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Side:和葉 2025年3月31日(月)

 引き出しを開けなくても、そこに便箋があるのが分かった。


 前にしまった場所を、朝から何度も思い出してしまう。

 三月最後の日。まだ何もしていないのに、今日はもう普段通りではいられなかった。


 仕事机の方からは、キーボードを打つ音が聞こえる。御子神さんが床を歩く小さな爪音も、台所で湯が沸く気配も、全部いつも通りだった。


 いつも通りなのは、私以外だけだった。


「今日も出かけるのか?」


 いつきさんが画面から目を離さないまま聞く。


「少しだけ」


「図書館?」


「たぶん、そのへんです」


 曖昧な返事だったけれど、いつきさんはそれ以上聞かなかった。


「了解。気をつけてな」


「はい」


 それだけのやり取りなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。

 今日の私は、引き出しの中の白い紙にずっと急かされている。


 朝食のあと、洗い物を手伝って、御子神さんの水を替えて、少しだけ机に向かった。

 けれど、文字はほとんど頭に入ってこない。


 便箋を買った日から、もう書くと決めていた。

 迷っていない、つもりだった。

 それなのに、いざ今日になってみると、白紙の便箋は前に思っていたよりずっと重く感じる。


 家ではたぶん書けない。

 同じ部屋にいつきさんがいるだけで、まだ何も書いていない紙まで見透かされそうな気がしてしまう。


 昼前、私は鞄の中に便箋の袋とペンを入れて、ようやく家を出た。


 ***


 図書館に本を返して、そのまま駅前まで歩く。


 最初は図書館の自習席で書こうかと思った。

 でも、静かすぎる場所で便箋を広げる勇気が出なくて、結局、大通りから一本入ったところにある小さな喫茶店へ入った。

 いつもの店まで行く気にはなれなかった。落ち着く場所ではあるけれど、今日は少し近すぎる気がした。


 平日の昼前で、店内はまだ空いている。

 窓際ではなく、少し奥まった二人席を選ぶ。紅茶を頼んで、カップが来るまでのあいだに、鞄の中から便箋の袋を取り出した。


 生成り色の便箋。右下にだけ、小さな猫のシルエットが入っている。

 派手ではないのに、何もないわけでもない。たぶん、そういうのがよかった。


 封を開けて、一枚だけ出す。


 紙に触れた瞬間、前よりもずっと現実味が増した。


 書く。


 そう決めていたはずなのに、最初の一行で止まる。


 いつきさんへ


 そこまでは書けた。

 問題はその先だった。


 ありがとうございます。

 書いて、止まる。


 違う。


 間違ってはいない。

 でも、それだけだと役所に出す文書みたいだった。


 線を引いて、二枚目を出す。


 いつもありがとうございます。

 今度は少しだけやわらかい。でも、やわらかいだけでまだ遠い。


 ペン先が止まったまま、私は紅茶の湯気の向こうをしばらく見た。


 あの日のことを書くかどうかで、まず迷う。


 雨の夜。

 あのとき声をかけてもらわなかったら、今の私はここにいない。

 それはたぶん、本当だ。


 でも、そこから書き始めると、全部が「あの日助けてもらったから」に戻ってしまう気がした。

 もちろん始まりはそこだった。けれど、今書きたいのは、それだけじゃない。


 思い出すのは、もっと細かいことばかりだった。


 朝、眠そうなまま台所に立っている背中。

 買い物帰り、重い方の袋を何でもない顔で持っていく手。

 私が勉強で詰まると、すぐ答えを言うんじゃなくて、「どこまで分かってる?」と聞いてくれるところ。

 御子神さんを撫でながら、猫相手なのに妙に真面目に話しかけている声。


 そういうものばかりが浮かぶ。


 派手なことなんて、たぶん一つもない。

 でも、気がつくと、そういう何でもない場面の方が、雨の夜よりずっと近い場所に積もっていた。


 数日前の買い物のこともそうだ。

 誕生日はどうする、と聞かれて、家がいいと答えてしまったとき、自分でも少し恥ずかしかった。近くにいたいと言っているみたいで。


 それでも、いつきさんは変にからかったりしなかった。


 ――じゃあ家だな。


 ただ、それだけだった。

 それだけなのに、あの一言がやけに嬉しかった。


 それに、いつきさんも少しずるい。


 こんなふうに大事にされて、特別にならない方が難しい。

 なのに、こっちが少し距離を詰めようとすると、やわらかくかわされる。


 ずるい、と思う。


 けれど、それがあの人なりの誠実さだということも、今の私はちゃんと分かっていた。


 だから、ありがとうだけでは違う。

