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Side:和葉 2025年3月15日(土)②

 ファミレスを出ると、夕方の空気は思っていたよりやわらかかった。

 駅前の通りにはまだ人が多く、買い物帰りの袋が揺れ、信号の電子音が一定の間隔で鳴っている。


 歩ちゃんがスマホを見ながら声を上げた。


「返信、早っ。さすが弁護士」


「たまたま手が空いてただけじゃない?」


「いや、“今なら事務所にいます”って返しがもうそれっぽいんだって」


「それっぽいって何よ」


 歩ちゃんの言い方に少しだけ笑う。

 けれど、笑ったあとで胸の奥がまた静かに落ち着かなくなった。


 これから会うのは、小鳥遊さんだ。


 義父の件で動いてくれた人。児相や東海林さんたちと話が進む中で、法律の話が必要な場面ではいつもその名前があった。私にとっては、ただの知り合いじゃない。あの時期を越えるために助けてもらった、恩人の一人だった。


「緊張してる?」


 朱鷺子が横目で見る。


「少しだけ」


「少しだけって言えるなら、まだ大丈夫」


「判定が雑じゃない?」


「歩よりは精密」


「ひど」


 二人のやり取りの間にいると、呼吸が少しずつ整っていく。


 駅前から一本外れた通りに入ると、人通りは少し落ち着いた。雑居ビルの三階。小さな案内板のひとつに、小鳥遊の名前がある。階段を上がる途中で、歩ちゃんが小声で言った。


「ほんとに来ちゃった」


「来る流れにしたのはあなたでしょ」


「分かってるけど、いざ着くとちょっとさ」


 最後の一段を上がって、私は小さく息を吸う。

 朱鷺子がさりげなく背中を押した。


「相談しに来たんだから、遠慮する意味はないでしょ」


「うん」


 インターホンを押すと、すぐに扉の向こうで足音がした。


 開いたドアの向こうに立っていた小鳥遊さんは、前に会ったときと変わらず、きちんとしたシャツにジャケット姿だった。眼鏡の奥の目がこちらを見て、それから三人分の顔を順に見渡す。


「どうぞ。立ち話でもないでしょう」


 通された部屋は、思っていたよりこぢんまりとしていた。壁際に本棚と書類棚。打ち合わせ用らしい丸テーブル。観葉植物がひとつ置かれていて、法律事務所と聞いて想像していたより息がしやすい。


