第9話 検診の朝と、遠ざかる鈴の音
翌朝。目を覚まして最初に脳裏に浮かんだのは、昨日見つけたあの図面には存在しない巨大な鉄扉のことだった。
公式の記録には影も形もない。けれど、あの暗がりの奥に確かに存在している。鍵穴の周囲だけ埃や煤が薄くなっていたということは――今この瞬間も、誰かが秘密裏にあの扉を使っている証拠だ。
あの先に一体何があるのか。外の世界へと繋がっているのか。そして、どうやってあの重厚な鍵を手に入れればいいのか。考えるべきことは山ほどあった。
なのに――その日は、そんな思案に耽る余裕などどこにもなかった。
◇
ゴォン――。
朝の食堂に、いつもより一つ多く重厚な鈴の音が鳴り響いた。
その瞬間、雑多な熱気に包まれていた食堂の空気が、まるで凍りついたように一変した。
「……検診か」
カザンさんがぽつりと呟く。僕は何も答えなかった。
今日がその日であることは最初から分かっていた。忘れていたわけでもない。ただ、直前まで考えないように深く意識の奥底へ押し込めていただけなのだ。
「行くぞ」
ダグさんがゆっくりと立ち上がる。それを皮切りに、食堂にいた労働者たちも吸い寄せられるように次々と席を立った。誰も口を開かない。全員が重い足取りで列を作り、検診室へと向かって歩き出す。
カザンさん、ダグさん、レンさん、そして僕。
いつもの四人で並んで歩く中、レンさんだけが妙に落ち着きのない様子で、前を行く人の背中をじっと見つめていた。
「レンさん」
「ん?」
「さっきから右足が小刻みに動いていますよ」
「そりゃ緊張してんだよ……」
「そうですか」
「ユウは平気なの?」
「平気なわけがありません」
「相変わらずまったく顔に出ねえなあ……」
「レン」
前を歩いていたカザンさんが振り返り、低い声で鋭く一言。
「静かにしろ」
「はいはい……」
列がじわじわと前へ進んでいく。
一人、また一人と重い扉の向こうの検診室へ吸い込まれ、やがて青ざめた顔で戻ってくる。
そして、ついに僕の番がやってきた。
「次」
名前を呼ばれ、部屋の中へと足を踏み入れる。
質素な木製の机、無感情に筆を走らせる記録係、壁際に佇む衛兵。そして、何に使うのかも分からない冷ややかな金属器具の数々。
「腕を出せ」
言われるがまま腕を差し出すと、冷たい金属の輪が皮膚に固く巻きつけられた。
不気味な針がカチカチと動き、記録係が手元の紙に何かを書き込んでいく。続いて目、喉、手、体重の計測。いくつかの無機質な数字が読み上げられ、最後に検査官の男が手元の羊皮紙へと視線を落とした。
そのわずか数秒間が、呼吸もできないほどひどく長く感じられた。
「……三番炉、ユウ」
「はい」
「継続」
ただ、それだけだった。
「次」
部屋を押し出されるようにして廊下へ出た瞬間、僕は深く呼吸を吐き出した。無意識のうちに息を止めていたらしい。
少し離れた場所で待っていたカザンさんと視線が交差する。
「どうだった」
「継続です」
「そうか」
「カザンさんは?」
「同じだ」
その一言を聞いて、少しだけ肩の緊張がほぐれた気がした。
続いてダグさんが部屋から出てくる。
「継続だ」
そして最後、レンさんが入った部屋の扉が開いた。
「……ふぅ、生還したよ」
「大げさです」
「いや、何度受けても怖えってあれは。心臓に悪い」
「で、結果は?」
「継続」
四人。
僕たちの誰一人として『消耗』とは呼ばれなかった。
「……よかった」
僕は胸を撫で下ろし、小さく呟いた。
「まだだ」
カザンさんが硬い声で言う。
「え?」
彼が示した視線の先では、検診室の扉の前にまだ長い列が伸びていた。
僕たちが助かったからといって、この地獄のような選別が終わったわけではないのだ。
◇
その日の夕食時。
チリン――。
不意に、あの乾いた不快な音が食堂の中に響き渡った。
僕の手がピタリと止まる。恐怖のあまり、一瞬だけ呼吸の仕方を忘れそうになる。
一。
二。
三。
床の感触、壁の質感、炉の重低音、今ここにいる自分。心の中で数え上げ、なんとか意識を今繋ぎ止める。
重い鉄扉が開き、入ってきた衛兵が手に持った羊皮紙を見つめた。
「五番炉――」
僕は思わず無意識にカザンさんの顔を見た。
違う。僕たちの三番炉ではない。
「――ボルグ」
食堂の奥で、一人の男がゆっくりと顔を上げた。
名前は知っている。けれど話したことはほとんどない、五番炉で働いている僕たちよりずっと年上の労働者だ。
「立て」
男は何も言わなかった。
持っていた木椀をそっと置き、静かに立ち上がる。衛兵がその細い腕を強引に掴んでも、何の抵抗も見せない。
そのまま引きずられるようにして歩き、僕たちのすぐ横を通り過ぎていく。
一瞬だけ、彼と目が合った。
ただ、それだけだった。
重い鉄扉が閉まり、遠ざかっていく鈴の音が小さく響く。
チリン。
チリン。
静まり返っていた食堂に、少しずつ元の雑多な音が戻ってくる。
僕は木匙を持ったまま、指一本動かすことができなかった。
「ユウ」
カザンさんの低い声が響く。
「……はい」
「食え」
「はい……」
返事はしたものの、すぐには匙を動かせそうになかった。
今日、僕たちは呼ばれなかった。
四人とも生き残り、明日を迎えることができる。
けれど、それは「誰も選ばれなかった」という意味ではない。
そして――次の検診で、自分たちが選ばれないという保証など、どこにも存在しないのだから。




