Side:和葉 2025年3月29日(土)
春休みに入ると、曜日の輪郭が少しだけぼやける。
学校がないぶん朝はゆるい。けれど、昼近くまで寝ていられるかと言えばそうでもなくて、結局いつもより少し遅いくらいの時間に目が覚めた。
顔を洗って戻ると、仕事机に向かったままのいつきさんがコーヒーを片手に画面を見ていた。御子神さんはその足元で丸くなっていて、こちらに気づくと尻尾だけを一度揺らす。
「おはようございます」
「おう。今日は出かけるんだったな」
「はい。歩ちゃんたちと少し」
「了解。昼は向こうで食うのか?」
「たぶん」
「なら夜は家でいいな」
いつもの調子だった。
それがありがたくて、少しだけ苦しい。
テーブルの上には、読みかけの文庫本と、飲みかけのマグカップと、いつきさんのメモ帳。そういう見慣れたものが並んでいるだけなのに、四月一日が近づいているせいか、今日は一つ一つが妙にくっきり見える。
朝食の支度を手伝いながら、私は何度も心の中で言葉を並べてみる。
好きです。
一緒にいたいです。
大事です。
どれも間違っていない気がするのに、どれもそのままだと足りない気がした。
***
駅前で待っていた歩ちゃんは、私の顔を見るなり言った。
「和葉、今日ちょっと固い」
「会ってすぐ言う?」
「だって分かりやすすぎるし」
その隣で、朱鷺子が小さく肩をすくめる。
「緊張してるんでしょ」
「少しだけ」
「少しだけ、で済んでる顔じゃないけど」
「二人とも言い方が雑」
「でも否定はしないんだ」
それを言われると弱い。私は小さく息を吐いて、結局頷いた。
「……まあ、少しは」
「少しどころじゃなさそうだけどね」
歩ちゃんが笑って、私たちは駅ビルの中へ入った。
春休みの土曜だけあって、人は多い。買い物袋を提げた人、友達同士で歩く学生、親子連れ。そんな人の流れに紛れながら歩いているうちに、言い出すきっかけを何度か逃した。
けれど、黙ったままで終われる話でもない。
「で?」
先に切り込んだのは朱鷺子だった。
「何がまとまらないの」
「まとまらない前提なんだ」
「違うの?」
「……違わないけど」
自然と足が少し遅くなる。二人もそれに合わせて歩幅を緩めてくれた。
「言いたいことはあるんだよ」
自分の声が、思っていたより少し小さい。
「でも、いざ言葉にしようとすると全部変になるっていうか。重い気がしたり、逆に軽すぎる気がしたりして」
「わかるー」
歩ちゃんがすぐに頷く。
「頭の中では完璧なのに、実際しゃべると『違う、そうじゃない』ってなるやつ」
「そう。それ」
「じゃあ、もう“好きです”だけでよくない?」
「極端すぎる」
朱鷺子が淡々と言う。
「えー、でも核心はそこじゃん」
「核心しか言わないと、和葉の場合はそのあと詰まるでしょ」
「詰まる」
即答すると、歩ちゃんが「あーあ」と笑った。
駅ビルの奥のカフェは、昼には少し早い時間だったからまだ空いていた。三人掛けの奥の席に座って、飲み物を頼んでからようやく息がつく。
カップが置かれるのを待って、私はもう一度言った。
「気持ちは、もう決まってるんだと思う」
二人とも黙って聞いている。
「でも、それをどう伝えたらいいのかが分からない。助けてもらったことも、感謝してることも本当だし、一緒にいたいのも本当で。どれも本当なのに、並べ方を間違えたら違うふうに聞こえそうで」
「大体さー、普通だったら勝ち確じゃない?」
歩ちゃんがストローをくるくる回しながら言った。
「家庭的で、かわいくて、しかもあれだけ一緒にいてさ。普通ならもうちょっと何かあるでしょ」
「言い方が雑」
「褒めてるんだって」
「でも、弓削さんはそういう単純な人じゃないでしょ」
朱鷺子がカップを持ったまま言う。
「二年一緒に住んで、あれだけ近くにいて、それでも浮ついた態度を一回も見せてないんだから。むしろ鉄壁すぎるくらい」
「それはそうなんだけどさ」
歩ちゃんはまだ納得しきらない顔で、今度は私を見た。
「なんかこう、揺らいだっぽい話とかないの? ちょっと気まずそうだったとか、目そらしたとか」
「……だらしない格好してたら注意はされるけど、特には」
「特には、かあ」
「他は?」
「他って言われても……」
少し考える。
「たまに、間が変なことはある。こっちが変なこと言ったときとか、びっくりしたときとか。でも、それで態度が変わるわけじゃないし」
「うわー、堅い」
「堅いわね」
歩ちゃんと朱鷺子が揃って言って、私は苦笑した。
「でも、だからなんだと思う」
二人が黙る。
「雑に言ってもだめだし、雰囲気で流される人でもないし。……ちゃんと、言わなきゃいけないんだと思う」
そう口にした途端、自分の中でも少しだけ形が見えた気がした。
「全部を一回で言おうとしすぎなのかも」
朱鷺子がそう言って、カップを置く。
「口で言うことと、書いて渡すことを分ける、とか」
その言葉に、歩ちゃんが「あ」と声を上げた。
「手紙ってこと?」
「そう。感謝とか、ここまでの積み重ねとか、順番に伝えたいことは文字の方が向いてる」
「でも、告白を手紙だけで済ませるのは違う」
朱鷺子はまっすぐ私を見た。
「和葉がやりたいの、そういうことじゃないでしょ」
その通りだった。手紙に全部書いて、それで終わりにしたいわけじゃない。
「……うん」