 でも、ここで好きだと書いてしまうのも違う。


 好きです、は明日、自分の口で言いたい。


 そう思ったところで、ようやく手紙の役割が少しだけはっきりした。


 手紙に書くのは、ここまで積み重なってきたこと。

 手紙では足りないところを、明日、自分で言う。


 新しい便箋を一枚出して、私はもう一度書き始めた。


 いつきさんへ


 こうして手紙を書くのは、少し変な感じがします。

 同じ家にいるのに、わざわざ紙に書くのもおかしいかもしれません。

 それでも、先に伝えておきたいことがありました。


 そこまで書いて、少しだけ肩の力が抜けた。


 今度は、その先に続けられそうだった。


 今まで、たくさん支えてもらいました。

 最初に助けてもらったことも、そのあとずっと何でもない顔で一緒にいてくれたことも、私はちゃんと覚えています。

 ごはんを食べることや、買い物に行くことや、ただいまと言えることが、今の私にはとても大事です。

 何でもない毎日を一緒に過ごせることが、どれだけ嬉しいことかも、前よりずっと分かるようになりました。

 これからは、守ってもらうだけじゃなくて、少しずつでも隣に並べるようになりたいと思っています。


 そこまで書いて、またペンが止まる。


 恋の言葉ではない。

 でも、ただの感謝文でもない。


 たぶん、これでいい。


 少しだけ迷ってから、最後に一文だけ足した。


 手紙にすると少し違ってしまいそうなことは、あとでちゃんと話したいです。


 書いたあと、その一行をしばらく見つめていた。

 これなら、まだ逃げていないと思えた。全部を紙に押しつけてもいない。


 好きです、とは書かなかった。

 その代わり、そこへ向かうための言葉だけは置いた。


 カップの紅茶は少し冷めていた。

 でも、そのぬるさがちょうどよかった。


 ***


 喫茶店を出る頃には、空が少しだけ傾いていた。


 駅前を歩きながら、鞄の中の便箋がやけに重く感じる。

 数枚の紙のはずなのに、持っているだけで背筋が伸びるみたいだった。


 もう一度どこかで読み返そうかとも思った。

 けれど、あまり何度も直すと、たぶんもっと違うものになる。


 今日はこれでいい。


 そう決めて、帰り道の途中で小さな雑貨店に寄った。

 封の裏に貼るためのシールを一枚だけ選ぶ。花でも星でもなく、ただ薄い青の丸。主張しないけれど、白い封筒には少しだけ映えそうだった。


 それだけで十分な気がした。


 ***


 家に帰ると、玄関の向こうにはいつもの空気があった。


「ただいま」


「おかえり」


 机の方から返事が来る。

 それだけで、外で整えてきた気持ちが少し揺らぐ。


 それでも、今日はもう書き終えている。

 その事実が、少しだけ心強かった。


 夕飯までの時間、私は鞄を布団の近くに置いたまま、いつも通りに過ごした。

 台所で野菜を切る音。御子神さんの気まぐれな足音。テレビもつけていないのに、部屋の中には生活の気配がちゃんとある。


 この中に、明日渡す手紙がある。


 そのことが不思議で、少しだけ怖い。


 ***


 夜。

 いつきさんがお風呂に入っているあいだに、私は便箋をもう一度だけ開いた。


 昼に書いた字は、思っていたより落ち着いて見えた。

 家で読み返したらもっと恥ずかしくなるかと思っていたのに、そうでもない。


 たぶん、外で迷いきったからだ。


 便箋を丁寧に三つ折りにして、封筒に入れる。

 封筒の表に、いつきさんの名前を書く。たったそれだけのことなのに、明日の夜にこれを手渡す場面まで、急にはっきり思い浮かんだ。


 少しだけ息が詰まる。

 それでも、手は止まらなかった。


 封の裏を閉じて、買ってきた薄い青の丸いシールを貼る。

 それだけで、白い封筒が少しだけよそゆきの顔になる。


 風呂場の方から、湯を抜く音がする。


 私は封筒を鞄の中へしまった。

 今夜はまだ渡さない。明日だ。明日、誕生日の夜に。


 鞄の口を閉じたあとも、指先にはまだ少しだけ熱が残っていた。

 それが恥ずかしいような、うれしいような気がして、私は一度だけ小さく息をついた。


 ***


 布団に入って目を閉じても、鞄の中の封筒の位置だけは、はっきりと分かっていた。


 明日、これを渡す。


 そのあとで、たぶんちゃんと話す。

 手紙だけでは足りないことを、自分の口で。


 まだ何も始まっていないのに、もう明日には戻れない場所まで行くのだと分かる。


 部屋の明かりが落ちたあと、御子神さんが小さく一度だけ鳴いた。

 春の夜のやわらかい空気の中で、私は目を閉じたまま、明日のことだけを考えていた。

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