2025年4月7日(月)
あの夜のあと、家の中が急に別の場所みたいになったわけではなかった。
朝はちゃんと来るし、いつきさんはコーヒーを淹れる。御子神さんはごはんの時間になれば当然みたいな顔で現れて、食べ終われば満足そうに毛づくろいを始める。
私も起きて、顔を洗って、制服を着て、学校へ行く準備をする。
ただ――何も変わっていないふりだけは、もうできなかった。
机の上に置いてあった財布を手に取る。
誕生日にもらった、明るい茶色の革財布。内側にある小さな猫の型押しを、親指でそっとなぞった。
鞄にしまう。
それだけで、少しだけ気分がいい。
「和葉、そろそろ出る時間だろ」
部屋の外から声がして、慌てて鞄を肩に掛けた。
「はい、今行きます」
リビングへ出ると、いつきさんはいつもの席にいた。
トーストの皿と、簡単な卵料理。湯気の立つマグカップ。見慣れた朝の景色だ。
でも、見慣れているのに、やっぱり少しだけ違う。
目が合う回数とか、言葉の切れ目とか。
今まで通りにしようとしているのに、ちゃんと今まで通りではいられない、みたいな違いだった。
「忘れ物は」
「大丈夫です」
「定期」
「あります」
「筆箱」
「入れてます」
「財布」
そこで私は、ほんの少しだけ笑った。
「それも、ちゃんと」
鞄の上から軽く押さえる。
いつきさんは一度だけそっちを見て、小さく頷いた。
「ならいい」
それだけなのに、少し嬉しい。
朝食を食べて、靴を履く。
今日から新学期。教室も、先生の話も、たぶん普通に始まる。
でも、私は少しだけ違う。
待つだけじゃなくて、自分でも頑張ると決めた。その違いは、ちゃんとある。
「行ってきます」
「ああ。行ってらっしゃい」
ドアを開けかけたところで、背中に声が飛んできた。
「無理はするなよ」
振り返る。
いつきさんは玄関までは来ていなかったけれど、こっちを見ていた。
「はい」
そこで少し迷ってから、笑う。
「でも、ちょっとだけ頑張ってきます」
いつきさんは怪訝そうに眉を動かした。
けれど、理由までは聞いてこなかった。
外へ出る。
春の朝の空気はまだ少しひんやりしていて、でも冬ほどではない。通学路の桜はもう葉が混じり始めていて、足元には薄い花びらが何枚か落ちていた。
学校に着いてしまえば、あとは早かった。
始業の挨拶。担任の話。配られるプリント。
新しいクラスといっても、顔ぶれはそこまで変わらない。三年生になった実感も、最初はまだ薄かった。
昼休み、お弁当を広げたところで、歩ちゃんが机に肘をついた。
「で」
その一言で、何の話か分かる。
「……何が」
「何が、じゃないでしょ。ちゃんと言えたんでしょ?」
私はお箸を持ったまま、小さく頷いた。
「言えたよ」
「おおー」
歩ちゃんが顔を明るくする。
その横で、朱鷺子が呆れたようにため息をついた。
「声の大きさを少し考えなさい」
「教室中に言いふらしてるわけじゃないし」
「歩はそのうち顔に出るのよ」
二人のやりとりに、少しだけ笑う。
こういうところがいつも通りだと、こっちまで落ち着く。
「で、返事は?」
歩ちゃんが身を乗り出す。
今度は朱鷺子も止めなかった。
私は少しだけ息を整えてから答える。
「……気持ちは、ちゃんと受け取るって言ってくれた」
「うんうん」
「でも、卒業までは急がないって。そこは譲れないって」
歩ちゃんが、なんとも言えない顔で笑った。
「うわ、弓削さんだ」
「すごく弓削さんね」
朱鷺子まで頷くので、少しおかしくなる。
「でも、ちゃんと返してくれたんでしょ?」
「うん。ごまかさないって。なかったことにもしたくないって」
それを聞いて、朱鷺子が静かに頷いた。
「なら十分じゃない」
短い言い方だったけれど、そのぶんまっすぐだった。
歩ちゃんがそこで、にやっと笑う。
「じゃあ次。和葉、ここからどうするの?」
「どうするって……」
「待つだけ?」
私はお弁当箱の端を見たまま、少し考えた。
あの夜に言ったことは、勢いじゃない。今も変わっていない。
「……待つだけにはしない」
「お」
「ちゃんと、好きになってもらえるように頑張るって言ったから」
言ってしまうと、歩ちゃんが机を軽く叩いた。
「よし。じゃあ小さいところから攻めよう」
「攻めるって言い方……」
「でも大事だよ? いきなり大技はだめ。日常の中でちょっとずつ」
そこで朱鷺子が口を挟む。
「その点は同意。弓削さんが引かない範囲で、断られても空気が壊れないやつからにしなさい」
