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33.栄螺

 箱庭は今日も静かだった。


 静かすぎる、と言ってもいい。


 ここは屋敷の図書館。


 人の気配はある。紙をめくる音もする。椅子を引く音も、遠くでは誰かの笑い声も聞こえる。だがそれ以外が無い。鳥も虫もいない。窓の外に草木は揺れていても、そこに生き物のざわめきは存在しない。


 だからこそ、この図書室の蔵書の密度は、妙に現実感を帯びていた。


 高い天井まで届く本棚。古今東西の文学、歴史書、技術書、絵本、漫画、楽譜、辞典。誰がどういう基準で揃えたのか分からない、無秩序なくせに妙に的確な収蔵。まるで屋敷そのものが、住人の趣味嗜好を読み取って本を補充しているかのようだった。


 その一角で、イーグル第八小隊の四人は机を囲み、宝でも見つけたような顔で一冊の本を囲んでいた。


「見て見て見て! これ、サザエさんの初版本だわ! ほら、この横長サイズ!」


 ローズ・ヴィジランティが興奮気味に本を掲げる。


 マリッサ・ロングボウが横から覗き込み、感心したように目を丸くした。


「……ちょっとした博物館ですね、こりゃ」


「流石にブラックバニア語翻訳はされてませんね……」


 オパール・ヴードゥーが苦笑する。するとベアトリス・フロッグフットが、待ってましたとばかりに分厚い本を机にどんと置いた。


「ほい、日本語訳辞典!」


「でかした!」


 ローズが即座に応じる。そのやり取りを見ながら、マリッサがくすりと笑った。


「闇市で買った日本語漫画を、辞典片手に翻訳しながら読んでた頃を思い出しますね」


「あー……あるあるだね。有名作品なら翻訳済みもあったけど、マイナー作品だと日本語版しか無かったり」


「サザエさんレベルなら翻訳済み、どこかにありそうだけど」


 ベアトリスが本棚の海へ目をやる。だがローズは、手元の横長本を胸に抱えて首を振った。


「いや、せっかくの貴重な初版本だもの。素材のまま味わおう。……また探すのもめんどくさいし!」


「本音そっちでしょ」


 オパールが呆れ顔で言う。ベアトリスも肩をすくめた。


「日本語って複雑で難解だから苦手だわ」


「それが良いんじゃないですか」


 マリッサが楽しげに言う。


 そして四人は、そのまま翻訳作業に入った。


 数ページ進めるだけで一時間近くかかった。だが焦る理由はない。この箱庭では、時間だけは腐るほどあるのだ。


 辞典を引き、文脈を推測し、時折言い争いながら、四人は少しずつ「栄螺」の世界を読み解いていく。


「……なるほど」


 最初に深く頷いたのはローズだった。


「時代的には、第二次世界大戦が終わった直後から始まってるのか。どうりで時代を感じると思った」


「……私達に似てるわね。奇しくも」


 オパールがぽつりと言う。マリッサが首をかしげた。


「戦争終わって日常開始って所? それとも、この箱庭そのものがサザエさん時空って事?」


「両方かな」


 オパールはページを見つめたまま答えた。


「それに、この親父さんも帰還兵みたいだし」


 ベアトリスが、髭面の髪の毛が一本だけ生えた男を指差す。


「平和に過ごしてます、みたいな顔してるけどさ。この髭面で髪の毛一本の親父さん、帰還兵って事は、私達みたいに平和に違和感感じたり、急に昔を思い出してたりするんだろうか……」


 四人の間に、ふっと沈黙が落ちた。


 窓の外では、風が庭の草を揺らしている。だが、その景色のどこにも鳥は止まっていない。


「……太平洋戦争は壮絶だったそうですからね」


 ローズが静かに言った。少ししっとりとした空気になった。


 代わりに、オパールが話題をずらすように本をつついた。


「しかしこの親父さん、五十代くらいでしょ? この歳で徴兵は体力的に考えにくいし……元々職業軍人なのかな?」


「そう考えるのが自然かも」


 ベアトリスが頷く。


「……そういえば、この一家、日本の首都トーキョーの更に高級住宅地であるセタガヤって所に住んでる設定だったわね」


 ローズがメモを見返しながら言う。マリッサが目を細めた。


「つまり結構な高給取り」


「……あれ、この親父さん。結構な高位軍人って事……?」


 オパールの言葉に、四人の顔が少しずつ険しくなっていく。ローズが考え込んだ。


「士官学校出のエリート……下手すると佐官クラス」


「うちの隊長、少佐だったよね?」


 ベアトリスが言う。マリッサがすぐに補足した。


「しかも厳密には軍人扱いじゃない『少佐相当官』。ネクロディア様の依代として、貧民街から連れてこられた訳だし」


「待って」


 オパールが辞典を持ったまま固まる。


「下手するとこの親父さん、もしかしてうちの隊長より偉い人だって可能性あるの!?」


「当時の日本軍の編成までは詳しくないけど……自分の部隊持ってた可能性もありそう」


 ローズの言葉に、四人はまた同時に黙り込んだ。


 しばしの静寂のあと、ベアトリスがぽつりと漏らす。


「……波平さん、すげぇ」


「まさかの尊敬ポイントそこ?」


 マリッサが吹き出す。オパールも笑いをこらえきれず肩を震わせた。


「いやでも分かる。あの見た目で高位軍人疑惑は強い」


「しかも帰還後に平和な家庭へ復帰してる……」


 ローズが本を閉じ、妙にしみじみとした顔になる。


「それ、私達にはちょっと眩しすぎるわね」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 帰還。


 安寧。


 平和。


 元の場所に戻るということ。


 その言葉の一つ一つが、今の彼女たちにはどこか遠い。


 だからこそ、ベアトリスはわざと明るい声を出した。


「まあ、私達には私達の家族がいるし!」


「雑な切り替え方」


「でも大事よ」


 オパールが笑う。


 マリッサも頷いた。


「戦争が終わったあとに、くだらない事を言い合いながら漫画読むって、結構贅沢だしね」


「……それもそうか」


 ローズは再び初版本を開く。辞典を引き寄せ、次のコマを指差した。


「よし、続きをやるわよ。次はこの台詞。お父さんたら……の辺り」


「日本語って、やっぱり面倒くさいなあ」


「そこが味なんですって」


「じゃあ今日中にもう2〜3話分は訳したいところね」


 四人はまた本の上に顔を寄せた。

 

 箱庭の図書室。


 虫も鳥もいない静けさの中で、戦争を駆け抜けた取り巻き令嬢たちは、遠い異国の戦後ホームコメディを辞典片手に読み解いていった。

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