜怒哀楽の切り替わりが激しかったが、それも見ていて飽きなかった。
――退屈なら、自分から楽しいことを探したらいいのよ。視点を変えるの。
彼女と出会った時、刻裏は既に永い時間を生きていた。
変わらない世界に退屈していた矢先、何代目かの巫女だと言う女性に出会った。
簡単に言ってのけた彼女は、刻裏よりも短命な生き物であったが、変わらぬ日々を精一杯生きていた。それを彼女が退屈と思っていないせいか、やけに説得力のある言葉だった。
おかげで退屈せずに今日まで生きてこられたのも事実だ。
――貴方、名前がないの? なら、私が名前をつけてあげる。
――いや、私は縛られたくはないのでね。遠慮しておこう。
――ううん。つけなきゃ。「妖狐」だなんて種族の名前じゃ、いつか貴方が消えちゃいそう。
――消える? 笑わせてくれる。私は幻妖だ。そう簡単に――
――そうじゃなくって! “貴方”という妖狐の存在が、他に紛れて認識されなくなりそうなのよ。
退屈しのぎに話をするようになって数日。
彼女は一匹の妖狐に名を与えた。
――それじゃあ……貴方は今日から「刻裏」ね!
――なんだ、その名前は。
――あら、気に入らない? 「刻の裏」と書いて「刻裏」よ。永い刻を生きてきた貴方なら、裏のことまで把握してそうだから。……そのまますぎたかしら?
――……使ってやらないでもない。
――ふふっ。じゃあ、決まり!
いつしか、退屈しのぎではなく、心から守りたいと思った。依人だろうと幻妖だろうと、真っ直ぐに向き合う彼女を。
こんな気持ちを抱いたのは初めてだった。
結果として、人の儚さを痛いほどに感じたが。
――私、巫女に生まれて良かった。だって、刻裏に出会えたもの。
――そうか。私でも役には立ったかな。
――利用したわけじゃないけど……刻裏は嫌だった?
――いいや。お前に会ってから世界が楽しくなったよ。何かで返してやろう。何がいい?
――そっか。なら……最期に、お願いしてもいいかな?
――……ああ。
「最期」と言われ、生まれて初めて胸が締めつけられる感覚がした。
たかが人間ごときに、ここまで心を動かされることがあっただろうかと、あの時は自分の感情に驚いたものだ。
――いつか、私が生まれ変わったら……永い刻を生きてきた、貴方の話を聞かせて?
――……分かった。約束しよう。
彼女の最期は今でも鮮明に思い出せる。
温かかった手は彼女の血で赤く染まり、冷たくなっていく。痛いだろうに、苦しいだろうに、懸命に笑顔を浮かべて。
救いたかった。
生まれ変わっても、「巫女」という宿命を再び背負ってしまった彼女を。
――刻裏、だったかしら?
――何かな?
――貴方に、お願いがあるの。
――さて、私が叶えられるだろうか。
――ふふっ。簡単なことよ。
――今も昔も、お前は変わらないな。……まぁ、いいか。私もいろいろと貰っている身だ。聞いてやろう。
――ありがとう。それでね、私のお願いなんだけど――
叶えたかった。
生まれ変わっても、巫女として最期まで役目を捨てきれなかった彼女の望みを。
――私は多分、もうすぐ死ぬわ。だから、私の息子が「こっちのこと」で困っていた時は、よろしくね。
「沙羅……いや、今世は結奈だったか。私を救ったお前の望みを、叶えてやろう」
まるで誰かに……記憶に残る女性に話しかけるように言うと、刻裏は優しく微笑んだ。
「本当に、人とは儚いね」
目を閉じ、深く息を吸って吐く。込み上げてきた感情を押し止めるように。
次に目を開いたとき、優しく慈愛に満ちた笑顔はなく、愉しみを見つけたいつもの表情になっていた。
「さて、ここからが私の見せ場だ。“辰”でさえ見破れなかった力を披露しようか」
芝居じみた台詞を吐いて、刻裏は妖艶な笑みを浮かべたまま、パチン、と指を鳴らす。
その瞬間、刻裏の姿は給水塔の上から消え去った。
何かが弾けたような音が聞こえた気がしたが、無我夢中で走る都季は足を止めなかった。
気づけば、少し前に屋上から見下ろしていた交差点に戻って来ていた。
「……ははっ。なんで、来たんだろう……」