「たとえば?」
私が聞くと、歩ちゃんが待ってましたみたいな顔をした。
「ただいまのハグとか」
「歩、それは少し強い」
「強くないって。キスって言ってないだけ理性的でしょ」
「比較対象が雑すぎるのよ」
「でも、家の中で完結するし、“おかえり”“ただいま”の流れで自然じゃない?」
その言葉で、私は少し黙った。
ただいま。
おかえり。
あの言葉は、私にとってずっと特別だった。
だからその続きに、小さなご褒美があるのは――たしかに、悪くない気がする。
「……ハグくらいなら」
「お、乗った」
「乗ってない。考えただけ」
「だいぶ乗ってるよ、それ」
歩ちゃんが楽しそうに笑う。
朱鷺子はやれやれという顔をしながらも、少しだけ口元を緩めていた。
「まあ、試すならそれくらいでしょうね。弓削さんが駄目って言うなら、それ以上は押さないこと」
「うん」
「でも、言ってみる価値はあると思う」
その一言に、私は少しだけ背筋を伸ばした。
放課後。
昇降口を出て一人で歩きながら、私はさっきの会話を思い返していた。
いってきますや、ただいまのキスなんてものは、創作の中ではよくある。たぶん。
でも、それはまだ早い。そこはちゃんと分かっている。
だったら、もっと穏当なもの。
今の私たちに合っていて、でもちゃんと特別なもの。
頑張るには、ご褒美も必要だ。
一日頑張ったあとに「おかえり」と一緒にもらえたら、それだけで明日も頑張れる気がする。
家の前まで来て、深呼吸をひとつした。
鍵を差し込む音が、やけに大きく聞こえた。
「ただいま」
扉を開けると、すぐ奥から声が返ってくる。
「おかえり」
その一言で、今日一日の疲れが少し軽くなった。
***
【弓削視点】
あの夜からまだ一週間も経っていない。
だが、家の中の空気は少しずつ落ち着いてきていた。
何かを劇的に変えたわけじゃない。
手を繋いだのも、あの夜の一度きりだ。恋人らしいことを始めたわけでもないし、始めるつもりもない。
それでも、以前より少しだけ言葉を選ぶようになったし、和葉のほうも前より遠慮なく視線を寄越してくるようになった。
触れ合うほどの変化ではない。ただ、同じ部屋にいるときの空気が、わずかに変わった。
ただ、告白を受け取ったという事実だけは消えなかった。
消えない以上、今まで通りで済ませるわけにもいかない。かといって、急に距離を詰めるのも違う。
そんな曖昧な均衡の中で迎えた、新学期の初日だった。
仕事を一段落させて、味噌汁の火加減を見ていたところで、玄関が開く音がした。
「ただいま」
すぐに声を返す。
「おかえり」
制服姿の和葉が、鞄を肩に掛けたまま顔を出す。
朝より少しだけくたびれているが、表情は悪くない。むしろ、何かをやりきった顔をしていた。
「どうだった」
「普通に疲れました」
「それは何よりだな」
「何よりなんですか」
「初日から元気いっぱいでも逆に心配だろ」
「それはそうですけど」
靴を脱いで上がってくる。
御子神さんが足元へ寄っていき、軽く一鳴きした。
「ただいま、御子神さん。いい子にしてましたか」
しゃがんで頭を撫でると、御子神さんは当然みたいな顔で喉を鳴らし、そのまま満足したのかこたつのほうへ歩いていった。
「着替えてこい。飯はもう少しでできる」
「はい」
返事をして、和葉は部屋へ入る。
いつも通りの流れだった。
ただ、数分後に戻ってきたときの顔が、少しいつも通りじゃなかった。
制服から部屋着に着替えた和葉は、こたつの横で一度立ち止まる。
何か言いたそうにしているくせに、なかなか口を開かない。
「なんだ」
「……あの」
「うん」
「一日頑張ったので、ご褒美を要求してもいいですか」
意味が分からず、手を止めた。
「何の話だ」
「ご褒美の話です」
「それは聞けば分かる」
和葉は小さく咳払いをして、妙に真面目な顔で続けた。
「いってきますや、ただいまのキスってあるじゃないですか」
「……創作の中ではな」
「さすがにそれがまだ早いのは分かっています」
「分かってるなら言うな」
「ですので、ハグを要求します」
思わず眉間を押さえたくなった。
「急に飛んだな」
「飛んでません。かなり順当です」
「どこがだ」
「スキンシップは大事です。コミュニケーションの一環です」
「妙な理屈を覚えたな」
「それと」
まだあるのか、と目で促す。
「頑張るには、ちゃんとご褒美が必要です」