 席を勧められて座ると、小鳥遊さんは向かいの椅子に腰を下ろし、私たちを見渡した。


「なるほど。先輩、普段こんな子たちに囲まれてるんですか。普通に羨ましいですね」


「そこ、羨ましがるところなんですか?」


 歩ちゃんが半分笑いながら返す。


「ええ。仕事に追われている身としては、青春の気配そのものが貴重なので」


「でも、小鳥遊さんの方が引く手数多では?」


 朱鷺子がさらっと言う。


「何年も仕事が恋人ですが?」


「意外ー。ぱっと見、モテそうなのに」


 歩ちゃんが素直に言うと、小鳥遊さんは即座に返した。


「出た。女性の言う“モテそう”ほど信用できない言葉はないんですよ」


「すごい。実感こもってるわね……」


「経験に裏打ちされたコメントです」


「自慢にならないやつだ」


 歩ちゃんが吹き出して、私もつられて少しだけ笑った。


 その空気を見てから、小鳥遊さんは小さく肩をすくめる。


「まあ、冗談はこのくらいにして」


 軽く頭を下げる。


「改めて。小鳥遊です。弁護士をしています。――美作さんとは、以前の件で」


「はい。あのときはお世話になりました」


「いえ。ちゃんと礼を言われるほどのことはしていません」


 そう言ってから、小鳥遊さんはスーツの内ポケットに手を入れた。


「初対面のお二人には、一応こちらを」


 差し出された名刺を、歩ちゃんと朱鷺子がそれぞれ受け取る。


「結城歩です!」


「鷺沢朱鷺子です」


「ありがとうございます」


 歩ちゃんは名刺を見て、妙なところで感心した声を出した。


「わ、ほんとに弁護士さんだ」


「今さら何だと思ってたの」


 朱鷺子は名刺に視線を落としたまま言う。


「肩書きで聞くのと現物もらうのって違うじゃん」


「現物って言い方はやめてもらえますか」


 小鳥遊さんが静かに突っ込んでから、テーブルの上で手を組んだ。


「今日は三人で来たということは――先輩絡みで、それなりに大事な相談、という認識でいいですか?」


 私は膝の上で指を組んで、頷いた。


「はい」


「話せる範囲で結構です。何を確認したいのか、まずはそこから聞かせてください」


 視線はやわらかいのに、逃げ場はない。

 仕事の顔、なんだと思う。


 私は一度だけ唇を結んでから、口を開いた。


「……いつきさんに、自分の気持ちを伝えたいと思っています」


 歩ちゃんも朱鷺子も、今は何も挟まなかった。

 ただ、横にいてくれる気配だけがある。


「ただ、今の私といつきさんの関係だと、それをしていいのか分からなくて」


「“今の関係”というと、同居していて、保護者に近い立場だったこと、でしょうか」


「はい」


 朱鷺子が続ける。


「今はまだ未成年です。四月一日に十八になりますが、その日に伝えるとしても、問題がないとは言い切れない気がしていて」


 そこで私は、小さく息を吸った。


「法的なことを聞きたいのもありますけど……それだけじゃなくて」


 三人の視線が向く。


「小鳥遊さん、いつきさんのこと、昔から知ってますよね」


「ええ」


「地元からの付き合いですし、ご両親以外なら、たぶん一番長いですね」


 小鳥遊さんは少しだけ表情を和らげた。


「だから、来ました」


 言ってしまうと、それは思っていたよりずっとまっすぐな言葉だった。


 法律の話だけなら、たぶん他の弁護士でもよかったのかもしれない。

 でも、今知りたかったのはそれだけじゃない。いつきさんが、こういうことにどう向き合う人なのか。その輪郭も知りたかった。


 小鳥遊さんは少しだけ目を伏せ、それから静かに頷いた。


「……分かりました。その前提で整理します」


 机の上で指を組んだまま、小鳥遊さんは淡々と続けた。


「まず、美作さんは現時点ではまだ未成年です。ですから、“今この瞬間の話”と“四月一日以降の話”は分けて考えた方がいい」


「はい」


「で、相談の本題は後者ですね。四月一日に十八歳になったあと、気持ちを伝えるべきかどうか」


「……はい」


「そこについて言えば、まず前提として、十八歳になれば法的には成人です。ですから、年齢だけを理由に“それだけで即問題”という話にはなりません」


 ほんの少しだけ肩の力が抜ける。

 けれど、小鳥遊さんはすぐに次を続けた。


「ただし、それで全部片付くほど単純でもありません。美作さんが弱っていた時期を知っている。生活を支えてきた。今も同じ家で暮らしている。そういう条件が揃っている以上、先輩の性格からすると、まず“自分が受け取っていいのか”で立ち止まると思います」


 その言葉は、ぼんやりしていたものに形を与えた。


 迷惑かもしれない。困らせるかもしれない。

 そう思っていたけれど、それだけじゃない。


 いつきさんは、自分がずるい立場に立っていないかを気にする。

 そういう人だ。


「……それは、分かる気がします」


 思ったことがそのまま口に出た。


「ただ、そこで立ち止まる人だからといって、何も伝えないままが正解とも限りません」


 小鳥遊さんは私に視線を向けたまま言う。


「先輩の方から結論を取りにいくことは、たぶんないでしょうから」


 朱鷺子が口を開く。


「では、告白すること自体は間違いではない?」


「間違いとまでは言いません。むしろ、伝え方の問題です」


「伝え方」


「その場で返事を求めないこと」


 小鳥遊さんは一本、指を立てた。


「まずそれが一つ」


「……はい」


「次に、恩義や依存だけに見える言い方をしないこと」


 その言葉に、喉の奥が少し熱くなる。


「助けてもらったから好き、良くしてもらったから好き。それが気持ちの一部であること自体は不自然ではありません。ですが、そこだけで伝えると、先輩は余計に引きます。“それは恋愛感情ではなく、もっと別のものなんじゃないか”と真面目に考え始めるはずです」


「では、どう言えばいいんでしょう」


 私が聞くと、小鳥遊さんは少しだけ視線をやわらげた。


「今の先輩を見て好きだと。守ってくれたからではなく、そのあと積み重ねてきた時間の中で好きになったのだと。そこは分けて伝えた方がいいでしょうね」


 助けてもらったからだけじゃない。

 それは最初のきっかけでしかなくて、今の私はそれだけで立っているわけじゃない。


 ごはんのこと。

 帰ってきたときの声。

 私が何か言う前に、少しだけ待ってくれるところ。

 ぶっきらぼうなのに、ちゃんと見てくれているところ。


 好きな理由は、もう一つじゃない。


「それと?」


 朱鷺子が促す。


「相手の懸念を理解していることを、ちゃんと示すことです」


「困らせるかもしれない、ということですか」


 今度は私が聞く。


「ええ。困らせるかもしれない。すぐに答えを出せないのも分かっている。そのうえで、それでも伝えたいのだと。そこまで言われれば、先輩も“聞く”ところまでは逃げません」