思わず自嘲の笑みが零れた。住宅の多い西区でも家同士の距離が広がってきた地域のせいか、車通りはそこそこあるものの、通行人はほとんどない。
その一角には、日が経っているのか一部が枯れてしまった花束が供えられている。
亡くなってから約二年半が経つというのに、誰が供えているのかと疑問に思った。
「もしかして、都季君?」
「っ!?」
花束を見下ろしていた都季は、突然、後ろからかけられた声に驚いて振り返った。
そこにいたのは、買い物帰りの一人の中年女性。
都季の記憶より少し皺が増えてはいるが、忘れてはいない。
「ま、間嶋おばさん?」
「やっぱり! 大きくなったわねぇ。こっちに帰ってきてたの?」
かつて、両親と共にこの町に住んでいた頃、隣の家に住んでいた人だ。
世話好きという彼女には何かと面倒を見てもらっていた。
彼女は昔と変わらない無邪気な笑顔を浮かべて、都季との再会を喜んだ。
「そうなんです。学校をこっちにして……ろくに挨拶もしないですみません」
「いいのよー。でも、少し見ないだけでこんなに大きくなって……。もう高校生くらいかしら?」
「はい。間嶋おばさんには両親のことでもお世話になりましたし、またお会いできて良かったです」
「……ううん。私も、結局はお母様のご実家にお任せしてたし、何もしていないわ」
一瞬、両親のことに触れるのを躊躇ったが、都季を見て大丈夫と判断したようだ。穏やかな笑顔には僅かに同情が混じってはいるが。
母の実家と聞いて胸がチクリと痛んだが、顔には出さなかった。向こうであったことなど、話したところで何の意味もない。むしろ、人の良い彼女の心を痛めつけるかもしれない。
「ニュースを観て知ったんだけど、あの日は突然の大雨だったから視界も悪かったみたいね」
「そうですね。大雨による視界不良に加えて、トラックの運転手がスピード違反をしていたとは聞いてます……え、ニュース?」
本当の事故原因は別にはあるが、それを話すことはできない。
事故後に説明された警察の検視結果を口にした都季だが、すぐに彼女の言葉を反芻しておかしな点に目を瞬かせた。
あの日、都季に事故を知らせてくれたのは彼女だった。なのに、その本人はまるで知らせていないかのような口ぶりだ。
彼女は都季の驚きを事故がニュースになっていたことと捉えたのか、一つ頷いてから言った。
「そうよ。大きな事故だったから、夜にはすぐに取り上げられてたわね」
「でも、おばさんが俺に教えてくれませんでしたか?」
「いいえ? 私、あの日はニュースで知ってから都季君のお家に行ったのよ? もう都季君は家を出た後だったから、会えたのは次の日だったわね」
目を瞬かせる彼女が嘘を言っているようには見えない。
ならば、あの日、都季に事故のことを教えたのは誰か。
呆然としていると、タイミング良く彼女のバッグの中でスマホが鳴った。
「ちょっとごめんね」と断りを入れてからスマホを取り出した彼女は、画面に表示された名前と時間を見て驚きの声を上げた。
「あら、もうこんな時間! あんまり引き留めちゃうと悪いわね」
「いえ……」
「私は前と同じ場所に住んだままだから、良かったらまた遊びに来てね。うちの子供達も喜ぶわ」
「はい。ありがとうございます」
拭えない違和感に、口早に述べた彼女の言葉がうまく耳に入ってこない。
なんとか笑顔を浮かべて別れた都季は、しばし枯れた花束を見つめて思案する。
(あの時、家に来たのは誰だ……?)
事故を知らせてくれた「間嶋おばさん」は先ほどの彼女ではない。「彼女に化けた誰か」だ。
そこまでを考えて、漸くすべてが繋がった。
「……ああ、なんで気づかなかったんだろう」
思えば、話してくれた時に分かることだった。
事故を知らせてくれた「間嶋おばさん」は、両親のことを名前で呼んでいた。だが、本当の彼女は都季に対して言うときは名前を呼ばない。
一方、“彼”は事故を目にしている上に、母にあることを頼まれている。まだ疑問は残るが、それは本人に直接訊くしかない。
都季は自宅には向かわず、ある場所へと向けて地を蹴った。




