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2025年4月1日(火)

 食器を洗い終えて、布巾で手を拭く。


 背中のほうで、脱衣所の戸が閉まる音がした。先に風呂へ行った和葉は、しばらく戻ってこないだろう。


 こたつの上には、さっき渡された封筒が置かれていた。


「あとで、読んでください」


 渡すとき、和葉はそう言っていた。

 誕生日の手紙。そう思えば、不自然なことはない。


 椅子を引いて、こたつに戻る。

 エアコンの風が一定の音を立てていて、部屋は静かなままだった。


 封を開ける。


 中に入っていた便箋は、少し黄みを帯びたやわらかい色をしていた。

 並んでいるのは見慣れた字だ。けれど、いつもより少しだけ丁寧に整えられているようにも見える。


 最初は、やはり感謝の言葉だった。


 あの日のこと。

 施設に会いに行ったこと。

 一緒に暮らし始めてからのこと。

 飯のこと、学校のこと、御子神さんのこと。


 どれも、何気ない日常の積み重ねだ。


 読みながら、自然とその時々の光景が浮かぶ。

 別に大したことをしたつもりはない。必要だと思ったことを、その都度やってきただけだ。


 ――でも、それをこうして一つずつ拾い上げて書かれると、妙に落ち着かない。


 和葉らしい、まっすぐな文だった。飾り気はないのに、たぶん言葉を選んで何度も考えたのが伝わってくる。


 読み進めていくうちに、少しだけ手が止まった。


 これからは、少しずつ隣に並べるようになりたいです。


 そこだけ、少しだけ響きが違った。

 感謝の手紙のはずなのに、重心がずれている気がする。


 けれど、まだそこに名前はつけられない。


 最後の一文に目を落とす。


 手紙にすると少し違ってしまいそうなことは、あとでちゃんと話したいです。


 短い一行だった。

 それなのに、その前までのどの文より強く引っかかった。


 便箋を静かに畳み直す。

 指先に紙の感触が残ったまま、しばらく動けなかった。


 考えすぎかもしれない。

 節目の日だ。少し感傷的になっているだけとも考えられる。


 だが、最後の一文だけは、どうしても頭の片隅から離れなかった。


 やがて、脱衣所の戸が開く音がした。


 風呂上がりの湿った空気と一緒に、和葉が戻ってくる。

 いつものようにパーカーを羽織って、タオルで髪を拭きながら、こたつの横まで来た。


 そのまま俺の隣に座る。


 いつも通りの距離。

 いつも通りの部屋。

 なのに、さっきまでとは空気が違う。


「……あのね」


 小さい声だった。

 けれど、冗談でも甘えでもない。腹を決めた声だった。


 反射的に顔を向ける。


 和葉はタオルを膝に置いたまま、まっすぐこちらを見ていた。


「今日、わがままを言いたくて――」


「……え?」


 意味が追いつかないまま問い返す。


「あなたのことが、心から好きです」


 その言葉が、胸の内側に静かに落ちた。


 和葉は視線を逸らさない。

 逃げる気も、ごまかす気もない顔だった。


「ほんとは、ずっと前から好きでした。

 でも、それを言ったら困らせるって思ってたし、迷惑になるとも思ってました。

 こんなに良くしてもらってるのに、それ以上を望むのは、わがままだって。だから、言わないでいようって決めてたんです」


 途中で声が揺れそうになりながらも、崩れない。

 言葉の一つ一つに、溜め込んできた時間が乗っていた。


「でも、今日はちゃんと伝えたくて。

 手紙だけだと、少し違う気がしたから」


 そこでようやく、最後の一文の意味が繋がる。


 感謝じゃなかったわけじゃない。

 けれど、それだけでもなかった。


「これが、私のわがままです」


 言い切ったあと、部屋が静かになった。


 エアコンの音だけが続いている。

 こたつ布団の端が、風にわずかに揺れた。


 すぐには言葉が出てこなかった。


 嬉しいとか、困るとか、そんな単純な言葉じゃ整理できない。

 ただ、和葉が逃げずにここまで言った。その事実だけが、重く、まっすぐに残る。


 しばらくして、ようやく口を開いた。


「……和葉」


「はい」


「まず、言ってくれてありがとう」


 その一言で、和葉の肩から少しだけ力が抜けたのがわかった。


「聞かなかったことにはしない。

 ごまかして、なかったことにもしない」


「……はい」


「そのうえで言う」


 一度、息を整える。


「お前のことは、大事だ。かなり前から。

 たぶん、俺が思ってたよりずっと」


 和葉の目が、わずかに見開かれる。


「でも、今この瞬間に、お前と同じ言葉をそのまま返せるかと言われたら、そこはまだ正直に言い切れない」


 それを聞いた和葉は、ほんの少しだけ息を詰めた。

 それでも目は逸らさなかった。ちゃんと聞くつもりでいる顔だった。


「お前は学生だ。

 俺はそこを曖昧にしたくない。

 勢いで何かを変えるのも違うし、線をなあなあにするつもりもない」


 自分で言いながら、言葉が硬いのはわかっていた。

 だが、ここを曖昧にするのはもっと違う。


「だから、学生のあいだは急がない。

 一線も越えない。

 そこは譲れない」


 和葉は、膝の上の手をきゅっと握ったあと、小さく頷いた。


「……はい」


「待ってもらう形になる」


 言ってから、少し間を置く。


「そこは悪いと思ってる。

 先に言わせておいて、格好のいい話じゃないのも分かってる」


 和葉が、少しだけ困ったように眉を下げた。


「……そんなふうに、謝らないでください」


