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37.洗脳  

 午後の図書室は静かだった。


 静かすぎる、と言ってもいい。


 高い天井まで届く本棚。窓の外には庭園。風に揺れる草木。だが、鳥の声も虫の羽音もない。この箱庭特有の、妙に整いすぎた静寂が、今日もそこにある。


 その一角、長机の端で、パメラが文庫本を閉じた。


「くそ、なんだこれは……!」


 向かいで推理小説を読んでいたクラリスは、目だけを上げた。


「何ですか、パメラさん」


「推理小説だと思って読み始めた本、官能小説だった! 誰だ! 元の本棚に返さなかったのは! 推理小説の棚にあって、タイトルもそれっぽいから間違って取ってしまった!」


「ほう」「殿下に全体に対して注意喚起してもらうか、図書委員を決めるか提案してみよう。」


「この広い図書室を全部管理するのは骨が折れそうですね……」


「日ごとに中隊ごとに担当って感じになるだろうな。あるいはネクロディアくんに自動仕分け機能でもつけてもらうか」


 そんな事をいいつつ、クラリスはパメラの官能小説を興味深げに見ていた。


「ところでパメラさん。その本、どんな内容でした?」


  「なんだい?興味があるのかい?」


「そういう事にも興味が出てくるお年頃ですから……」


「むっつりめ……」


 パメラは微笑みつつ、解説する。


「よくある常識改変ものさ。こう、魔法とか催眠とかで「はい、あなたはもう従順です」みたいなやつ。で、主人公の男が洗脳した女の子相手にハーレム作ってやりたい放題する」


「……なんというか、欲望にまみれた話ですね」


「男向けのエロ小説なんてこんなもんさ」


「なんか、666みたいですね。構造が。殿下が絶対で、女の子達がそれに従ってハーレムを形成する」


 パメラはそこで、指をくるくる回してみせた。


「構造自体はね。だが、この手の『催眠もの』と666の……言葉は悪いが、洗脳はベクトルは似ているが少し違う」


「そんなに違うんですか?」


 パメラはふっと笑った。


「違うよ。かなり」


「具体的には?」


「前者は物語の都合で使う『装置』。後者は、現実の人間を壊して作り直す『過程』だもの」


 クラリスは目をぱちくりさせた。


「おお……なんか急に怖い言い方になった」


「怖いぞ~? 実際」


 パメラは官能小説を置き、指先で机を軽く叩く。


「ファンタジーの催眠や常識改変っていうのは、極端に言えば近道なの。抵抗を飛ばして、関係性を一気に成立させるためのね。だから読者も、どこかで「そういうもの」として受け取れる」


「うんうん。魔法だから、で納得させるやつですね」


「そう。でも666は違う」


 パメラの声が少しだけ低くなった。


「彼女たちは魔法で「殿下は正しい」と思わされたわけじゃない。戦場で、毎日死にかけて、仲間が死んで、自分が撃って、人を殺して、裏切られて、そのたびに殿下が意味を与えた。褒めた。必要だと言った。家族だと言った。周りもそれを補強した。そして何より彼の言う事を聞けば生き残れた。そうして一年かけて、価値観の土台そのものが塗り替わったの」


 クラリスは少し黙った。


「……つまり、インスタント的な催眠じゃなくて、積み重ね?」


「ええ。しかも本人たちの実感としては「騙された」じゃない。「救われた」なの。ここ重要」


「うわ」


「うわ、でしょ?」


 パメラはそこで微笑んだが、その目はあまり笑っていなかった。


「だから剥がれないのよ。魔法なら解除がある。催眠なら解ける可能性がある。でも教化は違う。思い出も、戦果も、罪悪感も、承認も、居場所も、全部そこに絡んでる。否定しようとすれば、自分が何のために戦い、生き残ったのかまで揺らぐ」


