Side:和葉 2025年3月24日(月)
春休みに入って最初の月曜は、思っていたより静かだった。
学校がないぶん朝は少し遅い。
でも、だからといって昼近くまで眠っていられるかと言えばそうでもなく、結局いつもより少しだけ遅く起きるくらいで落ち着く。
顔を洗って戻ると、こたつの上に買い物メモが置かれていた。
横では、いつきさんが冷蔵庫を開けたまま中を見ている。
「卵が切れてる。牛乳もそろそろないな」
「味噌も少なかったです」
「じゃあ今日は買い出しか」
そう言って、いつきさんはメモに二つ三つ書き足した。
仕事の日より少しだけ肩の力が抜けている。私が家にいる時間が長くなったせいか、春休みに入ってからはこういう何でもない確認が少し増えた気がした。
「昼食べたら行くぞ」
「はい」
返事をして、私はそのメモをもう一度見る。
卵、牛乳、味噌、豚こま、玉ねぎ、キャベツ。どれも普通の生活に必要なものばかりで、変に安心する。
特別なことなんて、今日は何もない。
――そう思っていた。
***
午後のスーパーはそこそこ混んでいた。
春休みのせいか、学生っぽい子や親子連れの姿も多い。カートを押しながら店内を回って、メモに書かれたものを順番にかごへ入れていく。卵の値段を見て、いつきさんが小さく眉をひそめた。
「また上がったな」
「最近ずっと高いですね」
「鶏も大変なんだろうな」
「そこに同情するんですか」
「一応な」
真顔で返されて、少しだけ笑う。
野菜売り場を抜けて、肉と魚の売り場を見て、レジに向かう――そのつもりだったのに、今日はそのまま上の階まで足を伸ばした。
「洗剤も切れそうだったし、ついでに見てくか」
「はい」
同じ建物の上階には、文房具や日用品も並んでいる。新学期前だからか、ノートやペンのコーナーがいつもより目立つ場所に置かれていた。
「新しいの、いるか?」
いつきさんの声で我に返る。
「え」
「ノートとか、細かいもん。始業式も近いだろ」
「あ……そうですね。帰ったら一応確認します」
「今見といてもいい。春休みのうちに足りないもん揃えといた方が楽だろ」
そう言われて、文房具売り場をゆっくり眺める。
ルーズリーフ、リングノート、付箋、ペンケース。新しい学年の始まりをそのまま棚に並べたみたいだった。
必要なものはある。
あった方が便利なものも、たぶんある。
でも、誕生日に欲しいものとして思い浮かぶかと言われると、どれも少し違う気がした。
その感覚をうまく言葉にできないまま、視線だけが棚の上を滑っていく。
「そういえば」
「はい?」
「誕生日、何か欲しいものあるか」
心臓が、一拍だけ変な跳ね方をした。
あまりに普通の調子だったから、余計に息が止まりかける。
「……欲しいもの、ですか」
「近いだろ。今なら別に急がなくて済むし、欲しいもんがあるなら先に聞いとこうかと思って」
欲しいもの。
目の前にはノートも、マグカップも、ハンカチも、何でもあるのに、どれも違う気がした。
本当に欲しいものは、こんなふうに棚には並んでいない。
「……特には」
少しだけ間が空いてから、私はそう答えた。
「本当か?」
「はい。今のところは」
視線を棚に残したまま言うと、いつきさんは少しだけ困ったように笑った。
「そういう“何でもいい”が一番困るんだけどな」
「すみません」
「謝る話でもないが」
そのまま歩き出してから、いつきさんは前を向いたまま続けた。
「まあ、思いついたら言え。物でも、食いたいもんでも」
「……はい」
少しだけ迷ってから、私は聞き返した。
「誕生日、どうするつもりなんですか」
「どうする、って?」
「その……当日」
「飯は家で少しだけいいもん作る。ケーキも用意する。それで十分だろ」
あっさりした言い方だった。
でも、その中に変な軽さはない。大げさにしないだけで、ちゃんと覚えてくれているのが分かる。
「外の方がいいなら考えるけど」
「家がいいです」
ほとんど反射みたいに答えていた。
すぐに顔が熱くなる。
でも、いつきさんは特に気にした様子もなく頷く。
「じゃあ家だな」
「はい」
「食いたいもんは?」
また同じ問いが来る。
今度は欲しいものではなく、食べたいもの。
それでも答えようとして浮かぶのは料理の名前じゃない。
「……あんまり、思いつかなくて」
「お前、今日それ多いな」