「いや、そこは言っておくべきだ」


 俺がそう返すと、和葉は口をつぐんだまま、続きを待った。


「でも、そこを曲げる気はない。

 お前の気持ちを大事にしたいからこそ、そこは雑に越えたくない」


 今度の頷きは、さっきよりゆっくりだった。


「……うん。分かります」


「それと」


 続きを言う前に、和葉が息を呑む。


「気持ちはちゃんと受け取る。

 お前が俺を好きだと言ってくれたことを、俺は嬉しいと思ってる」


 その瞬間、和葉の表情がやっと崩れた。

 張っていた糸が切れたみたいに、目元が少し緩む。


「……よかった」


 小さくこぼれた声は、泣きそうなのに、ちゃんと笑っていた。


「正直、すごく怖かったです」


「だろうな」


「困らせるのも、分かってたので」


「困ってはいる」


「そこは困るんですね」


「そりゃ困るだろ。俺を誰だと思ってる」


 思わず返すと、和葉が少しだけ笑う。

 その笑い方で、こっちの肩からも少し力が抜けた。


「でも、困ってるのと嫌なのは別だ」


「……はい」


「卒業までは、関係の名前を急いで決めるより、どう向き合うかを考えたい。

 今までより少しだけ、誤魔化さずに。そういう感じだ」


「どう向き合うか……」


「お前がちゃんと学校を終えて、自分の足で前に進むこと。

 俺はその隣にいる。

 まずはそこだと思ってる」


 和葉はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。


「……じゃあ」


「ん?」


「家族以上、恋人未満とか」


 思わず眉が寄る。


「その言い方だと、進んだ先で結局家族になるんじゃないか?」


 一拍遅れて、和葉が固まる。


「……それって、結婚ですか!?」


「物のたとえだ」


「たとえが強いです」


「お前が変な分類を持ち出すからだろ」


 和葉は頬を熱くしたまま、でもさっきまでよりずっと自然に息をしていた。


「でも……振られたわけじゃ、ないんですね」


 そこを確認するのか、と思う。

 けれど、今の和葉にはたぶんそれが一番大事なのだろう。


「振ってない」


「保留でもない?」


「逃げ道を塞ぐな」


「大事なところです」


 真顔で言うな、と思う。

 だが、そのしつこさが少しだけ可笑しかった。


「……保留で逃げるつもりもない。

 急がないで進めたい、だな」


「分かりました」


 返事が妙に素直で、逆に身構える。

 そして案の定、その次が来た。


「じゃあ、私も待つだけにはしません」


「ん?」


 和葉は、一度だけ呼吸を整えた。


「今のいつきさんの気持ちが、そういう意味ではまだ私に追いついてないの、分かってます。

 だから――ちゃんと頑張ります」


「何をだ」


「いつか、いつきさんのほうから同じ言葉を返してもらえるように」


 思わず言葉に詰まる。


「……お前な」


「本気です」


 あまりにも迷いがなくて、こっちのほうがたじろぐ。

 和葉はたぶん、告白したことで終わるつもりじゃないのだ。


「……ほどほどにな」


「それは善処します」


「まるで善処する気がない返事だな」


「でも、急がせたりはしません」


 その言い方は、さっきより少しだけ柔らかかった。


「待つだけじゃなくて、ちゃんと頑張りたいんです」


 押しつけるでも、試すでもなく、ただまっすぐ前を向いている。


 そういうところが、ずるい。


「……そういう言い方は、反則だろ」


「本気です」


「知ってる」


 そこで和葉が、ようやく少し大きく笑った。


 張り詰めていた空気が、そこでやっとゆるむ。


「……そういえば」


「はい?」


「今日、四月一日だったな」


 一拍おいて、和葉が目をぱちぱちさせる。


「……はい」


「タイミングが悪い」


「最初から本気です」


「顔を見ればわかる」


 そう返すと、和葉が少しだけ頬を膨らませた。


「じゃあ言わなくていいじゃないですか」


「あとから思い出しただけだ」


「性質が悪いです」


「お互い様だろ」


「私は勇気を出して告白した側なんですけど」


「そこは認める」


「なら、もう少し優しくしてください」


「だいぶ優しくしたつもりだが」


「まだ足りません」


 言いながら、和葉の手がこたつの上で少しだけこちらに寄ってくる。

 触れるか触れないか、その少し手前で止まった。


「……これくらいなら」


 確認する声は、さっきまでよりずっと小さかった。


 俺は一度だけその手を見て、それから自分の手を少し動かす。

 逃がさないように、でも強く握りすぎないように、指先を包む。


 和葉が小さく息を呑んだ。


「これくらいなら」


 同じ言葉で返すと、和葉は今度こそ、ちゃんと笑った。


「……緊張しました」


「見ればわかる」


「いつきさんも、少し顔固かったです」


「こっちも緊張してたからな」


「それ聞けて、ちょっと安心しました」


 握った指先は、風呂上がりのせいかまだ少し温かい。

 その熱が、じわじわこちらにも移ってくる。


 言うことはまだいくらでもあるはずなのに、今はもう無理に足さなくていい気がした。


 足元で、いつの間にか来ていた御子神さんが、こたつ布団の影にもぐりこんで丸くなる。

 エアコンの風が天井近くでかすかに鳴って、壁の時計がひとつ先の時間を刻んだ。


 和葉の指先が、握られたままほんの少しだけ力を返してくる。


 春の夜の湿った空気は、もう部屋になじんでいた。

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