 クラリスは椅子の背にもたれた。


「それ、反抗する方がしんどいんじゃ」


「その通り」


「仮に誰かが今の殿下至上主義の大隊を「こんなの間違ってる!」って言っても、クリスティーナあたりから「でもあなたも撃ったよね? 殿下に褒められて嬉しかったよね? 殿下の言う事は常に正しかったよね?」って返されるやつですか」


「よく分かってるじゃないか」


「助手ですから!」


 胸を張るクラリスに、パメラは小さく肩をすくめる。


「つまりね、クラリス。ファンタジーの洗脳は外から無理やり上書きするもの。666みたいな洗脳……というより教化って言い方が正しいかな。これは内側にある傷と欲求に、きれいに筋道をつけてしまうものなの」


「筋道、かあ」


「ええ。だからたちが悪い。たとえば、殿下が初めて人を殺した子にかける「君が引き金を引いたから家族が助かった」って言葉。私も言われたことあるけど……これ。冷静に外から見ればだいぶ危ういでしょう?」


「……危ういですね。殺人を「家族を守った」って言葉に包んで、ナチュラルに正義に書き換えている」かくいうクラリスも、この言葉には聞き覚えがあった。


「……私も初めて人を殺した時は心が痛かったよ。だが、殿下に褒められ、仲間達に称賛され、…………気づけば、敵の狙撃兵を撃ち殺すのが、たまらなく楽しくなっていた」


「…………」


「気づいた時には50人以上の敵兵の頭に風穴を開けていた。平時ならとんだ大量殺人鬼だ。いやはや、名探偵という異名のなんと業の深い事よ」


 クラリスは何も言えなかった。彼女も観測手として「共犯」だったから。


「……初めて人を殺して震えてる子にとっては、あれが救いになる。自分のしたことが、ただの汚れじゃなくなる。意味を持つ。誇っていいと言われる。抱きしめられる。必要だと言われる」


 パメラはそこで言葉を切った。


「……あれで落ちない方が難しい」


 クラリスはしばらく天井を見たあと、ぽつりと言った。


「なんか、エロ小説の都合のいい常識改変の方が、よっぽど可愛いですね」


「可愛いというより軽いわね」


「666は?」


「重い」


「直球だ」


「直球でいいんだ。本当に重いから」


 窓の外で風が吹いた。庭の草が揺れる。遠くから、誰かの笑い声と、それに混じる爆発音みたいなものが聞こえた。


 クラリスはそちらを見やり、すぐに視線を戻す。


「ねえパメラさん」


「何?」


「私たちって、客観的に見たらだいぶ怖い共同体にいるんじゃ?」


 パメラは一拍置いてから、口を開く。


「心中に付き合っておいて今さら?」


「今さらですね」


「安心しな、私のワトソン君。名探偵は常に一歩引いて全体を見ているんだ。私は冷静……なはず」


「いやパメラさんも普通に内側の人間じゃん。仮に殿下がHな事させろ!って言ってきたら拒めます? 後ろではクリスティーナ派の連中が笑顔で見守りながら「殿下がしたいって言ってるんだよ? 名誉な事なんだよ? まさか断るとか言わないよね?」って加圧してくる事とする」


「……いや、無理だわ。私の貞操終わったわ。グッバイ、ヴァージン」


 二人は顔を見合わせ、それから揃って小さく笑った。


 笑ったあとで、クラリスはふと真顔に戻る。


「でもさ」


「ええ」


「殿下がいなかったら、もっと酷かった気もするんだよね」


「それもその通り」


 パメラは静かに言った。


「だから余計に、誰もここから降りられないのよ」


 図書室は再び静かになった。静寂の中で、クラリスは机の上の官能小説を見下ろす。


「……結論。ファンタジー洗脳は物語の近道。666の教化は、地獄を一番効率よく生き延びた結果」


「良いまとめだ」


「助手ですから」


「ああ、そうだったね」


 そして名探偵と助手は、また何事もなかったように本を開いた。


 箱庭では、そういう顔で日常が続いていく。

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