「すみません」
「だから謝るなって」
呆れたように言いながら、いつきさんは洗剤をかごに入れた。
「まあいい。ケーキは近くなってから考える。飯も俺の方で候補は出しとくから、嫌なのだけ弾いてくれ」
「その方式なんですか」
「その方が早い」
少しだけ笑ってしまう。
いつきさんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
そのやり取りが、たまらなく好きだと思った。
何でもないみたいに買い物をして、何でもないみたいに誕生日の話をする。そういう時間が、胸の奥に静かに残っていく。
だから余計に困る。
本当に欲しいものを、私はまだ一度も言えていない。
***
帰ってから、買ってきたものを二人で片づけた。
冷蔵庫に野菜を入れて、ストック棚に味噌をしまって、洗剤を洗面所へ運ぶ。御子神さんが足元をうろうろして、買い物袋の匂いを嗅いでは興味なさそうに去っていく。
「お前のは入ってないぞ」
いつきさんが言うと、御子神さんは一度だけ尻尾を揺らした。
「わかってる顔ですね」
「どうだかな。猫は都合のいいとこだけ理解するから」
そのやり取りも、いつも通りだった。
夕飯は、買ってきたキャベツと豚肉で回鍋肉になった。
味噌汁と、小鉢が一つ。豪華ではないけれど、ちゃんと整った食卓だった。
向かい合って食べながら、さっきの話が頭の隅に残り続けている。
「誕生日、飯は何系がいい」
不意にまた聞かれて、箸が少し止まった。
「何系、ですか」
「肉でも魚でも。和でも洋でも。外食じゃなくて家なら、そのつもりで考える」
「……家がいいです」
「それはさっき聞いた」
「ですよね」
自分でもおかしくなって、少し笑う。
いつきさんは味噌汁を一口飲んでから、軽く息をついた。
「じゃあ、そっちは確定な。あとは中身だけ考えといてくれ」
「はい」
「ケーキはどうするかな……予約するほどのもんでもないか」
「お任せします」
「それも便利な言葉だな」
少しだけ笑ってしまう。
いつきさんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
この空気が好きだと思った。
胸が焼けるみたいな激しさじゃない。代わりに、食卓の湯気みたいに静かで、でも確かにここにあるぬくもりだった。
もっと分かりやすい恋も、たぶんあるんだと思う。
会えないだけで苦しくなるとか、顔を見るだけで頭が真っ白になるとか。そういうのを否定したいわけじゃない。
でも、今の私の中で大きいのは、そういう熱さだけじゃない。
同じ部屋でごはんを食べて、何でもない話をして、その時間にほっとしてしまうこと。そういうものの方が、気づけばずっと大きくなっていた。
それだけなら、ただ安心できる場所を手放したくないだけだと思われるかもしれない。
でも、違うとも思う。
安心できる相手なら、もう私には何人かいる。
遥さんも、東海林さんも、歩ちゃんも、朱鷺子も、今の私をちゃんと知ってくれている。話していて落ち着く人は、もう一人じゃない。
それなのに、その先を欲しくなるのがいつきさんだけなのは、たぶんそれだけじゃない。
買い物袋を持つ手つき。
ぶっきらぼうな返事のくせに、最後はちゃんとこちらの様子を見ているところ。
家がいいと答えたとき、変に茶化さず、そのまま受け取ってくれたこと。
そういう一つ一つが、少しずつ、でも確かに好きだった。
***
夜、寝る前にスマホを手に取る。
メモ帳の白い画面がひらく。
欲しいもの。
そう打ちかけて、指が止まる。
物なら、本当は何でもよかった。
ハンカチでも、ペンでも、きっと嬉しい。
祝ってもらえること自体が、もう十分に特別だから。
じゃあ、欲しいものは何なのか。
――分かっている。
でも、それは欲しいと思っただけで届くものじゃない。
まずは、こっちから伝えなきゃいけない。
その先で、相手が考えて、選ぶものだ。
欲しいもの。
その下に、少し迷ってから続けた。
ものじゃない。
打ち込んだ文字を見て、すぐには消せなかった。
窓の外は、もうすっかり春の夜だった。
閉めたカーテンの隙間から、街灯の淡い光が細く差し込んでいる。
誕生日まで、あと少し。
欲しいものをまだ言えないままなのに、言いたいことだけは、もうごまかしきれなくなっていた。