「なら、手紙は補助。気持ちの整理と、口で言う前の準備」
朱鷺子の言葉はいつも通り整理されていて、でも今日は少しだけやさしかった。
「核心は、ちゃんと口で言う。その方が逃げない」
「おお、今日は妙に頼れる」
「いつも頼れるでしょ」
「自分で言うんだ」
歩ちゃんが笑って、私もつられて笑う。
手紙。
口にしてみると、その言葉だけ少し現実味があった。
スマホのメモには何度か書こうとした。けれど、それは考えを置いておくための場所みたいなもので、誰かに渡す形としてはまだ考えたことがない。
「ありかも」
思っていたより自然にそう言えて、自分でも少し驚いた。
「でしょ」
歩ちゃんが身を乗り出す。
「じゃあ文具店行こ。便箋選び、大事だよ」
「急に楽しそう」
「楽しむとこもないとやってらんないでしょ」
「それはそう」
会計を済ませて、私たちはそのまま文具店のフロアへ向かった。
***
新学期前の文具店は、棚の色がいつもより明るい。
ノートやファイル、ペンの棚を抜けた先に、便箋と封筒のコーナーがあった。
歩ちゃんは着くなり花柄のものを手に取る。
「これかわいい。春っぽい」
「かわいすぎる」
朱鷺子が即答する。
「えー、いいじゃん」
「弓削さんに渡すんでしょ。最初にそこへ目が行く」
「じゃあこっちは?」
「今度は地味すぎる」
「注文多いなあ!」
二人のやり取りを聞きながら、私は棚の前をゆっくり歩いた。
白地のもの。淡い水色の縁取りがあるもの。右下に小さな花が入っているもの。どれも少しずつ違って、どれを選ぶかで、自分がどう伝えたいのかまで問われている気がした。
その中で、ふと目に留まるものがあった。
白に近い生成りの便箋で、右下にだけ小さな猫のシルエットが入っている。ぱっと見はほとんど分からないくらい控えめで、でも、そこだけ少しだけやわらかい。
「和葉は?」
歩ちゃんに聞かれて、それを手に取った。
「これ、かな」
「お、いいじゃん」
歩ちゃんが覗き込む。
「かわいすぎないし、地味すぎない」
「それに猫」
朱鷺子が言う。
「よく見ると、くらいなのがちょうどいい」
「……うん」
たぶん、そういうのがよかった。
大げさじゃなくて、でも何もないわけでもないもの。
便箋と封筒のセットを一つだけ買う。
レジ袋に入れてもらったそれは軽いはずなのに、手に持つと少しだけ重く感じた。
まだ何も書いていない。
でも、もう“書くかもしれない”では済まなくなっているのが分かる。
店を出たあと、歩ちゃんが横から袋を覗き込んだ。
「なんか急に現実味出るね」
「……うん」
「今日書くの?」
その問いに、私は少しだけ考えてから首を振った。
「まだ分からない。でも、書く」
言ってしまうと、それだけで少しだけ後戻りしにくくなった。
朱鷺子が頷く。
「それでいいでしょ。今日全部やろうとしなくていい」
「うん」
「あと、変にうまいこと書こうとしないこと」
「そこも大事だよね。和葉、真面目すぎて文章固くなりそうだし」
「それは……否定できない」
また笑いが起きて、その空気に少しだけ助けられる。
***
夕方、家に帰る。
玄関を開けると、いつもの匂いがした。
どこかほっとするような、夕飯前の家の匂い。
「ただいま」
「おかえり」
仕事机の方から声が返ってくる。
それだけで、胸の奥が少しあたたかくなる。
買ってきた便箋の袋を、ほかの買い物とは別に鞄の奥へ入れたまま、私はいつも通り手を洗って、上着を脱いだ。御子神さんが足元に寄ってきて、少しだけ匂いを嗅ぐ。
「今日は早かったな」
「歩ちゃんたちと少し話して、そのあと文具を見てきました」
「新学期前か」
「そんな感じです」
嘘ではない。
でも、本当のことを全部言っているわけでもない。
そのことに少しだけどきりとしながら、私は買ってきたものを片づけるふりをして、鞄をそっと布団の近くへ寄せた。
夕飯の支度をしているあいだも、ずっと袋の存在が気になった。
白い紙の束が布越しにそこにあるだけで、部屋の空気が少し違って感じる。
でも、さすがに今ここで広げる気にはなれない。
同じ部屋にいつきさんがいる。
仕事机の方ではキーボードを打つ音がして、台所では鍋の蓋が小さく鳴る。何でもない音ばかりなのに、それを聞いているだけで、まだ白紙の便箋を出すには近すぎる気がした。
夕飯を食べて、食器を片づけて、いつも通りに夜が進む。
特別なことは何もない。今日もちゃんと、平凡な一日だった。
それなのに、胸の内側だけが落ち着かない。
***
寝る前、布団のところに戻ってから、鞄の中の小さな袋を取り出した。
便箋の束は、買ったときのままきれいに揃っている。
封筒も、まだぴたりと重なったままだ。
封を開けるだけ開けて、また閉じる。
それだけで、心臓が少し速くなった。
今夜はまだ書けない。
でも、書かないままにもしておけない。
私は便箋を引き出しの奥にはしまわず、手が届きやすい場所に置いた。
明日になれば、たぶんまた迷う。うまく言葉にならないかもしれない。書き出しで止まるかもしれない。
それでも、書く。
白い紙を前にすると、それがようやく本当のことみたいに思えた。
布団に入って目を閉じても、引き出しの中の便箋の位置だけは、はっきりと分かっていた。
まだ一文字も書いていないのに、もう後戻りはできない気がした。