「誰の理論だ」
「私のです」
真顔で言い切る。
正論でもなんでもない。ただのこじつけだ。
だが、朝から学校へ行って、帰ってきて、そうやって少し胸を張って言われると、頭ごなしに退けるのも違う気がした。
ただいまとおかえりの間に交わす短いハグは、親愛とも愛情とも、まだどちらにも取れる。
そう思うと、拒み切るだけの理屈も少し曖昧になる。
しかも、こいつはそれを分かったうえで言っている顔だった。
「……長いのはなしだぞ」
和葉の目が、ぱっと明るくなる。
「短めなら?」
「短めなら」
「やった」
小さく拳を握るな。
勝ったみたいな顔をするな。
和葉は一歩だけ近づいてきて、それから、こちらを見上げた。
「お願いします」
言い方だけ急に素直になるのは、ずるい。
軽く息を吐いて、腕を広げる。
和葉は一瞬だけ目を丸くしてから、遠慮がちに身体を寄せてきた。
抱きしめる、というほど強くはない。
こちらも、あくまで短く、軽く。そう思って受け止めた、その次の瞬間。
和葉が額のあたりを胸元へそっと寄せてきた。
そのまま、一度だけ小さく擦り寄る。
どこかで覚えのある仕草だと思って、すぐに気づいた。
――御子神さんが、機嫌のいいときによくやるやつと同じだ。
「……お前な」
呆れたような声は出たが、腕を離す理由にはならなかった。
「駄目でしたか」
胸元に額を預けたまま聞いてくる。
「いや」
「よかったです」
声が少し弾んでいる。
その様子が、余計に猫じみて見えて困る。
数秒で区切るつもりだったのに、思ったより早く引き離せない。
ようやく肩を軽く押して離すと、和葉は満足したように顔を上げた。
「これで、また頑張れます」
「安いな」
「手頃で継続可能です」
「継続前提で話を進めるな」
「でも、毎回とは言ってません」
「言外に含めるのをやめろ」
和葉は笑っている。
頬が少し赤いのは、帰り道の風のせいだけじゃないだろう。
「……ありがとうございます」
今度は、さっきより少し小さな声だった。
「どういたしまして、とでも言えばいいのか」
「そこはお任せします」
「便利な逃げ方を覚えたな」
「頑張ってますから」
そう言って、和葉はこたつへ向かう。
そこでふと思い出したように振り返った。
「……それと」
「まだあるのか」
「あります」
即答するな。
「今度、また長い休みに――二人で旅行に行きたいです」
今度は別の意味で言葉に詰まった。
「気が早いな」
「先の楽しみがあったほうが、頑張れるので」
さっきから頑張る理由付けに抜かりがない。
感心するべきか呆れるべきか迷う。
「受験生ってことを忘れるなよ」
「忘れてません」
「なら、その話は受験が終わってからだ」
和葉の目が、期待するみたいに少し細くなる。
「……前向きに検討、ですね」
「勝手に都合よく解釈するな」
「でも、却下ではないですよね」
「順番を間違えるなって言ってるんだ」
そう返すと、和葉はふっと笑った。
「はい。じゃあ、ちゃんと順番通りに頑張ります」
その言い方に、変な悲壮感はない。
ただ前を向いているだけだ。
こたつの横で御子神さんが丸くなる。
カーテンの隙間から差し込む夕方の光が、床とこたつ布団の端を淡く照らしていた。味噌汁の湯気はまだ残っていて、鍋の蓋が小さく鳴る。
行ってきますと、ただいま。
おかえりと、ご飯の匂い。
そういうものを一つずつ積み重ねていけば、その先はその先で考えればいい。
大げさな約束なんて、今はいらない。
もう、なかったことにはならない。
こたつの横では、和葉が御子神さんを撫でながら、さっきの続きを胸に隠したみたいな顔で笑っている。
鍋の蓋がまた小さく鳴って、夕方の光が床を少しずつ細くしていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ひとまず本作は、今回で一区切りとさせていただきます。
長いあいだお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
ここまで書いてこられたのは、読んでくださる皆さまのおかげです。
今後については、設定変更に伴う時系列や細かなズレを整理したうえで、改めて再開できればと考えております。
少し間が空くかもしれませんが、もし再開の際にもお付き合いいただけましたら、とても嬉しいです。
ここまで見守ってくださり、本当にありがとうございました。