「なるほど」


 歩ちゃんが腕を組む。


「難しい話してるけど、要するに雑に突っ込むなってことだね」


「ものすごくざっくり言えばそうです」


「わかりやすい」


「結城さんは翻訳係に向いてますね」


「でしょ?」


 少しだけ笑いが起きる。


 その軽さに助けられながら、私は自分の中の言葉を探した。


「……私、待っているだけじゃだめだと思ってました」


 三人の視線が向く。


「でも、勢いのまま言ってしまうのも違う気がしていて」


 膝の上の指先に少し力が入る。


「ちゃんと隣にいたいんです。守ってもらうだけじゃなくて。――その気持ちを、いつきさんにも分かる形で伝えたい」


 一度息を継いで、続けた。


「迷惑をかけたくない気持ちもあります。でも、なかったことみたいに黙っているのも違うと思いました」


 口にした途端、恥ずかしさより先に息がしやすくなった。


 歩ちゃんが小さく、でもはっきり頷く。

 朱鷺子も、余計なことは言わずにこちらを見ていた。


 小鳥遊さんは静かに言った。


「それなら、伝える意味は十分あります」


「じゃあ……四月一日でも、いいんでしょうか」


 自分で思っていたより、声はぶれなかった。


「一番波風が少ないのは卒業後でしょう。ですが、十八歳になる日を選ぶことにも意味はあります。節目に言葉を置くのは、悪いことではありません」


「……はい」


「ただし、“今日から恋人になってください”と結論まで一気に求めるのは勧めません。まず伝える。受け取ってもらう。そのうえで、返事は急がせない」


「そこは大事ね」


 朱鷺子が言う。


「うん」


 私も頷く。


 そうしたかった。

 たぶん最初から、そうしたかったんだと思う。


 気持ちをなかったことにはしたくない。

 でも、いつきさんを追い詰めたいわけでもない。


「いやー、ほんとすごい」


 歩ちゃんが感心したように言う。


「ここまで論理的に色恋の話できるのに、モテないんですか?」


「その二つに相関があると思っている時点で、だいぶ雑ですよ」


「ないの?」


「ありません。整理できることと、当事者として上手くやれることは別です」


「説得力あるような、ないような」


「ちなみに今のは、弁護士としての整理と、先輩の性格を踏まえた推測です。恋愛相談の専門家ではないので、過信はしないでください」


「最後にちゃんと線引きするあたりは信用できる」


 朱鷺子が言うと、小鳥遊さんは肩をすくめた。


「そこだけで食べていますので」


 そこで一度、小鳥遊さんは小さく息を吐いた。


「……というわけで、法的に一刀両断できる話ではありません。ただ、先輩が慎重になる理由はかなりはっきりしている」


 小鳥遊さんはそこで一度言葉を切り、わずかに苦笑した。


「理屈で言えば面倒くさいんですが、昔からああいう人なんですよ」


「高校の頃から世話になってますし、そういうところも含めて尊敬しています」


「へえ」


 歩ちゃんが身を乗り出す。


「しています。していますけど」


 一拍。


「それはそれとして、こんなにちゃんとした子たちに囲まれて、当人が飄々としてるのは少々腹が立ちますね」


「そっち?」


 歩ちゃんが吹き出した。


「そっちです。なので」


 小鳥遊さんは私を見る。

 仕事の顔ではなく、少しだけ年上のお兄さんみたいな顔で。


「せいぜい困らせてやってください。今回の相談料は、それで結構です」


「安っ」


「私情が混ざりすぎね」


「弁護士にも人間らしい一面はありますので」


 私は思わず笑って、それから頭を下げた。


「……ありがとうございます」


「いえ」


 小鳥遊さんは一度だけ視線を落としてから、改めて私を見る。


「一つだけ、最後に。先輩はちゃんと向き合います。ただ、答えを出すまでに時間がかかるでしょうね。そこは急がせない方がいい」


 その言葉に、胸の中のざわつきが少し静かになった。


「……はい」


「それで十分です」


 小鳥遊さんはいつもの調子に戻る。


「では、本日はこのあたりで。気をつけてお帰りください」


「ありがとうございました!」


 歩ちゃんが元気よく言い、朱鷺子も軽く会釈する。

 私も最後に頭を下げて、扉のところで一度だけ振り返った。


「小鳥遊さん」


「はい?」


「……ちゃんと、考えて言います」


 自分でも少し驚くくらい、声は落ち着いていた。


 小鳥遊さんは小さく目を細める。


「それがいいでしょう」


 ***


 廊下に出ると、事務所の中より少しだけ空気がひんやりしていた。

 階段を下りながら、歩ちゃんが先に口を開く。


「いやー、弁護士すごいね。ちゃんと難しいこと言ってるのに、たまに変なこと混ざる」


「変なことではなく、本音でしょうね」


 朱鷺子が言う。


 ビルを出ると、通りの向こうに夕方の光がまだ少し残っていた。駅前の看板に順番に明かりが入っていく。


「……弁護士の名刺まで手に入ったし、収穫としては十分ね」


「まだ言うんだ」


 歩ちゃんが呆れたように言って、でもすぐに吹き出す。


 つられて、私も少しだけ笑った。


「でも、まあ」


 朱鷺子が今度はちゃんと私を見る。


「目的は果たせたでしょう。何が問題で、どう伝えるべきかは、だいぶ整理できたもの」


「うん」


 歩ちゃんも頷く。


「来たときより全然いい顔してる」


 私は鞄の持ち手を握り直した。

 指先は少し冷えているのに、頭の中は不思議なくらい静かだった。


「……たぶん」


 答えると、二人はそれ以上は言わなかった。

 その代わり、少しだけ歩幅を合わせてくれる。


 駅前の風が、コートの裾を軽く揺らした。

 ポケットの中のスマホはまだ温かいままで、四月一日までの残りの日数だけが、画面の向こうで静かに並んでいた。

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