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Side:和葉 2025年4月1日(火)

 誕生日の朝は、思っていたよりも静かに始まった。


 目が覚めて最初に見えたのは、薄いカーテン越しの春の光だった。白っぽい天井、ロフトの柵、布団の端。何も特別なものはないのに、今日だけは起きた瞬間から、胸の内側が少し落ち着かなかった。


 四月一日。

 十八歳の誕生日。


 布団の中で小さく息をついてから起き上がる。スマホの画面には、零時を回ってすぐ届いていたメッセージが並んでいた。


 歩ちゃんからは、やたら派手なお祝いスタンプと一緒に、


『お誕生日おめでとー!! 今夜がんばれ!』


 朱鷺子からは、


『誕生日おめでとう。言うなら今日でしょう』


 短い二通。


 それを見ただけで、顔が少し熱くなる。

 朝から心臓に良くない。


 顔を洗って部屋に戻ると、仕事机に向かったままのいつきさんが、コーヒーを置いてこちらを見た。足元では御子神さんが丸くなっていて、こちらに気づくと尻尾だけを一度揺らす。


「誕生日おめでとう」


 あまりに普通の声で言われて、一瞬だけ返事が遅れた。


「……ありがとうございます」


「十八だな」


「はい」


「実感は」


「まだあんまり」


「だろうな」


 それで会話は途切れた。

 でも、それが嬉しかった。大げさな演出も、変に改まった空気もなくて、いつきさんらしい言い方だったから。


 台所に立って朝食の用意を手伝う。味噌汁の湯気が上がって、卵焼きの端が少しだけ焦げて、御子神さんが足元をうろうろする。何でもない朝だ。何でもないはずなのに、今日はその一つ一つが妙にくっきり見える。


 今日、言う。


 そう決めているのに、その事実だけが、朝からじわじわと体の奥を落ち着かなくさせていた。


 ***


 日中は、これといって大きな予定はなかった。


 学校はまだ休みで、友達と会う約束も入れていない。午前中のうちに軽く掃除をして、洗濯物を干して、昼を簡単に済ませる。スマホを見ればまた歩ちゃんから追撃みたいなメッセージが来ていて、『逃げるなよー』とだけ書いてあった。既読だけつけて伏せる。


 逃げたいわけじゃない。

 ただ、落ち着かないだけだ。


 鞄の中には、昨日書いた手紙が入っている。

 何度も読み返して、結局それ以上は直さなかった。少し拙くても、自分で書いた言葉のまま渡したかったから。


 昼過ぎ、いつきさんが上着を取って立ち上がった。


「少し出てくる」


「買い物ですか?」


「そのへん。すぐ戻る」


 理由までは言わなかったけれど、たぶんケーキだろうと思った。

 口に出したら、その想像まで本当になってしまいそうで、私は「いってらっしゃい」とだけ返す。


 玄関のドアが閉まったあと、部屋の中が少しだけ広くなった気がした。


 私は一人でこたつに座り、鞄の口を開ける。封筒の角を指先でなぞって、すぐにまた閉じる。今日それを渡す。もう決まっている。それなのに、自分で決めたことが、自分の手の中でいちばん重かった。


 夕方前、いつきさんは紙袋を二つ提げて戻ってきた。ひとつはたぶん食材で、もうひとつは白い箱の角が少し見えている。


「ただいま」


「おかえりなさい」


「少し手伝え」


「はい」


 そこでようやく、今日が少しずつ特別な日に近づいていく。


 ***


 夕食は、いつもより品数が少しだけ多かった。


 大げさなごちそうというほどではない。けれど、並んだ皿を見れば、今日のために少し手をかけてくれたのだと分かる。湯気の立つ汁物、焼き色のついた主菜、小鉢が二つ。箸を取る前から、丁寧に整えられた食卓だった。


「冷める前に」


「はい」


 向かい合って食べながら、私は何度も、鞄の中の封筒のことを思い出していた。

 落ち着かないのに、食事はちゃんと美味しい。そんな当たり前のことまで、あとで思い返したら全部覚えていそうで困る。


 夕食のあと、白い箱がこたつの上に置かれた。


 苺の乗った小さめのホールケーキ。ろうそくはなかったけれど、それで十分だった。箱を開けた瞬間に広がった甘い匂いだけで、誕生日らしさはちゃんと届く。


「改めて、おめでとう」


「……ありがとうございます」


 ケーキを切り分ける手元を見ながら答える。

 フォークを入れる角度まで妙に鮮明で、変なところばかり記憶に残りそうだった。


 食べ終わって、皿を重ねたところで、いつきさんがテーブルの横から小さな箱を出した。


「これも一応」


「え」


「誕生日なんだから、何もなしってわけにもいかないだろ」


 差し出された箱は、掌に収まるくらいの大きさだった。

 受け取る指先が少しだけ震える。


 蓋を開けた瞬間、ふわりと革の匂いがした。


 明るめの茶色の財布。

 派手な飾りはない。手に取るとやわらかくて、でも芯はちゃんとある。内側の端にだけ、小さく猫の型押しが入っている。


 見た瞬間、分かった。


「……あの店の、ですよね」


「分かるか」


「匂いで」


 思わずそう答えると、いつきさんの口元が少しだけ緩んだ。


 商店街の、あの革小物の店。

 去年、いつきさんの誕生日に、猫の刻印の入ったキーケースを選んだ店だ。


 それと同じ空気のものを、今度はいつきさんが私に選んでくれた。


「今使ってるの、だいぶくたびれてただろ」


「まだ使えますよ」


「使えなくなる前に替えとけ」


 いかにもいつきさんらしい言い方だった。

 でも、その言い方の中に、ちゃんと見てくれていたことが滲んでいた。


 財布の角が少し擦れていること。

 小銭入れのボタンが前より甘いこと。

 何も言っていないのに、そういう小さな変化まで気づいていたんだと思う。


「……ありがとうございます。すごく嬉しいです」


「ならよかった」


 その一言までいつも通りで、だからこそ、こちらばかりが落ち着かなくなる。


 ***


 しばらくして、私は鞄の中の封筒にそっと手を伸ばした。


「いつきさん」


「ん?」


「これ……あとで読んでください」


 差し出した封筒を、自分でもあまり見ないようにしていた。

 薄い青の丸いシールが、やけに目立つ気がする。


「手紙?」


「はい。その……少し、伝えたいことがあって」


 いつきさんは封筒を受け取って、表と裏を一度見た。


「今読むか?」


「い、今じゃなくて大丈夫です」


 ほとんど反射でそう言っていた。

 目の前で読まれたら、たぶんその場で逃げ出したくなる。


 そんな顔をしていたんだと思う。

 いつきさんは少しだけ間を置いてから頷いた。


「じゃあ、あとで読む」


「……はい」


 それだけで、耳まで熱くなる。


 せめてもう少しだけ普通にしていようと思った。

 皿を流しに運んで、ケーキ箱を片づけて、普段通りの顔をして。


 でも、無理だった。


「……私、先にお風呂いただきます」


 逃げるみたいに言って立ち上がる。

 後ろから「転ぶなよ」と声がした。それがいつも通りすぎて、余計に困る。


 ***


 湯船に浸かっても、全然落ち着かなかった。


 手紙は渡した。

 もう渡した。

 そこまではできた。


 なのに、本番はまだこのあとだ。


 湯気の中で目を閉じて、何度も深呼吸をする。

 お湯の音だけが小さく響いていて、その静けさの中で自分の心臓だけがやたらとうるさい。


 手紙に書いたのは、ここまでのことだ。

 ありがとうと、何でもない毎日のこと。

 守ってもらってきたことと、これからは少しずつ隣に並べるようになりたいこと。


 でも、それだけじゃ足りない。


 一番大事な言葉だけは、紙に書きたくなかった。


 好きです。


 その一言だけは、ちゃんと自分の口で言いたかった。


 お湯に肩まで沈んで、目を閉じる。

 大丈夫、と言い聞かせても、全然大丈夫じゃない。喉の奥が乾いて、指先まで変に熱い。


 それでも、今日言わなかったら、たぶんずっと言えない。


 ***


 風呂から上がって、髪を拭きながらパーカーを羽織る。


 いつもの部屋着。

 いつもの夜。


 鏡の前で一度だけ立ち止まる。

 頬が赤いのは、お風呂のせいだけじゃない。


 手紙だけでは足りない。

 ちゃんと、自分の口で言う。


 そう決めて、私はリビングへ戻った。


 ***


 エアコンの音が小さく鳴っていた。

 春の夜はまだ少しだけ冷える。湿った髪の先が首筋に触れるたび、ひやりとする。


 こたつの上には、読み終えたらしい封筒が置かれていた。


 いつきさんは、さっきと同じ場所に座っていた。

 でも、手紙を渡す前と同じ空気では、もうなかった。


 私はその隣に、いつものように腰を下ろす。

 膝の上にタオルを置いて、指先をぎゅっと握る。


 喉が渇いていた。

 でも、水を取りに立つ余裕なんてなかった。


「……あのね」


 声に出した瞬間、自分でも分かった。


 もう後戻りはできない。


 いつきさんがこちらを見る。

 その視線を受け止めたまま、私は息を吸った。


「今日、わがままを言いたくて――」


 少しだけ唇が震える。

 それでも逸らさない。逸らしたら、もう言えない気がした。


「あなたのことが、心から好きです」

本日はもう1話投稿予定です。

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